11. 持参金の代わりに、何をお出しになれますか
十一月十七日。朝の会堂は、先週よりさらに底冷えしている。石の床から這い上がる冷たさは、もう秋のものではない。吐く息は白くほどけ、消えるまでしばらく宙に残る。靴のなかで指をきゅっと丸め、薄れていく爪先の感覚をどうにか呼び戻した。
四組目の婚礼である。花婿はギュスターヴさん、花嫁はクレマンスさん。当人たちが、行商の荷がこの村を通る日に合わせて決めたという。人の都合より先に、荷の都合で祝いの日が決まる。それをおかしいと思う人は、この村には一人もいない。むしろ、旅の道筋まで味方につけたようで、皆どこかうれしそうだ。
クレマンスさんの父親は、荷を広場の端へ置いたまま会堂へ入ってきた。娘を送り出す側なのに、体はまだ荷を担いでいるときの構えを解いていない。片方の肩だけが少し低いのは、いつも荷のあるほうへ体を預けてきたせいだろう。粗い上着には旅の埃が残り、祝いの日にも道の匂いを連れてきている。
「あの、こんな格好で」
「よくお似合いでございます」
オーブリー司祭が、冷えた空気へ溶かすように二人の名を読み上げる。半白の髪の下で、丸い肩が二度、ほっと息をつくように上下した。
「四組目ですねえ。……わたし、指を折るのはやめました。手が足りなくなるのですよう」
婚礼は、これで四組になる。声に出して数えると、冷えた会堂の隅にまで、小さな春が入り込んでくる。
ギュスターヴさんは畑の次男で、この秋まで村を出るつもりでいた人である。そんな人がいま、村の真ん中で、壊れものに触れるように誰かの手を取っている。誰も出ていかない冬が、この村には久しぶりに来るらしい。その響きを胸のなかで転がすと、冷えた朝がほんの少しだけやわらぐ。
二十年、私は持ち込まれた縁を裁いてきた。作ったことは、一度もない。
王都では、縁はいつも紙の姿で机へ届いた。届いたものに、受けるか断るかを指先だけで書き分ける。それが仕事の形だと思っていたし、いまもその考えは変わっていない。ただ、この村では誰も紙を持ってこない。そもそも、この村の縁は、紙にして持ってこられるものではないらしい。ならば、こちらから縁の形にするしかない。作る、という言葉が自分の職のすぐ隣に座るとは、二十年のあいだ一度も考えなかった。妙に近くて、まだ目のやり場に困る。
◇
昼。広場の陽だまりで、ヴィヴィアンさんが誰かの上着の袖を繕っている。膝に広げた布は他人のものだが、指の腹に並ぶ針の痕は、もう新しくない。陽を受けた針だけがきらりと光り、そのたび、慣れた指が細い影を布の上へ落とす。
「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「うちは日の出です。畑の朝は、変わりませんから」
「その手は」
「針です」
答えに迷いがない。二十一日通い、そのあとも途切れず通っている手である。糸を引くたび、肩は揺れず、肘から先だけがしなやかに動く。教えた人の手つきが、言葉より静かに、その指へ移っていた。
「お困りのときは」
「困ったときは、ポーリーヌさんです。父にも、もう言いました」
言ったのか、と胸の底で小さく声がする。断られた次の朝から坂を越えはじめ、とうとうそこまで行き着いたらしい。二十年、私は帳面の上でしか、人が変わっていく姿を見てこなかった。だからこういうとき、どんな言葉を返せばよいのか、いまだに手持ちがない。喉の奥がわずかに狭くなり、結局、私はただ頷く。断りの紙を書いた指と、いまこの人の手を見つめる目が同じ体に付いている。そのことが少し不思議で、少しだけ、ありがたい。
その向こうでは、若い男が柵の杭を肩に担いでいる。ティボーさん、二十四。十年前に村を出た家の息子で、この秋に戻ってきたのだという。いまはフィルマンさんの家で家畜を見ており、春には牛を一頭分けてもらう約束がある。陽に焼けた首筋には汗が細く光り、冷たい風が吹いても、立ち姿だけは土に根を張ったように揺らがない。
「朝は?」
「夜半だな。牛の見回りがある。朝は寝てるから、日の出は知らねえ」
「その手は?」
「家畜だ」
答える前に、担いでいた杭を地面へ下ろす。きちんと置いてから、こちらを見て話す人である。手のふさがったまま返事をしない人は、たいてい約束も軽く扱わない。土に触れた杭が鈍い音を返し、その音まで妙に律儀に聞こえた。
「お困りのときは、どなたへ?」
「家の女将さんだな。おれは、この村に身内がいねえから」
ポーリーヌさんである。この秋に嫁いだ人が、もう身寄りのない若者の戸口になっている。日の出と夜半。針と家畜。そして、同じ戸。三つを口のなかでそっと並べ直すと、かちり、と小さな音を立てて噛み合う気がする。胸の内で、まだ名もない縁が、おずおずと顔をのぞかせる。
◇
昼過ぎ、宿の前でクレマンスさんの父につかまる。荷に染みついた乾いた草の匂いが、風といっしょに追いついてきた。
「うちには下の娘もおりましてね。器量は上より好いんですよ。どうです、この村で?」
「そのお嬢さまは、いまどちらに?」
