12. 雪の来る前の、終いの日でございます
十一月二十四日。空の色が朝から低い。風はぴたりと止まり、そんな日にだけ立つ匂いが、この土地にはある。湿った土と、色の抜けた枯れ草がまじった、ほんの少し甘い匂いだ。雲は屋根のすぐ上まで降りてきたようで、村じゅうが雪を待ちながら、静かに息をひそめている。
五組目の婚礼である。ギヨームさんとエルディさん。日を決めたのは当人で、三週前、炉の熱が戸口から流れてくる鍛冶場の前で、並んでそう告げている。
「雪の来る前の、終いの日でございます」
「……間に合ったな」
それきりである。半分しか言わない人は、今日も半分しか言わない。けれど、鉄の握りへ伸びかけた手だけは途中で迷い、隣に立つ人の袖のあたりへ、ようやく行き先を見つけたように落ちる。触れたかどうかも分からない、ひどく不器用な近さである。
エルディさんは、その指で袖の粉を払う。今朝は粉など付いていない。何もないところを念入りに払ってから、口元に浮きかけたものをきゅっとしまい、はっきりした声を出す。
「夜半に打ちます。焼き上がるころ、この人が炉を落とします」
婚礼は、これで五組になる。半白の髪の下で、司祭の丸い肩が、こらえきれない笑みを持ち上げるようにまた上がっている。
二人が並ぶと、鉄の匂いと粉の匂いが、どちらとも言えない一つの、妙にやさしい匂いになる。片方が眠りに落ちるころ、片方が起きる。言葉を交わす時間は短くても、家の中では混じり合った匂いだけが、朝から夜へ途切れず続いていくのだろう。
同じ日、ジュリアンさんが終いの荷を、車輪のきしむ音といっしょに置いていった。塩は秋のうちに自分の勘定で仕入れたもので、ひと冬ぶんある。置き場は、秋に領がお貸しになった店の裏の軒下である。荷が壁際に収まると、それだけで冬支度が少し確かなものに見える。
「自分は、春の婚礼まで村で冬を越すのでございましてね」
「湿りはしませんか?」
「冬の塩は冷えて乾きますでございましてね。湿るのは夏でございます。少しずつ売っていれば、雪のあいだも食えます」
通る村の名を指で折りながら、その人は迷いのない声でそう言う。村から村を渡ってきた人の勘定である。私はそれを疑う理由を持たない。疑わずに済む勘定というのは、それだけで少しありがたい。
七組目の婚礼は、まだ挙がらない。ローズさんは宿の住み込みで、ジュリアンさんは荷の軒下に寝起きしている。二人で住む家がまだ無い。どこで眠るかを先に伺うようにしたのは、私が秋に一度、それを訊き忘れたからである。忘れた一手は、覚えているうちは指の先に残る。帳面を開くたび、そこだけが小さなささくれのように引っかかる。
◇
昼、リュセの荷が、車輪に乾いた土をまとわせて広場へ入った。荷といっしょに、粉挽きの家の娘さんが来ている。アデルさん、二十四。秋にアンリさんが額のことで話を進めていた相手である。外套の肩は白く、髪にも細かな粉がうっすら残っている。
「朝、いちばん先に起きるのは?」
「朝……ですか? うちは夜明け前です。水車の水を落としますから」
「その手は?」
「石です。挽き石を起こしますから」
相手の言葉を一度そのまま返してから答える人である。返しているあいだに、胸の中で散らばっていた答えが、きちんと並んでいくらしい。袖からこぼれた石の粉は、雪の来る前の乾いた空気に白く浮き、なかなか地面へ落ちてこない。
「お困りのときは?」
「困ったときは、種の家の旦那さんです。うちの水は、あの家の堰から来ますから」
その荷の陰で、縄をないながら順番を待っている男がいた。口元はゆるく笑っているのに、手だけは休まない。ジュスタンさん、二十六。縄ないの家の息子で、秋にマチューさんの縁を断ったときの、あの家の兄にあたる。
「朝は?」
「おらは夜なべだなあ。縄は夜に、しっとりしてからないだほうがええので」
「その手は?」
「縄だなあ」
手のほうは、声よりずっと働き者で、少しも止まらない。話しているあいだにも、縄の撚りだけが確かに増え、足元へ重みのある輪を作っていく。
「お困りのときは?」
「種の家の旦那だなあ。おらは字が読めねえから、紙はいつもあの家に読んでもらう」
夜明け前と夜なべ。石と縄。そして同じ旦那。三つとも、きれいにそろっている。この村の外にも、同じ形の噛み合わせがあるのだと思うと、私の職はまだ半分も届いていない気がする。広場の向こうから、見えなかった道だけが急に遠くへ伸びたようで、心もとなさと面白さがいっしょに胸へ入ってくる。
