7. いまは、ではございません
十月十九日。会堂の石の床は、先週よりも冷たい。踏みしめるたび、石の奥に眠っていた冷気が、靴底を透かして足の裏へにじんでくる。先週までは秋と呼べたものが、今日はもう冬の気配に近い。
ポーリーヌさんとフィルマンさんの婚礼である。子は合わせて三人。いちばん小さいのは、祝福の言葉より先に自分を見てもらいたいらしく、前へ出たがって、二度、母親の手にそっと引き戻される。そのたび肩をすぼめるのに、目だけは祭壇へまっすぐだ。村はもう、以前のようには笑っていない。笑っていた人たちが晴れ着の襟を正し、いちばん前に立っている。気まずさを隠すような咳払いまで、今日は祝いの音に聞こえた。
ポーリーヌさんの指の腹には、糸を引き続けて硬くなった痕がある。布を引き寄せ、ほどけないよう結んできた指が、今日は子の襟を直している。皺を伸ばすついでに合わせ目へ触れた手が、ほんの少しだけ長く留まった。針の手というのは、こういうときにいちばんよく見える。フィルマンさんの厚い掌は、いちばん小さい子の背を、急かさぬ強さでひとつ押す。押された子が得意そうに前へ出て、また母親に引き戻される。
オーブリー司祭は今日、朝のうちに三度、名を読む。婚礼の二人と、五組目の二度目と、四組目の三度目。半白の髪の下で丸い肩が息に合わせて上下し、名が増えるたび、口元もわずかにゆるむ。途中で一度、水を飲んだ。杯を置いた指先には、声を休めるのが惜しいような名残がある。
「わたし、こんなに続けて読むのは、はじめてですねえ。」
「お疲れが出ませんように」
「疲れやしないのですよう。十年、読まずにおりましたから」
十年ぶんの零を、この人はいちばん近くで数えていた。名を呼ばない朝も、空の会堂へ来て、同じ場所に立っていたのだろう。読まない日が続けば、読む声の出し方を体が忘れる。けれど、忘れた体が、いま、名を読む息の長さと祝う声の丸みを、嬉しそうに思い出しているところである。
婚礼は、これで二組になる。その言葉を口の中で数え直すと、冷たいはずの会堂が、少しだけ温かく感じられる。
◇
昼、宿の裏口でロランさんをつかまえた。鍛冶場から抜けてきたところらしく、眉に鉄の粉が付いたままである。汗を拭った跡だけ肌が明るく、本人はそれに気づいていない。
「その手は?」
「鉄っす。ほかは覚えてないんで」
同じころ、リュセから荷が着く。荷といっしょにやって来たのは、マリオンさんの妹のソランジュさん、十九。姉の婚礼の支度で来ているというのに、華やいだ様子より先に働く手が出る。荷を降ろす前に袋の口を持ち、腕に伝わる重さをじっと量った。その横顔には、荷の中身まで手のひらで見ているような確かさがある。
「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「うちは日暮れだ。種は、日が落ちてから選る」
「その手は」
「種だ。鋤は父が持つ」
量ってから話す人である。答えを探す前に、必ず手のほうが先に動き、触れたものから順に考えが決まっていく。姉のマリオンさんもそうだった。あの家は、口より先に手で確かめる家らしい。働き者という言葉だけでは足りない、静かな用心深さが、姉妹の指先によく似ている。
「お困りのときは、どなたへ?」
「困ったときは、宿の姉さんだ。夜に着いても、あそこだけ起きてる」
「おれもっす。困ったときも、夜中に湯をもらうのも、宿の姉さんっす」
ニコレットさんの名が、二人からほとんど同じ息で出た。夜通し起きている人は、この村で唯一、いつでもそこに居る頼り先になる。戸が閉まる時刻にも灯りがあり、事情を言葉にできない顔でも、まず湯を渡してくれるのだろう。二十年、私は頼り先の欄へ、縁ごとに一人の名を書いてきた。誰か一人が村じゅうの頼り先になっている、という書き方をしたことがない。欄は在る。けれど、埋め方のほうが浅かったのである。人を結ぶつもりで、私は人と人のあいだにある夜の灯りを、ずっと数えそびれている。
◇
午後、畑の畦を歩いた。乾いた土は踏むそばから細かな粉になり、靴の縁を伝って、いつの間にか中まで入り込んでくる。刈ったあとの畑は見晴らしがよく、風の当たり方が先月と違う。遮るものが無くなると、風は音を立てずに来て、首筋だけをひやりと撫でてゆく。遠くの藁の匂いまで近くなったようで、季節が村の輪郭を薄くしている。
ヴィヴィアンさんが、畝の端で身を小さくして座り、針を使っていた。膝の上には人の上着が広げられ、袖の付け根を細かな目で繕っている。風が布を持ち上げそうになるたび、肘でそっと押さえる手つきは、もう畑仕事の合間の暇つぶしには見えない。指の腹には、まだ新しい針の痕がある。その小さな赤みだけが、針を持ち始めてまだ日が浅いことを教えている。
「隣村の畑の次男の話が来ております」
「……はい」
「その方は、〈鋤〉の娘さんへ来たお話でございます」
ヴィヴィアンさんの手が止まる。糸を引く途中だったので、細い糸だけが宙に残り、行き先を迷うように少し揺れた。けれど、布を押さえる指は離れない。言い直すべき言葉を、指先のほうが先に決めている。
「あたしの手は、今は〈針〉です」
「そうですね。お手は、針でございます」
「……はい」
「その針は、どちらで教わっておいでですか?」
「ポーリーヌさんに。断られた次の朝から、毎日」
