8. 頼り先が私では、いけませんか
十月二十六日。薄い秋空の下、石造りの会堂の前に人が集まっている。セバスチャンさんとマリオンさんの婚礼である。
リュセから、土と種の匂いをまとって種の家が来た。三代のあいだ水を争ってきた二つの畑が、今日は同じ卓に着いている。隣り合った袖のあいだには、まだ言葉にしない用心が残る。水は繋がっていない。今年も水路の口は、去年と同じ順で開く。それでも、祝いの白布をかけた卓は隙間なく並んだ。
「水は、まだですけどねえ」とオーブリー司祭が言う。丸い肩が、困ったときの形にすくんでいる。
「水は縁では繋がりませんから、そこはそのままで結構でございます」
セバスチャンさんの掌と、マリオンさんの掌が、祭壇の上へ揃えて差し出される。柄の当たるところが厚く硬い手と、種を選る指だけが細くしなやかな手である。同じ畑の家から出た手が、こうも違う。けれど今は、その違う手が触れそうな近さにあった。会堂の高い天井へ、司祭の声がゆっくり上がり、古い梁へ柔らかく染みていく。
婚礼は、これで三組になる。オーブリー司祭は今日も、朝のうちに三度、名を読む。婚礼の二人と、五組目の三度目と、六組目の二度目。声に呼ばれるたび、名はただの字から、この村で暮らす人の顔へ戻っていく。十年ぶんの零から数えはじめて、まだそこまでである。少ないとも思うし、ここまで来たとも思う。
会堂を出るとき、種の家の父親が、陽を鈍く返す水路の口のあたりをちらりと見た。わずかに見ただけで、何も言わずに歩いていく。三代ぶんの言い分は舌の裏に置かれたまま、それでも今日は誰の口からも出ない。石の壁のあいだを細く抜けてきた風が首筋に触れ、そこだけ水を落とされたように冷える。十月の終わりの風である。土と祝い酒の匂いを、乾いた空へさらっていく。
◇
昼の広場へ、革袋を積んだ塩の荷が着いた。白い粉をうっすら袖につけ、指を折りながら村の名を数えている人が、その荷の脇に立っている。行商のジュリアンさんで、ひと月に一度この村を通る。荷車の車輪には、よその道の乾いた泥が、うろこのようにこびりついている。
「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「自分は昼でございましてね。道は明るいうちに歩くものでして」
「その手は」
「塩でございます。あとは荷の紐でしょうか?」
指を折るたび、節に入り込んだ白い塩がきらりと光る。そうして答える人である。塩、紐、それから次の村。数え終えると、覚えたものをこぼさぬよう指をきゅっと握り、その手を荷の脇へ下ろす。
「お困りのときは、どなたへ?」
「困ったときは、マルティーヌさんかな。荷を預かっていただいておりますので」
「え? 私……ですか?」
そこへ、ローズさんが水を揺らす桶を提げて水場から戻ってきて、こちらへ気づくと同じことを言う。
「困ったときですか。……広場のお店、マルティーヌさんですけど」
「えぇ……?」
二人の頼り先が、私になっている。耳では聞いたのに、その事実がまだどこにも収まらず、どうにも落ち着かない。
二十年、私は頼り先の欄を人の名で埋めている。誰の欄にも、私の名は無かった。無いのがあまりに当たり前で、それを寂しいと思う道筋さえ、私の中には無い。一組目の婚礼の日に、人の口から一度出るのを聞いたばかりである。今日は、二人の口から、前からそこにあった名のように出てくる。嬉しいと決めるにはくすぐったく、困ると決めるには少し温かい。
「仲立ちさんこそ、どうなんです?」
村の男がそう言うと、周りから笑いがこぼれた。私をつつくくせに、笑い声に尖ったところは無い。この村の笑いは、たいていそうである。人の懐へ勝手に入ってきて、座る場所まで作ってしまう。
「私でございますか。断る理由なら、三つほど。三十八でございます。家名がございません。仲立ちは、縁の外に立つ者でございます」
「三つとも、断る理由じゃねぇな。ははは」
「二十年、この三つで数えてまいりました。ですから私の縁は、いつでもお断りでございます」
私の頁は、まだ白い。
言い終えてから、頬のあたりへ遅れて熱が集まってくる。二十年、私はこの三つを人前で口に出したことがない。数える必要が無かったからである。数えたことのない数を声にすると、言葉は自分の耳へ戻り、頬まで温めるものらしい。誰も気にしていない顔をしているのに、私だけが自分の言葉を持て余している。
