13. 一件に、一行でございます
十二月一日。雪が来た。夜のうちに音もなく積もったらしく、朝の広場はいつもの輪郭をすっかり失い、家々の角まで白く、やわらかく丸まっている。
リュセへ続く畦道は、白い面の下へ消えている。塩の道も、峠のあたりで雪に閉ざされているはずである。今日は誰も店へ来ない。来ないと分かっている日の静けさは、誰かを待つ日の静けさとはまるで違う。薪のはぜる音さえ遠く、耳の奥まで、しんとした白い音で満たされている。
私は棚から一冊をそっと下ろす。十年ぶんの埃をかぶった、前の仲立ちの帳面である。この村へ来た夜から、手を伸ばせば届く棚の隅に、ずっと置いてある。
そっと開くと、固く乾いた紙が、薄氷を割るような音を立てた。
『夏は山』
一行だけである。誰の家のことかは、その頁の隅に、遠慮するような小さな字で書いてある。指の腹で紙をこすると、埃が細かく舞い上がり、灯りの筋のなかで一度光ってから、静かに消えていく。
一件に、一行。暮らしの癖はそれだけで見えるのに、人柄を言い切る言葉は、どこにも書かれていない。
◇
昼、坂を下りる。くるぶしまで沈む雪に足を取られながら戸を叩くと、家の中で何かが動く気配がして、いつもより長く待たされたあと、戸が細く開いた。
「あんた、こんな日に何しに来た?」
「これを、お見せしたくて」
土間の卓へ帳面を置く。バベットさんは白髪を布で包んだまま、すぐには手を伸ばさず、目だけを細めて頁を追う。色の薄くなった青い視線は、やがてその一行に吸い寄せられ、そこから動かない。
「あれは、娘の字だ」
「一件に、一行でございます」
「そうさ。あの子も、そう書いた」
それきり、婆さんは口を閉ざし、天井の梁を見上げる。麦湯の白い湯気が皺の深い頬をゆっくり撫で、その向こうで青い目だけが遠い日へ戻っていく。私は自分の帳面の書き方を、いま初めて、他人の手から差し出されたもののように見つめていた。教わったこともなければ、教えたこともない。けれど同じ書き方が、十年前のこの土間にも、ごく当たり前の顔であったらしい。手は冷えきっているのに、掌のなかの椀だけが熱い。そのちぐはぐな温度のせいか、知らないはずの娘さんが、ほんの少し近くにいるような気がする。
帳面の最後のほうの頁に、二つの名が、寄り添うでもなく離れるでもなく並んでいる。
「この方たちは」
「アニェスとバティストだ。仮の約束の日に、一度目までは読んだ。二度目の礼拝の前に、うちの子が死んだ」
「あのころは、うちの子が二人のあいだに入ってた」
婆さんは表を通りかかった子を呼び止め、耳元で短く何かを言いつける。子はうなずくなり、粉雪を蹴散らして駆けていく。頼まれもしないのに、必要な人を呼んでしまう人だ。その横顔に、前の仲立ちを育てた人らしさが、ほんの少しだけのぞく。
その二人が、しばらくして、外の白さと冷気を肩にまとったまま土間へそろって顔を出した。
アニェスさん、四十六。糸を績む人で、話しているあいだも休むことなく、細い指が糸の撚りを探す形に動いている。
「朝は?」
「夜なべだけどね。冬の夜は長いから、そのぶん糸になるし」
「その手は?」
「糸だけどね」
言い切らない人である。言葉はいつも少し手前でほどけるのに、指だけは迷わず、細い糸へ確かな撚りをかけ続けている。
「お困りのときは?」
「バベット婆さんですけどね。糸巻きも、あの家に置いたままだけど」
「以前も、そちらでいらっしゃいましたか?」
「前は娘さんだったけどね。あの人が居なくなってから、婆さんのほうになったし」
棚の糸巻きである。この土間へ初めて上がった日に目に留まった、あの、ほどかれる時をじっと待つように端を垂らした糸巻きだ。娘さんが死んだ年から、預けたままだったのだ。色の抜けた糸の端が、いまになって小さく息をしているように見える。
バティストさん、四十九。屋根を葺く人で、土間へ入ってくるなり、挨拶より先に天井を見上げる。人の家では、まず屋根の具合を見てしまう癖があるらしい。
「朝は?」
「昼でなぁ。屋根は陽が高いうちしか上がれん」
「その手は?」
「藁でなぁ」
言い終わりをゆっくり伸ばす人である。その伸びた音の先には息が少し余り、まだ言葉にならない人のよさまで、のんびり浮かんでいる。