二十一日である。畑の朝が済んでから坂を一つ越え、日の落ちるまで針を持ってきたことになる。土を落としきれない指で糸を通し、刺してはほどき、ほどいてはまた刺したのだろう。手の変わる速さというものが、この村にはある。けれど、速さというより、ようやく始められる日を待っていた長さのほうかもしれない。針の痕が新しいのは、望みまで新しいわけではないのだ。
「お困りのときは、どなたへ?」
「……ポーリーヌさんです。父には、まだ言ってません」
「では、お断りいたしましょう。そのお話は、鋤のお手のお嬢さまへ参ったものでございますから」
ヴィヴィアンさんは静かにうなずいた。
断った縁の行き先が、いま、目の前で針を持っている。
二十年、私は断りを紙で出してきた。封をすれば、それで仕事は終わるものと思い、相手がそのあとどこで暮らしているのかを、一度も見ていない。半日で端から端まで行ける村では、見ないでいることのほうが難しい。難しいことを、私は紙と机を使って器用にやってきたらしい。畦に立ったまま、しばらく糸の動くのを見ている。針が布へ沈み、また出てくるたび、断ったあとの暮らしにも続きがあるという、ごく当たり前のことが指先へ刺さった。喉の奥が乾き、飲み込む音ばかりが自分の耳に大きい。風は知らぬ顔で、上着の裾を軽くめくっていった。
◇
夕、宿の前でロランさんとソランジュさんを引き合わせる。傾いた陽が軒の端に残り、荷袋と鉄粉を同じ色に照らしていた。こちらが名を告げるより先に、二人の目が合う。初対面の遠慮ではなく、知っている相手を改めて見つけたときの、少しばかり困った顔である。
「日の出前と日暮れでございます。鉄と種でございます。お困りのときは、お二人ともこちらの宿でございます」
「……知ってた。荷を置きに来るの、いつもこの人が受け取るから」
「知ってたのか?」
「うん」
「では、あとはお二人でお決めくださいまし」
仮の約束は、これで六組になる。オーブリー司祭が宿の戸口に立ち、いつもより弾む声で名を読み上げた。板場の湯気が外の冷気に押されて戸口から流れ出て、司祭の半白の髪をひととき白く曇らせる。本人は気づかず、紙を持つ手だけが嬉しそうに上下している。名が読まれるたび、鍋の蓋まで小さく鳴った。
◇
夜、〈麦の穂亭〉の板場には、ソランジュさんの父が泊まっている。煮炊きの匂いがまだ柱に残り、片づけを終えた卓だけが広く見えた。そこへエヴラールさまが自分から出てきて、誰かが止める暇もなく、板の間へ膝をつく。木の鳴る乾いた音に、ソランジュさんの父の肩がびくりと上がる。
「二人目です。頭を下げに参りました。私の領が、お宅から二人いただくことになります」
「領主さまが、そんな」
「種の家から二人です。私の領は、二度いただく側です」
亜麻色の癖毛が、うつむいた拍子に額へ落ちた。大きな手が膝の上でひらき、指が何かを掴みかけては開き直して、それからゆっくり閉じる。この人が人へ頭を下げるのを、村の者が三人ばかり、息を詰めて見守っていた。誰も止めず、誰も目をそらさない。頭を下げられた側のほうがかえって小さくなり、手のやり場を探して、膝と卓のあいだを二度往復させている。やがてその手は膝の上に落ち着いたものの、頭を上げてくれとも、下げなくてよいとも言えず、指だけがまた開きかけている。
◇
王都。同じ会堂で、婚礼の日取りが二組重なっている。王都には会堂がいくつもあるのに、両家が望んだのは同じ一つである。高い窓から差す光も、磨かれた床も、どちらの家だけを選ぶことはない。ただ、同じ日の同じ床の上に、二組を並べては置けない。
ベルトランは、先に届けを出していた側を優先する。もう一方を七日先へ回し、祝いの席も、呼んだ客も、指を折って待った日も、同じ幅だけずらす裁きを、その日のうちに下した。筆先は迷わず、決着は早い。その早さは役に立つが、追いつけない心までは待ってくれない。
回された側は、婚礼の当日に婿が来なかった家である。待つために飾った会堂の記憶がまだ乾かないうちに、今度は日をずらすための届けが届く。同じ家名に、日延べの届けが二度目につく。紙の上では短い書き足しでも、家の者には、また客へ知らせて回る長い道になる。
書記が一人減ったままなので、その届けは彼が自分で書いた。整った文字の列には迷いがなく、だからこそ、余白に置き去りになった家の顔は、どこにも映らない。
◇
私は店へ戻った。灯りをつけても、ヴィヴィアンさんの針を使う手つきが、まだ目の裏に残っている。糸を引くとき、あの人は肩を固くせず、肘から先だけを動かしていた。慎重なのに、ためらいはない。教わったばかりの手である。教えた人の手つきが、そのまま指から指へ移り、断られた次の朝から、布の上で息をしている。
二十年ぶんの断った縁のうち、行き先を知っているのは、いまのところ一人だけである。知ったからといって、紙の上の断りが消えるわけではない。それでも、消した線の向こうに暮らしが続いていると知れば、次に引く線の重さは少し変わる。
名前なら、たいてい覚えている。覚えているのに、その先を知らない。知らなかったことより、知ろうともしなかったことのほうが、今夜は静かに残る。灯りを落としても、針が布を抜ける小さな音だけは、しばらく耳の奥に居残った。名前の次の欄は、どうやら紙の外にあるらしい。




