5. 断る理由なら、いくらでもございます
十月五日。朝の光がまだ淡いころ、広場に王都の馬車が停まった。つややかな塗りの車体は、土と石ばかりのこの村ではひどく場違いで、村の子どもが声をひそめながら遠巻きに集まってくる。
ベルトラン・ド・モンテルさま。十日かけて、ご自分で来られたのである。黒い髪はやはり短く刈ってあり、爪まできっちり短い。土埃をかぶった外套は、肩だけが白く粉をふき、その白さが村の土色からくっきり浮いている。二十年、この方の一族は人を寄越す側であって、来る側ではない。その方が目の前におられるだけで、いつもの広場が少し狭く見える。
「二つ持ってきた。あなたを王都へ戻す話と、この領主へ縁を持ち込む話だ」
「お茶を淹れます。井戸の水でございますが」
「けっこうだ」
外套の裾から乾いた土埃がさらりと落ち、店の床へ細い線を引いた。この方は、埃を払うということをなさらない。払う時間さえ惜しまれる性分なのだと、二十年見てきたその手つきから分かる。急ぐ人の埃は、いつも本人より遅れて落ちる。
「では、午後にいたしましょう。午前は、仕事がございますので」
「仕事。この村にか」
「はい。今日は、二人ぶんございます」
馬車の前棒の下で、疲れた馬が重そうに首を振っている。十日の道である。王都の縁組頭が十日をかけてここまで出てくるというのは、あちらで、この方の裁可を待つ仕事が往復二十日ぶん止まるということでもある。それをすべて承知で来られたのだから、これはこの方なりの、ずいぶん大きな払い方なのだ。分かってしまうと、足の裏のあたりが少しだけ落ち着かない。けれど私は、そのことをこの方には申し上げない。
その日の午前、私は二人の話を聞いている。ギュスターヴさん、二十二。畑の次男で、来月には村を出るつもりでいた。日に焼けた手を膝に置いているが、指先は今にも席を立ちたがるように、落ち着かず動いている。
「日の出に起きる。手は畑だ」
「お困りのときは?」
「……兄貴じゃねえな。畑は兄貴のもんだ。困ったら、領主さまんとこへ行く」
クレマンスさん、二十。行商の娘で、年に四度この村を通る。靴の縁には道の細かな砂が残り、膝に載せた荷の紐の端を、話しながら器用に指で巻き取っている。
「あたし、夜明け前に発つの。暗いうちに山を越えないと、次の村で市が終わっちゃうから」
「その手は?」
「荷と勘定。数えるのだけは、父より早いよ。へへっ」
「お困りのときは、どなたへ?」
「頼る人は、この村にはいないよ。強いて言えば……領主さま?」
二人の頼り先が、同じ人になっている。二十年、私は頼り先の欄をいちばん最後に埋めてきた。家の名、持参金、年、身なり。順に埋めていって、いちばん最後に余る欄がそれである。この村では、そこがいちばん先に埋まってしまう。慣れたはずの順番をひっくり返されて、私は数えかけた指を途中で止める。
二人を並べて座らせると、片方からは日の出の匂いがし、片方からは夜明け前の匂いがする。あたたまりかけた土と、まだ冷たさを抱えた道の匂いである。同じ村の道を、違う刻に踏んできた二人だった。すれ違ってはいるのに、まだ会っていない。
「あんた、あたしが年に四度しか来ないの、知ってて言ってる?」
「存じております。四度で足ります。困ったときに行く先が同じでしたら、離れている日数は数に入りません」
「……え?」
若い二人はお互いをチラッと見合って、ほほを赤らめた。
◇
午後、エヴラールさまは王都の縁談を受け取り、そして、ご自分の手で返される。いつもより背筋が伸びて見えたのは、覚悟のぶんだけ肩が固かったからかもしれない。
「お断りになるのは、私の分ではございません」
「はい。私が申します」
断りの言葉は短い。ご自分の名で言われたのは、それが初めてだったと思う。封蝋へ指を当てる手つきは二度すべり、三度目でようやく落ち着いた。けれど、落ち着いたあとの指は、もう畑の土が爪のきわに残る、いつもの大きな手である。小さな迷いを押し込めたぶんだけ、その手は前より頼もしく見えた。
ギュスターヴさんとクレマンスさんの仮の約束が、これで四組目になる。村を出るはずだった次男が、残る。その短い決心に、広場を渡る風まで、さっきより軽くなったように感じる。
「四組目でございますよう」
オーブリー司祭が二人の名を読み上げる。丸い肩が、うれしさを隠しきれずに少し上がっている。十年ぶんの零を、この人はいちばん近くで数えていた。名を読み上げる声が、ほんのり弾んで聞こえる。
