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4. 水は、縁では繋がりません

 九月二十八日。帳面の白い紙に記す。セバスチャンさん、二十六。畑の長男。隣の畑のヴィヴィアンさん、二十三。


 二つの畑は、三代のあいだ、流れる水を奪い合っている。祖父の代から受け継いだ言い分を、孫は自分で見たことのように口にする。誰も始まりの日を見ていないのに、怒りだけは今日まで濁らず残っている。


「縁を結べば、水が繋がるだろう」と村が言う。


 エヴラールさまも、半分はそうお考えのようなお顔である。爪の間に土を残した大きな手は、膝の上で固く組まれたまま、ほどけない。淡い亜麻色の癖毛が、うつむかれた拍子に額へさらりと落ちる。三代のもつれを一度に片づける答えが目の前に差し出されれば、誰でも、そちらへ心を寄せたくなる。


「水路の口を、代々どちらが先に開けるかで揉めております。」


「そのようですね。私の父も、止められませんでした」


 畑のあぜはからからに乾き、歩くたび、砕けた土が白い粉になって靴の縁まで這い上がる。水の来る側の畝だけは湿って黒く、来ない側は日に焼けて白い。境を走る一本の溝を挟み、地面の色があまりにもくっきり分かれていた。遠くから眺めれば、そこだけ別の季節を並べて置いたように見える。


「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」


「日の出だ」とセバスチャンさんが言う。


「あたしも日の出です」とヴィヴィアンさんが言う。


 差し出された掌を、陽の下で並べて見せてもらう。柄の当たるところだけ、皮が同じように厚い。同じ道具を、同じ握り方で、同じ年数だけ持ってきた手である。よく似ているのは、仲がよいからではない。同じ土に、同じだけ削られてきたからだ。


「その手は」


「鋤」


「……鋤です」


 同じ言葉が二度、同じ間を置いて返ってくる。働く手だけでなく、取り合うものまで同じ二人である。


「お困りのときは」


「婆さんだな。バベット婆さん」「うちの父です」


 起きる時刻が同じ。手が同じ。頼り先は、片方が婆さんで、片方が父である。三つとも、縁には具合が悪い。いや、具合が悪いというより、この二人は互いを見るためでなく、水の話をするために、村の都合で並ばされているだけなのだ。


「この縁は、お断りになったほうがよろしゅうございます」


 村じゅうが、乾いた草を踏んだようにざわめく。自分たちが当てにしていた答えを、目の前から取り上げられた声である。


「水は、縁では繋がりません」


 ヴィヴィアンさんの肩から、固い結び目がほどけるように、ふっと力が抜ける。頬を固くしていた力までゆるみ、目のふちだけが、こらえていたものを隠せず少し赤い。長く息を止めていた人が、そのことにようやく自分で気づいた顔だ。断られたほうが見せる安堵を、私は何も言えず、しばらく見つめている。


 二十年、私は縁を断ってきた。けれど、断ったあとの顔を見るのは、これが初めてである。王都では、断りは紙で届く。紙には、顔も息もない。相手がどこで息をついたのか、あるいはつかなかったのかを、私は一度も見ていない。


 人の顔を見ないで済むように、あの町はできている。半日も歩けば端から端まで行ける村では、そうはいかない。誰かのため息が、道の向こうまで届いてしまう。


「あの」とヴィヴィアンさんが小さく言う。「あたし、畑の娘だって、みんなが言うので」


「お手は、鋤でございましょう」


「……はい。鋤です。いまは」


 〈いまは〉という一語を、私は帳面に書かない。書く場所がないからではない。まだ、その方が、ご自分の望みを口にしておられないからである。こちらが先回りして書けば、その方が迷う時間まで奪ってしまう。人が自分の口で言うまでは、それはまだ、その人のものではない。祖母に教わったのは、そんなふうに待つことだった。


 その日は、村の広場に種の市が立っている。口を開けた麻袋が幾つも並び、種は粒の大きさごとにきちんと分けられていた。日に温められた種の匂いには、乾いた粉と、芽になる前のかすかな青さが混じる。リュセから父娘が荷を引いてきていた。マリオンさん、二十二。種を採る家の娘である。


「うちは日暮れからです。種は、日が落ちてから選るので」


「なぜ、日が落ちてからでございますか?」


「昼の目だと、大きさで判断しがちになるんです。でも灯りの下だと、重さでしっかり分けられるので」


「では、その手は?」


「種です。鋤は父が持ちます」


 同じ畑に立っていても、同じ仕事をしているわけではない。ヴァルヌは鋤の家、リュセは種の家である。手の仕事が違えば、取り合うものがない。取り合うものがないところでこそ、相手へ何かを譲る手が、ようやく動く。


「お困りのときは、どなたへ?」


「……母に」


 私はその答えを、リュセの実家のことだと読む。そして、きれいに外した。


 坂の下へ寄り、婆さんにその話をする。戸は今日も細く開き、暗い土間が隙間からこちらを見返していた。開けておくのが癖になったのか、私が来るのを見ているのか、そこはやはり分からない。


