6. この家の火は、これから絶えません
十月十二日。刈り入れは十月十日に終わっている。空を白く曇らせていた麦の埃もようやく引き、村の空気は、重い上着を脱いだように急に軽くなった。息を吸えば、朝の冷たさが喉の奥まで細くまっすぐ入ってくる。切り株の並ぶ畑からは、乾いた藁と土の匂いが立っていた。刈り入れのあとの朝は、どこの土地でもこの匂いがするものらしい。
婚礼である。十年ぶりだと、誰もが口をそろえる。同じ言い方になるのは、十年のあいだ、誰もその言葉を使わずに済ませてきたからだと思う。使われなかった言葉は、久しぶりに外へ出されると、少し照れくさそうに聞こえる。
会堂の前には村じゅうが出ていた。板を打ちつけた空き家の戸の前にまで人が立ち、朝の薄い光の中で、肩と肩がいつもより近い。マチューさんは炉の前に立つときと同じ、火にも人目にもひるまない背のまま突っ立ち、ニコレットさんは赤茶の髪のほつれを、今日だけは何度も指で押さえている。伏せた目もとは頼りなげでも、湯の桶を運ぶ腕は隠しようがない。隠さなくてよい、と私は思う。あの腕で夜通し湯を運んできたからこそ、この人は宿の長い夜を知っているのである。
オーブリー司祭が二人の名を、朝の空気へそっと置くように読み上げる。半白の髪の下で、丸い肩が息とともに上がり、読み終えると、ほっとしたようにまた下りた。
「三度、読み上げましたのでねえ。……これで、挙げられるのですよう」
この村の会堂に鐘は無い。かわりに、誰かが遠慮がちに手を打った。隣が続き、その隣も続く。音が揃うまでにはしばらくかかったのに、いったん揃ってからは長いこと止まらない。乾いた音が石の壁に当たって丸く戻り、幾重にも重なって、耳の奥をぬるく満たしていく。笑い声まで混じるたび、会堂の前だけ陽だまりになったようだった。二十年、私はこの音のする場所にいたことがない。
二十年、私は婚礼の当日を、一度も見たことがなかったのだ。
王都では、婚礼の日は次の釣書を開く日である。名は紙の上で決まり、当日、私はいつも別の部屋で、乾く前の墨と次の家名を見ていた。それが仕事の形だと思っていたし、いまでも間違いだとは思わない。ただ、頭でそう思うことと、耳でこうして聞くこととは、どうやら別の棚に置かれているものらしい。紙を重ねる音では動かなかった耳の奥のどこかへ、村じゅうの手の音がするりと入ってくる。今日、私は自分の仕事の終いを聞いている。いや、終いというより、誰かの暮らしが動き出す音である。
婚礼は、これで一組になる。帳面なら短く済む出来事が、ここでは村じゅうを温めている。
◇
宴は広場に出た。卓は二つしかないので、あとは麦の荷の上へ板を渡してある。板は少し傾き、椀の麦湯が金色に揺れる。隙間から乾いた麦の匂いが上がってきて、椀を置くたび、荷が息をしたようにわずかに沈む。
「親方も、そろそろどうだね?」
誰かがそう言うと、笑いが卓から卓へ転がった。鍛冶の親方のギヨームさん、五十二。マチューさんの父である。笑いの中でも眉を動かさず、返事より先に、使い込んだ鉄の握りへ手をやった。
「いや」
それきりである。言葉を半分しか口から出さない人らしい。半分で足りると思っているのか、残りの半分をどう言えばよいのか知らないのか、そこは分からない。ただ、黙り方には迷いがない。
「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「おれは昼だ。朝の火は倅が熾す」
「その手が、いちばん長くしているお仕事は、何でございますか?」
「鉄だ。ほかは知らん」
答えるたび、この人は何かへ手を触れる。鉄の握り、卓の縁、帽子のつば。ごつい指で感触を確かめてから口をひらくので、返事はいつも半拍遅い。その半拍のあいだに、この人はたぶん、言葉を鍛えるように、それが口にする値打ちのあることかどうかを量っている。
「お困りのとき、いちばん先に誰へおっしゃいますか?」
「……司祭さまだな。かみさんを埋めたとき、あの人が来た」
卓の端に座る人から、焼く前の粉の匂いがずっとしている。話すあいだも指で粉を払う癖のある人で、今日はいつもより忙しく膝を撫でていた。払う粉は、もう付いていない。パン焼きのエルディさん。後家である。
「夜半に粉を打ちます。焼き上がるころ、あの人が炉を落とすでしょう。」
「お困りのときは」
「証文をお預けしておりますから、司祭さまです」
同じ名が、二人の口から出た。困ったとき、二人がためらわず同じ戸を叩くというのは、そういうことである。平らな日には別々でも、傾いた日には同じほうへ体を寄せられる。
席のはずれで、村の女が私の袖をちょいと引いた。目はもう、新しい縁を見つけた人の光り方をしている。
「宿のローズと、鍛冶の弟子のロランはどうだね? どっちも身寄りが無いんだから、ちょうどいいだろう?」
料理を取り分けるとき、いつも人の分を先に置く手つきの娘がいる。ローズさん、二十七。十年前に村を出た家の娘で、いまは宿に住み込んでいる。夜明けに起きて水を汲み、眠る客を起こさぬよう竈へ火を入れる。自分の椀は、湯気が細くなってから手にする人である。
「お困りのときは、どちらへ?」