「お困りのときは?」
「婆さんでなぁ。この屋根の梁も、あの家から出してもらったでなぁ」
「バティストさんも、以前は?」
「おれも娘さんでなぁ。二人とも、同じ戸を叩いとったでなぁ」
二人の答えが、十年ぶんの間を越えて、まるで相談していたようにそろう。土間の暗がりで、婆さんが麦湯の椀を両手で静かに持ち直す。椀の縁を包む指に、温めるためだけではない力がこもっている。
「空き家のほうは、いつごろ直りますか?」
「春だなぁ。梁の落ちた家は、雪が積もってから橇で山の木を出して、雪が解けてから葺くのでなぁ。凍ってるうちは屋根に上がれん」
昼と夜なべ。藁と糸。そして同じ戸。十年前に止まったのは、則が合わなかったからではない。二人が口をそろえたとおり、当時の行く先は婆さんの娘さんで、その人が二度目の礼拝を待たずに死んだのである。噛み合わせは、ずれたのでも壊れたのでもなかった。棚に置かれたままの糸巻きと同じで、垂れた端を誰かが見つけ、そっとほどくのを待っていただけなのだ。
◇
午後、店へ戻ると、村の者が二人ばかり、戸口の雪を靴からぽたぽた落としながら待っていた。留守の店先だというのに、こちらを見る顔はもう相談の続きを始めている。
「アニェスさんなら、炭焼きのノエルはどうだね? 冬のあいだだけ山から下りてくるだろう?」
「その方は、お困りのときにどちらへ?」
「司祭さまのとこだろ。会堂の軒下で寝てるくらいだから」
「お断りになったほうがよろしゅうございます。お困りのときに行く先が、違います」
帳面の一行を思い出す。十年前、同じ家について、同じことが書かれていた。書いた人はもういない。それでも、一行は紙の上から顔を上げ、いまもちゃんと働いている。書いた人が死んでも仕事のほうは残るのだと知ると、頼もしいような、置いていかれるような、どちらとも決めにくい気持ちになる。帳面を押さえる指の先だけが、少し冷たい。
◇
夕、坂の下の土間で仮の約束が結ばれる。雪明かりの残る戸口で、アニェスさんとバティストさんの名が、ようやく同じ声のなかに並ぶ。これで十一組になる。
オーブリー司祭が雪の坂を慎重に下りてきて、土間の入口で名を読み上げる。半白の髪には細かな雪が乗り、声を響かせるたびに溶けて、丸い肩のあたりを濡らしていた。
「わたし、坂を下りて読み上げるのは初めてですねえ」
「ずいぶん遅れましたけれど」
「遅れた名でも、読めば読んだことになるのですよう」
アニェスさんが棚の糸巻きを取り、長く垂れていた糸の端を指先でそっと撚り直す。撚りが戻る音は、もちろんしない。ただ、迷いなく動く指だけが妙に軽く、見ているこちらの胸まで、かすかにほどける。
◇
夕暮れの墓地。乾いた雪を踏むたび、きゅ、と小さな音がして、その白さのなかにエヴラールさまが先に立っている。前の仲立ちの墓は雪に半ば埋もれ、小さくて、低い。
「十年、参りませんでした。……知らなかったのではありません。知っていて、参りませんでした」
大きな手が石をいたわるように雪を払い、濡れた石の面が夕闇のなかへ黒く現れる。私はその後ろで、名を読まずに立っている。読まなくても、自分が誰の店に座っているかは分かっていた。けれど、石の前では、その店の椅子が思っていたより重く感じられる。
◇
王都。釣書に書けない一行が、また別の家で、息を潜めるように伏せられている。様式が禁じたので、誰も書かなかった。紙の上はきれいなままなのに、婚礼から間もなく、嫁が出ている。
ベルトランはその日のうちに縁を解き、所の名で見張りを一人、その家へ置いた。任されたのは、酒の量を数える者である。壊れた縁を片づける手つきとしては、たしかに迷いがなく、早い。
ただ、その早さのおかげで、所が人の家の中へ人を入れた。紙に書かせないと決めた家の中へ、こんどは目を入れることになる。書くことを塞げば、見る者が置かれる。書かれない一行は、消えるのではなく、どこかで必ず別の形になって顔を出すものらしい。
◇
夜。灯りの下で、二冊が肩を並べている。私の帳面と、十年前の帳面。紙の色も、字の癖も違うのに、並べてみると、罫を引いていないところまでよく似ていた。
私の字ではない字が、私と同じ書き方をしている。