◇
午後、荷を積み替える脇で、アデルさんの父につかまる。粉を吸った外套を叩くたび、白いものがぱさぱさと乾いた音を立てて落ちる。その白さは、まだ降らない雪の切れ端のようで、雪の来る前の低い空によく映えている。
その人は、荷の縄をきつく締め直しながら、こちらへ目を向けないまま言う。声には、すでに決めた話を確かめに来た者の固さがある。
「うちは、水車番の家がいいと思っております。同じ水を使う家の者と」
「お二人とも、朝は夜明け前でいらっしゃいますか?」
「そうです。同じ刻に堰を上げますから」とアデルさんが答える。「うちは水を落とし、あちらは水を受けますから」
「お二人とも夜明け前で、同じ水をお使いになります。お断りになったほうがよろしゅうございます」
「なっ……そうなのか?」
同じ刻に同じものを起こす二人は、困ったときにも同じ場所で困る。堰が凍れば、二人ぶんの朝が同時に止まる。荷の縄がきしむ音のなかで、私は自分の声が思ったより低く出たのを聞いていた。理屈はよく噛み合っているのに、それを告げた舌の上には、冷たい鉄のような味が残る。
◇
夕、雲の下の明るさが薄くなるころ、広場でアデルさんとジュスタンさんを引き合わせる。向かい合った視線には、親しさより先に、朝と夜の時刻を測るような慎重さがある。仮の約束は、これで十組になる。
オーブリー司祭が、冷えはじめた空気へ名を読み上げた。声は荷の去った広場に丸く残る。リュセには会堂が無いので、あちらの縁の名も、この村の会堂で読まれることになる。
「わたしの声が、隣村まで届くわけではないのですけれどねえ」
「届かなくても、読まれた名は残ります」
◇
夕暮れ、広場の隅で、名残を惜しむように荷がゆっくり送り出される。エヴラールさまが、種の家の旦那へ自分から近づいていった。亜麻色の癖毛が、暮れていく荷の陰で、ひとところだけ火が残ったように明るい。歩みはまだ少し固いが、止まる気配はない。
「リュセのお二人の縁を、この領の仲立ちが見ます。……いえ、見せていただけませんか、と申し上げるべきでした」
ジェルヴェさんは、返事を急がず、指で土を擦る。乾いた粒が爪のあいだへ入り、しばらく黙りの形だけが地面に残る。
「うちの村には、もう仲立ちがおらんが」
「存じております。ですから、伺いました」
この人が頭を下げるのは、もう三度目である。回を追うごとに、下げ方から借り物めいた硬さが抜けていく。今日は、頭を下げる前に一度だけ息を吸った。その息は短いが、ためらいを追い払うためではなく、ためらいごと前へ運ぶためのものに見える。
◇
王都。窓を閉め切った所の中では、様式の釣書だけでは、断る材料が出てこない。欄は三つで、書いてはならないことのほうが多い。整った紙の広い余白に、当人の朝も、働く手の傷も隠れたまま、婚礼の前に、一件が壊れている。
ベルトランは、受理の前に当人を呼ぶことにする。呼んで、向かい合って、二つ三つ訊く。声の間や、答える前に泳ぐ目も、欄には無かった材料になる。その日、彼は壊れる前に一件断った。事務の者が手を止めて驚いたのは、壊れるのを防いだことではなく、断ったこと自体である。
かわりに、一日に受けられる件数が半分になった。廊下には人が肩をすぼめて並び、待ちきれない家は、机のほうを振り返りながら帰っていく。早さで名を上げた男の机の上では、積まれた紙の影がゆっくり伸び、時間だけがこれまでと違う速さで流れはじめている。
◇
夜――。
窓を開けると、匂いが変わっている。雪の匂いである。冷えた風が首筋を撫でて部屋へ抜け、灯の火を小さく揺らす。思わず肩をすくめると、胸の内で張っていたものまで、ふっとほどける。婚礼の季節は、今日で静かに閉じる。
帳面の余りの頁へ、春を待つ組の名を並べて書く。灯のそばでも墨はすぐに冷え、筆先だけが濡れたように黒く光る。書きながら、この村では日を紙の上で動かせないのだと考えている。濃い栗色の髪をひとつ結い直して、私は筆を置く。王都なら、日は動いた。日取りを取り上げ、宛て直し、七日先へ回す。それは手際のよさと呼ばれていた。動かした日の向こうで誰が待っていたかを、私は数えたことがない。今夜は、その数えなかった人々が帳面の余白からこちらを見ている気がして、筆の置き場が少し狭い。
紙の上では動かせた日が、この村では雪で閉じる。