「……あのう。広場のお店に、伺ってますけど。宿の人は夜通し働いておりますから、これ以上、困りごとを増やせなくて」
私である。思いもしなかった答えに、控えを押さえていた指の先が一度、そこだけ時間を忘れたように止まる。二十年、頼り先の欄はいつも他人の名で埋めてきた。困りごとは、それまで紙の向こうから持ち込まれるものにすぎない。そこへ自分の名が入るのを、私は今日はじめて見ている。嬉しいと呼べば少し大げさで、見過ごすには惜しいほどの何かが、みぞおちの奥でそっとほどける。
ロランさん、二十三。三年前によそから来た鍛冶の弟子で、日の出前の火はこの人も熾す。煤の残る頬には、まだ若い人の遠慮より、眠気のほうがよく出ている。
「困ったときっすか。宿の姉さんっす。夜中に起きてんの、あの人だけなんで」
歩く先が違う。片方は広場へ、片方は坂の上の宿へ。同じ夜に困っても、二人は反対を向いて歩き出す。暗がりで手を伸ばす先に、互いの姿は無い。
「お二人とも、身寄りがございません。ですが、お困りのときに行く先が違います」
「同じじゃないか。どっちも一人だろう?」
「一人であることは、同じでございます。ですが、縁は一人と一人を足すものではございません。困った日の道が、同じ戸口へ向いているかどうかでございます」
「……ふうん」
「ですから、このお二人は、お断りになったほうがよろしゅうございます」
村の女は、まだ腑に落ちない顔で麦湯をすすった。眉のあいだに細い溝ができているが、腑に落ちないままでよい。二十年、私の言うことは、たいてい半年してから腑に落ちる。早いほうである。
日が傾いて、広場の笑いが少しやわらかくなったころ、私は真ん中でギヨームさんとエルディさんを向かい合わせる。西日が二人の頬を同じ蜜色に染め、長い影だけが照れたように反対を向いて伸びていた。ギヨームさんは鉄へ、エルディさんは膝へ手を置き、どちらも相手の顔を見ていない。
「昼と夜半でございます。刻が違います。手は鉄と粉で、これも違います。頼り先は、お二人とも司祭さまでいらっしゃいます」
「……そうか」
「この家の火は、これから絶えません」
「……倅の家が片づいたら、また来る」
ギヨームさんは、それだけ言って、やはり鉄の握りへ手をやった。言葉を半分しか出さない人は、ときどき、その半分のほうへ全部を載せる。エルディさんは指で付いていない粉を払い、うつむいたまま、小さくうなずいた。西日に透けた耳だけが、さっきより赤く見える。
仮の約束は、これで五組になる。オーブリー司祭は待ちかねたように、その場で名を読み上げた。今日はこれで四度である。婚礼の二人と、三組目の三度目と、四組目の二度目と、この二人。数えるだけで息が要るのに、声は朝よりよく通る。半白の髪の下で、丸い肩が朝より高く、少し誇らしげに見えた。
宴の火が広場の真ん中で、薪を鳴らしながら燃えている。その向こうから、エヴラールさまが荷車を一台、自分で引いてきた。麦の袋と、塩の壺である。祝いの品より先に、爪に入った土と、上がった息が目に入る。
「領の名で、祝いの麦と塩をお出しします。十年ぶりですので、その、加減が分かりませんが」
「多うございます」
「……多い、でしょうか?」
「多うございます。けれど、十年ぶんでございましょう」
亜麻色の癖毛が、火の風にあおられて耳の上から跳ねた。爪に土の入った大きな手は、荷を置いても休まず、袋の口を結び直している。結び目がひとつ、また一つ増えていく。ほどけないようにする人の手つきである。うなじのあたりが少し熱くなるのを、火のせいにしておく。
◇
王都――。
婚礼から三日で、嫁が実家へ帰った。祝儀の花がしおれるより早い。
婚家には、困ったときに声をかける相手が一人も居ない。実家では、それが母だった。家名も持参金も釣り合い、紙の上には染みほどの欠けもない。それでも、夜になって名を呼べる相手は、欄のどこにも書かれていない。
ベルトランは実家から人手を一人入れて婚家へ通わせ、嫁を戻した。困ったときに言う相手を、婚家の側に一人こしらえたのである。紙に足りなかった欄を、人の足で埋めた格好だ。三日三晩、走り使いが町を往復する。
その走り使いをさせられた書記が一人辞めた。代わりは、まだ来ていない。紙の外を走らせると、人は紙ほどおとなしくないらしい。
◇
夜更け。宴の火が落ち、赤い炭だけになってから、私は店へ戻る。広場に残った麦と煙の匂いが、袖のあたりまでついてきた。
棚の帳面は、薄い埃をかぶったままである。今日も開かない。卓の上には、私が書き起こした控えが一冊だけ載っている。館へお渡ししたものとは別に、もう一度、自分の手元へ起こした一部である。中身は頭にある。それでもそこに置いてあるのは、紙にしておかなければ、今日聞いた声まで夢のように薄れそうだからかもしれない。
灯りを落とす前に、頁を繰る。今日は、人の名がよく読まれた日である。紙が指先で鳴るたび、耳の奥では、まだあの手を打つ音が重なっていた。店は静かなのに、そこだけは広場のつづきである。
その音の中で頁を追うと、真ん中あたりの一頁だけが白い。誰の名も書いていない頁である。指でそっと押さえると、紙は指の腹より冷たかった。厚みの無い冷たさで、こちらの熱だけを吸い取り、押した跡さえ残さない。