その熱を風に預けるようにして、私は坂を下りた。戸は今日も、こちらを試すように細く開いている。隙間から、土間の暗さと、灰と干し草の乾いた匂いがこちらへ流れてくる。目が慣れるまでのあいだ、私はいつも敷居のところで立っている。急いで踏み込めば何かを驚かせそうで、中の暗さへそっと目を渡してから入る。それが、いつの間にか身についたこの家の作法らしい。
「頼り先が私なんですって。いけませんか?」
「あんた、まだ自分を村の外に置いてるんだね」
バベットさんは麦湯の椀を両手で包んだまま、私を見ようとしない。白髪を包んだ布の下で、褪せた青い目は土間の暗いほうへ向いている。火の赤みだけが、頬の深いしわを静かに行き来していた。
「あの二人が困ったとき、あんたが居なけりゃ困る。それだけの話だろ。居るのか、居ないのか?」
「……居ります」
「じゃあ、書きな」
椀を受け取ると、ふちの欠けたところが、また唇に当たる。麦湯は舌を引っ込めたくなるほど熱く、欠けたところだけが妙に冷たい。同じ椀の同じ縁で、熱いものと冷たいものが、何事もない顔で隣り合っている。私も、村の内と外をそのように並べてきたのかもしれない。飲み込んだ麦湯は、思ったより素直に喉の奥へ落ちていく。
◇
夕暮れの広場で、ローズさんとジュリアンさんを向かい合わせた。西日の薄金色が、水を張った桶と塩の革袋を同じように照らしている。オーブリー司祭にも立ち会っていただく。村が認めた形にしておくのが、こういうときの作法である。
「夜明けと昼でございます。桶と塩でございます。頼り先は――」
「お店です」とローズさんが言う。
「マルティーヌさんでございます」とジュリアンさんが言う。
「では、同じでございますね」
仮の約束は、これで七組になる。オーブリー司祭がその場で名を読み上げると、広場の石壁が声を受け、夕暮れの空へ返した。ローズさんは桶の持ち手を握り直し、ジュリアンさんはまた指を折りかけて、途中でやめる。
◇
夜、店の裏でエヴラールさまが荷の置き場を測っている。月明かりと軒の影が地面へ斜めに重なるなか、歩幅で数えて、二度、数え直す。荷が収まるかより、人が戻ってくる余地を測っているように見える。亜麻色の癖毛が、風で耳の上からぴょんと跳ねている。
「ここを、荷置きにお貸しします。ひと月に一度では、村に居つけませんので」
「置く場所があれば、居つきますでしょうか?」
「置く場所がある村には、また来ます。父がそう言っておりました」
この人が父の話をするのは、二度目である。一度目は畑の話だった。言葉の後ろに父の声がひっそり重なっているのに、本人はそれを見せる気がないらしい。好意まで勘定の話に聞こえる、あの損な言い方を選ぶ癖も、たぶんそのあたりから来ている。
◇
王都。磨かれた役所の卓の上で、婿方の申し出た持参金が、釣書に書いた額より低い。窓の外では馬車の音が絶えないのに、卓を囲む空気だけがぴたりと止まっている。
書き違いか、偽りか。固い言葉が卓を行き来して揉めた。ベルトランは役所へ自分の名で保証を書いて、静かに届けを通す。縁は成立し、どちらの家名にも傷はつかない。誰も声を荒らげなくなったあと、紙の上には彼の署名だけが濃く残る。
そのかわり、役所へ借りを一つ作った。彼の名で通した紙は、次に彼が何かを頼むとき、その願いへ載せられる重さになる。縁を軽くしたぶんだけ、自分の名が重くなるのだ。
◇
夜の店へ戻り、控えを開く。灯りの輪の中で、紙だけが淡く浮いて見える。ローズさんとジュリアンさんの欄の、三つ目に自分の名を書いた。
他人の頼り先の欄へ自分の名を書くのは、二十年ではじめてである。いつものつもりで筆を置いたのに、墨を含ませすぎて、字はいつもより大きく滲んだ。乾くまでのあいだ、私はその文字を見ている。見慣れた自分の名が、知らない人の名のようで、けれど悪い気はしない。
二十年、私はこの欄に人の名を書いてきた。書かれる側の人が、どんな顔でその夜を過ごすのかを、考えたことがない。今なら少しだけ分かる。紙に名があるだけで、自分の居場所までできたように、肩のあたりが静かになる。灯りの下で、墨がゆっくり黒くなっていく。指先に残った墨の匂いは、王都の部屋の匂いと同じである。それなのに今夜は、どこか違って感じられた。
白い頁は、そのままにしてある。けれど、以前と同じ白さには、もう見えない。