「馬鹿だね」とバベットさんが言う。白髪を包んだ布の下で、褪せた青い目が細くなる。「あの娘が泣きに行くのは母親じゃない。あたしんとこだよ」


「……なぜでございます?」


「あの子の母親が寝込んだ年に、三月、うちで預かってる。飯を炊いて、髪を梳いてやったのさ。この足だ、あたしは坂を上がれない。だからあの子が、下りてくる」


 頼り先は、セバスチャンさんと同じ人なのである。私の帳面をどこまでめくっても、そんな行は一つもない。王都の帳面に書けるのは、決められた問いに、口で答えられることだけである。誰の家に誰が三月いたか。そのあいだに誰が髪を梳いたか。そういうぬくもりには、書き込む欄さえない。


 灰の匂いが染みついた土間で、二十年ぶんの帳面が、急に薄っぺらな紙の束に思える。紙よりも、婆さんの言葉のほうがずっと重い。その重さに触れた指の先から、すうっと冷えていく。


 広場へ戻り、二人を種の荷の脇で引き合わせる。売り声と笑い声の波が行き交うなか、そこだけ、すっと音が遠のいた。


「鋤の家か」とマリオンさんが言う。「うちの種、去年おたくの畝で採れが悪かったって、父が言ってた」


「……それは、おれのせいだ」


 言い訳をせず、自分の失敗をまっすぐ差し出す人である。マリオンさんは、何か言いかけて、口を閉じる。しばらく黙る。それから荷の紐を解いた。迷いの消えた指は早く、手の中で紐がするするとほどけていく。その速さは、毎日、同じ仕事を重ねてきた人のものである。


「じゃあ、次の種は選って持ってくる。おたくの畝を見てから選る」


「見に来るのか?」


「見ないで選れないもの。父にもそう言われてる」


 セバスチャンさんは、しばらくマリオンさんの顔を見ている。畑の話しかしていない二人なのに、言葉はまだ先へ進みたがっている。話が続くとは、たぶんこういうことだ。何を話すかではなく、相手の声に押されて、次の一言がひとりでに口まで上がってくるかどうかである。


 持参金が要る、とリュセの父が言う。畑の実りぶんさえ出せない家である。釣書に額の欄があるかぎり、そこを埋められない家の紙は、王都へ行っても止められる。この村の縁が十年動かなかった理由の半分は、人ではなく、その小さな欄にある。


「額を書けませんと、王都の仲立ちが受けませんので……」


「では、額でないもので構いませんか? 領の名で、三年ぶんの種籾を保証いたします。持参金の代わりに」


 エヴラールさまのお声には、もう震えがなかった。初めてお目にかかった日、お茶が出せないとおっしゃったときの細いお声とは、まるで別の人のようである。土を守るために組まれていた大きな手が、いまは誰かの暮らしを支えようとしている。仮の約束は三組になる。


「市の脇でもよろしいのでしょうかねえ」と司祭が言い、そのまま荷の脇で二人の名を読み上げる。土のついた靴のまま、村の者が立ち止まって聞いていた。


       ◇


 王都。婚礼当日、婿が来なかった。会堂には晴れ着の人が集まり、飾られた花の甘い香りだけが、待つほどに濃くなる。花嫁は支度を整えた姿のまま、昼まで控えの間に座り続けている。


 ベルトランはその日のうちに書状を出し、七日で代わりの婿を立てた。どちらの家名にも傷がつかないよう、破談ではなく〈日延べ〉として届け出る。紙の上では、誰も置き去りにされていない形である。娘の側の家からは、礼のほかに何も出ていない。


「よく納めた」と上の者が言う。


 ベルトランは答えず、指で卓を二度叩く。乾いた音だけが、褒め言葉のあとに残る。


 そのために、司祭の日取りを一つ、次に控えていた三組の中から取り上げた。取り上げられた組の名は、その年のうちには読み上げられない。紙の上では日付がずれただけで、その先にいる誰かの待つ顔までは、どこにも書かれない。


       ◇


 三度目の書状が届く。格上の後見に就ける、という申し出である。封を切った紙が、灯りの下で妙に白い。


「ありがたく存じます。ですが、いま、仮の約束が三組ございます。途中で置いてゆく仕事ではございません」


 夜、私は棚の帳面へ手をかけ、革の背をなぞったところで、また戻す。指の下で、古い革がわずかにきしんだ。開けば、この村の、あの十年より前が読めるのだろう。それを読んでから村を見るのと、村を見てから読むのとでは、目に映るものがたぶん違ってしまう。


 窓の外には月がなく、広場の井戸のあたりだけが、夜の底でぼんやり白い。灯りを落とすと、店の中には前の持ち主の匂いがゆっくり戻ってくる。紙と、埃と、麦のかすかな匂いである。人がいなくなっても、暮らしの匂いだけは、帳面より長く残るらしい。


 あの一件目の娘さんは、どこへ行かれたのだろう。答えの代わりに、喉の奥へ、旅の日に噛んだ土の味がじわりと戻ってくる。

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