「南のほうを回っております。次にこっちへ来るのは、春ですかね?」
「お会いしたことのないお嬢さまの縁は、お受けできません」
行商の人は、寒さで赤くなった鼻の頭を掻く。どうやら、断られ慣れた人の仕草である。目だけは笑っていて、腹を立てる気配はない。
「厳しいねえ。器量は聞いてくれないのかい?」
「刻と、手と、頼り先を伺います。お顔は、そのあとでございます」
その人は肩をすくめ、広場の端の荷へ戻っていく。返事よりも、背中のほうが正直に見えた。悪い人ではない。ただ、娘を紙の上へ載せることに慣れすぎている。私も二十年、その紙のこちら側に座っていたのだ。だから責める気にはなれず、胸のどこかに、昔の自分を見つけたような居心地の悪さだけが残る。
◇
夕、広場でヴィヴィアンさんとティボーさんを向かい合わせる。傾いた陽は二人の足元から長い影を引き出し、影の指先だけが、本人たちより先に触れそうになっていた。冷えた風に、ヴィヴィアンさんの糸くずが袖口でかすかに揺れる。
「日の出と夜半でございます。針と家畜でございます。お困りのときは、お二人ともポーリーヌさんでいらっしゃいます」
「あたし、そこ、同じなんですか?」
「同じでないと、持ちません。これはご縁ですよ」
その場で、ヴィヴィアンさんの父親が私の袖をそっと引く。視線を地面へ落とし、当人たちに届かぬほど声を低くした。
「うちは、その、額が書けません」
「持参金の代わりに、何をお出しになれますか?」
「……代わり、ですか?」
「はい。お宅の暮らしから出るもので結構でございます」
その人はしばらく口を閉ざし、刈り跡の残る畑へ目をやる。低い陽を受けた刈り跡は、古い布の縫い目のように遠くまで続いていた。指が帯のあたりを二度、落ち着かなげにこする。畑を持つ人が、自分の畑を値踏みされまいと身構えるところなら、私は何度も見てきた。けれど、今日は値踏みではない。数えるのはこちらではなく、その人自身である。急かさずに待っていると、やがて伏せた目の奥に、見慣れた暮らしを別の角度から眺める光が、かすかにともる。
「藁なら、ある。冬のあいだ、あの若いのがもらう牛へ回せる」
春に一頭。その牛が無事に冬を越せるかどうかで、二人の来年の暮らしが決まる。畑の家から差し出されるものが、そのまま隣の家の朝になる。藁の乾いた匂いも、まだ見えない牛の白い息も、私の頭のなかで同じ景色として結ばれる。
「では、それを書きます。牛は冬に藁を食べます。額よりよほど確かでございます」
仮の約束は、これで九組になる。司祭がその場で名を読み上げると、風の止まった広場を、声だけが澄んで渡っていく。ヴィヴィアンさんは針の痕のある指をそっと握り、ティボーさんは、置いた杭の行方でも確かめるふりをして足元へ目を落とす。
◇
夕暮れ、館。エヴラールさまは、古い綴りを膝の上へ広げている。亜麻色の癖毛が燭の火へ落ちかかり、そのたび影が頬を静かに横切る。窓の外では、暮れ残った空が薄い灰色から青へ沈みかけていた。
「ティボーさんへ、家をお貸ししようと思います。屋根の残っているほうの家です。……十年、誰も住んでおりません」
「よろしいのでございますか?」
「十年、私の胸のうちで決めておりました。……いえ、決めずにおいた、というのが正しいです。今日から、村の前で決めます」
大きな手が綴りの端を丁寧にそろえ、それから、ためらいをしまうようにゆっくり閉じる。ヴァルヌは三十九軒になる。燭の届かない暗がりで、綴りの背の革が、長い眠りから起きるような乾いた音を立てる。綴りへ伏せられた横顔には、失ったものではなく、これから灯る窓の明かりが映っているように見える。
◇
王都――。
様式どおりに欄の揃った釣書で組んだ縁が、初夜を待たずに壊れる。家名も、畑の枚数も、額も、申し分なく揃っている。それほど揃っていたのに、嫁は夜のうちに実家へ帰った。冷えた寝台には、整った欄のどこにも書かれなかった沈黙だけが残る。
ベルトランはその日のうちに縁を解き、当人に会って口で訊いた。何刻に起きるのか。誰の飯を先に出すのか。答えを聞くと、その日のうちに、もう別の縁へ組み直している。手は早い。誰よりも、迷いなく早い。
ただし、訊いたことを、どこにも書けない。暮らしの記述は、彼自身が禁じたからである。書けないものは、次にその机へ着く誰かには渡らない。所の綴りには、家名と畑の枚数と額だけが、今日も行儀よく背筋を伸ばして並んでいる。紙は静かで、静かなまま、同じ失敗を待っている。
◇
夜。店の卓へ帳面を出し、使い残した頁を開いて、一行だけ書く。
『藁』
冬のあいだ、隣の牛へ回す藁である。額は書かない。書けないのではなく、書く必要そのものがないのだ。筆を置くと、指のさきがかすかに震えている。寒さのせいだと思うことにして、私はその指を袖のなかへ隠した。
棚の一冊には、今日も手をかけない。伸ばしかけた指はその手前で止まり、灯りの届かないあたりに積もる埃だけが、雪のように白く浮かぶ。指を戻すと、棚は何も言わず、いつもの暗がりへ沈む。私の頁も、まだ白いままである。




