10. その紙には、朝が書いてございません
十一月十日。朝、薄い霜を踏んできた使いが、王都からの布告を店先へ置いていった。まだ火の回りきらない店では、封蝋の赤だけが妙に鮮やかである。
縁組所が釣書の様式を定めたという。家名、畑の枚数、持参金の額。まっすぐ引かれた欄はその三つだけで、余白まで見張るような字で、暮らしの記述を書いてはならない、とある。
この決まりが掛かるのは、王都の縁組所を通る縁だけである。この村の縁は、所を通らない。縁とは仲立ちを通すもの、そしてこの領の仲立ちは私だ。つまり、紙の向こうの決まりで済む――はずだった。
書いてはならない例まで、親切な顔をして律儀に並んでいる。その一つ目には、見覚えのある言葉が堂々と載っている。
『この家は酒』
私の帳面の一行である。二十年、書き足す必要のなかった一行が、いまは書いてはならない例として、王都の紙の上に私の知らない顔で座っている。紙をつまむ指先から、じわじわと温かさが逃げていく。冷たいのは指か、紙か。朝の店はまだ火が弱く、もうどちらとも分からない。
この一行を書いた日のことは、よく覚えている。十八の年の冬。私はまだ、断るという仕事が、断られた人の耳にいつまで残るのかを知らなかった。自分のために書いた紙が二十年たって、王都から名指しで禁じられるとは、そのときの私に告げても、きっとポカンとしただろう。
◇
その足で、焼きたての麦と薪の匂いが混じる〈麦の穂亭〉の板場へ寄る。アンリさんがいる。二十八。畑の三男で、十年前に空いた家を借りたいと言っている。毎朝ここでパンを受け取るそうで、几帳面に畳んだ紙を卓の上へ置き、その角を木目にぴたりと合わせている。
板場にはジャンヌさんがいる。二十二。同じく十年前に空いた家の娘で、その家は広場の向こう側にある。年季が明け、奉公先から戻ってきたばかりだという。竈の前で袖をまくり、湯気の向こうからでも、こちらの話がひとこと残らず届く近さに立っている。
「これが、わたしの釣書でいらっしゃいまして。前から書いてはおりましたが、額の欄が空でございましたので」
「どちらのお嬢さまでございますか?」
「リュセの粉挽きの家の娘さんです。あちらは額が書けますので、王都へも出せると聞きまして」
この人は、今朝の布告をまだ知らない。知らないまま差し出したこの人の選び方が、王都では今朝から正しいことになった。紙の上だけなら、どこへ出しても通る選び方である。
王都へ出した縁のほうが確かだと、この人は思っているらしい。十年、村の縁が一つも動かなかった土地である。遠くの役所の紙のほうが、自分の目より頼もしく見えても、責める気にはなれない。
「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「わたしです。日の出に。手は鋤でございます」
答えるあいだも、紙の端を指で揃え続けている。きれいに揃え終えたのに、また一度、同じところを撫でるように揃え直す。指先だけが、本人より先に迷っている。
「お困りのときは」
「領主さまでいらっしゃいます。空き家のことは、あの方がご差配をなさられますゆえ」
竈のほうで、湯の吹く音がふいに小さくなる。蓋をずらす音がして、湯気の向こうで息を吸う気配がする。それから、待ちきれなかったように声が飛んでくる。
「アンリさん、その紙なに。役所のやつ?」
「縁の紙でございます」
「へえ。あんた、そんな喋り方だっけ?」
アンリさんの耳にさした赤みは見なかったことにして、私は板場のほうへ向き直る。
「そちらの方は、朝はどうなさいます?」
「マルティーヌさん、あたし? 夜通しだよ。手は竈。宿の火は夜のうちに落とさないから。困ったときは領主さま。奉公から戻ったばっかりで、この村に貸し借りが無いから」
アンリさんが、ようやく紙から目を上げて竈の前を見る。ジャンヌさんも、蓋を持ったままこちらを見ている。二人とも、いまは相手の答えを途中で切らず、最後まで聞いている。竈の火が低い天井を赤く照らし、同じ壁の上では、揺れる影だけが当人たちより気安く並んでいる。
午後、パンの匂いも湯気も薄れた同じ卓で、私はその紙を彼へ返す。紙の角は、朝と同じようにきっちり揃っている。
「その紙には、朝が書いてございません」
「……額は、書いてまいりましたが」
「額は書いてございます。ですが、リュセのお嬢さまがいつ起きて、何を持って、困ったときに誰へおっしゃるかが、どこにも書いてございません。ですから、この縁は、お断りになったほうがよろしゅうございます」
「決まりどおりに書いてまいりましたが」
「様式どおりでございます。そこが困るのでございます」
◇
夕、広場に長い影が伸びるころ、私はアンリさんとジャンヌさんを向かい合わせる。アンリさんは土の匂いを、ジャンヌさんは薪の匂いをまとい、どちらも相手より私の顔を熱心に見ている。
「日の出と夜通しでございます。鋤と竈でございます。お困りのときは、お二人とも領主さまでいらっしゃいます」
「あたし、そこは同じなんだ」
「同じでないと、持ちません。これはご縁ですよ」
二人はほほを赤らめながらお互いを見合った。
仮の約束は、これで八組になる。オーブリー司祭が名を読み上げるたび、広場の空気がわずかにやわらぐ。半白の髪は夕日を受けて赤く、丸い肩がまた少し、うれしさを隠しきれないように上がっている。十年ぶんの零から数えはじめて、まだ八つである。その〈まだ〉を、今日は前より明るく言える。
夕暮れ、館でエヴラールさまが布告の写しを読んでいた。窓の外の赤みが消えても目を上げず、読み終えると紙を裏返し、白い裏へ返事を書きはじめる。亜麻色の癖毛の下で、目だけが静かに据わっている。
「領の名で出します。この領の縁は、この領の仲立ちが見る、と」
「王都は、お聞き入れになりませんでしょう。」
「聞き入れられなくても、出します。出さないと、書いていないことになりますので」
◇
王都。九件目である。
壊れたのは、釣書に書いていない一行が理由だった。酒である。婚礼のあと、嫁の実家が引き取りに来ている。祝いの名残が消えきらない戸口で、誰も相手の顔をまともに見られない。
ベルトランはその日のうちに、当人たちを別の縁へ組み直した。手は早い。誰よりも早い。早くなければ、迷いが追いつくとでもいうように。
そのうえで、彼は釣書の様式を定め、暮らしの記述を禁じた。人の勝手な見方を締め出すためである。書く者によって答えの変わるものを、縁の判断に使ってはいけない――それが、彼の払った代価であり、手放せない正しさでもある。だから紙の欄は狭く、彼の迷いが入る隙間もない。
◇
夜。冷えた土の上へ店の灯が細長くこぼれ、その端にエヴラールさまが立っている。
役所と公証人に置いてきた写しは、今日から用いてはならない紙になっている。王都に置いてきた私のぶんも同じである。三部そろえて、規定どおりに置いてきたものなのに、決まりを守った手だけが、ひどく場違いに思える。
役所の棚と、公証人の棚と、私が座っていた部屋の棚。三つの棚で、あの三部は今日から動かない。読まれないための紙ではない。読んでもらうために、指を黒くしながら三日かけて写した紙である。
読まれないまま、読んではならない紙になった。
「棚にございます。あなたが置いていかれた一部が、私の家に」
「……お読みになりまして?」
「読みません。あなたが、まだここにおいでですから」
風が止まる。耳の奥まで、しんと静かになる。店先の灯だけが、何も知らない顔で、エヴラールさまと私のあいだを淡く照らしている。
二十年ぶんの紙が使えなくなった日に、この人は同じことを、二度目に言っている。紙より先に、ここにいる私を信じる、と。困ったことに、そういう言葉ほど、どの欄にもきれいには収まらない。