「兄貴に言ってくる」とギュスターヴさんが言う。声が裏返っている。
「言うだけでいいよ。あたし、次に来るのは冬だから」
「そんときにゃ、家を建てとくぜぇ」
「無理しないの。屋根だけでいいから」
二人の声が広場の石壁に当たり、照れくさそうに短く返る。ベルトランさまは、その声が届くところで黙って立っておられる。いつもなら書類の向こうにいるはずの、縁を結んだ当人たちが、今は手を伸ばせそうな近さで笑っている。この方は、その声をこんな近さで聞いたことがあるのだろうか。問いかけるように横顔を見たが、わずかに細められた目の意味までは分からない。
「では伺いますが。あなたが〈合わぬ〉と書いて断った縁の、その娘たちはどこへ嫁ぎました?」
ベルトランさまの声は静かである。責める響きではない。ずっと訊きたかったことを、十日かけてここまで運んできた人の声だった。乾いた土埃の匂いが、外套からまだかすかに立っている。窓の外では日が暮れかけ、広場の井戸の縁だけが、取り残されたように白く光っている。
「あなたは結んだ縁しか見ていない。断った縁の行き先を、一度でも数えたことがおありか?」
私は、他人の釣書ばかり書いてきた。
二十年ぶんの顔が、せめて順に浮かんでくれればよい。けれど、浮かんでこない。目に浮かぶのは、紙の白さと、空いたままの欄ばかりである。名前も知らない娘さんが、名前も知らないまま、どこかへ行く。それだけが今さら、妙にはっきりと分かる。
喉だけが先に動き、それからようやく音になる。舌の根は乾いて上あごに張りつき、ほどけた声が、思っていたより低く出る。
「……数えてまいりませんでした」
断る理由なら、いくらでも思いつくが、その先の景色までは――。
ベルトランさまは、それ以上おっしゃらない。卓の縁を細い指で二度叩き、ためらいなく外套を取られる。答えを引き出しに来たのではなく、問いをこちらへ置いていきに来た顔である。急ぐ人の癖は、帰り支度にも変わらず表れる。それでも扉へ向かう背中には、来たときより少しだけ土埃が重く見える。
王都へ戻す話は、二つのうちの一つと言われたきりで、とうとう中身をお切り出しにならなかった。返事を求めず、ただこちらへ置いていく。この方は、こちらが受け取るまで黙って待てるような、そういう置き方をなさる。
◇
王都。彼が村に居るあいだに、縁がまた一件壊れた。
嫁は姑と同じ屋根に住めず、十日で実家へ帰っている。台所の使い方が違ったのだそうである。朝、竈の前に二人が立ち、煮立つ鍋を挟んで、どちらも譲らない。湯気ばかりが間を取り持っていたらしい。
それでも王都は止まらない。彼が発つ前に置いていった指図のとおり、縁組所は別に家を借りて住まわせている。書記が指図の紙を読み上げるそばから、若い者が外へ飛び出し、家主のところまで駆けていく。
遅れたのは、彼の裁可が要る部分だけである。彼が王都を空けていた二十日ぶん、その一枚は卓の上で、彼の帰りを静かに待っている。誰も触らない。触ってよい者が、この部屋に一人しかいないからである。傾いた日の光だけが紙の上をゆっくり渡り、仕事の遅れを黙って数えている。
◇
夜。店の前、軒の灯りがかろうじて届くところに、エヴラールさまが立っておられる。明るいところへ入るでもなく、帰るでもなく、亜麻色の髪だけが淡く照らされている。
「あの、ひとつだけ、申し上げておきたいことが」
「はい」
「私の縁談だけは、あなたに頼みません」
風が止まる。耳の奥が、しん、と静かになる。井戸で水を汲む音も、宿で皿を重ねる音も、そのあいだだけ遠のいた。二十年、私は人の縁の話を聞くときだけ、こういう耳になる。言葉の裏に隠れた迷いまで、拾い上げようとする耳である。
「なぜ……でございましょう」
「……お答えは、いたしかねます」
止まっていた風が戻り、亜麻色の癖毛がまた跳ねる。大きな手は袖口を握ったままで、力を入れすぎた布には、ほどいても消えそうにない皺が残っている。顔にはいつもの穏やかさがあるのに、その手だけが、どうにも正直である。
二十年、私は人の顔を見て、その人の朝と手と頼り先を読んできた。それなのに、目の前の人が袖口を握る、その手だけが読めない。読もうとするたび、こちらの胸の内が先にざわついて、肝心の文字を隠してしまう。
「失敬……」
エヴラールさまは足早に去られた。
私はその背中を呆然としながら見送る――読めないままの言葉ほど、耳の奥にいつまでも残るらしい。




