3. 笑うのは、おやめくださいまし
九月二十一日。ポーリーヌさん、三十四。後家で、子が二人。フィルマンさん、四十一。男やもめで、子が一人。帳面の上へ数だけを並べると、それだけで人のすべてが決まってしまいそうになる。けれど、朝の匂いも、手の温度も、帳面の枠には収まらない。
村じゅうがこの話を笑っている。悪気のある笑いではない。十年、誰の名も読まれなかった土地で、縁の話が持ち上がる。そのこと自体が、どうにもくすぐったくて可笑しいのだろう。待って、また何も起きないより、先に笑っておくほうが楽である。
「村が笑っておりますよう」とオーブリー司祭が言う。半白の髪の下で、丸い肩がすくんでいる。「わたし、異議が出ますと、困るのですよう」
「どなたが笑っておられますの?」
「みなさんですよう。あの年でねえ、と」
会堂の石の床から、足の裏へ細い冷たさがじわじわ上がってくる。秋の朝の会堂は、外より寒い。高い窓から差す光まで青白く、古い木と消えかけのろうそくの匂いも冷えて感じられる。夏のあいだに石が溜め込んだ冷えが、いまになって出てくるのだそうである。私はその寒さの中で、二人の手を見せてもらうことにする。
「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「あたしです」とポーリーヌさんが言う。「日の出とともに。子の飯がありますから」
「おれも日の出だな」とフィルマンさんが言う。「家畜が待たねえ」
刻が同じである。私の則で言えば、悪い。王都なら、ここで帳面をぱたりと閉じる。乾いた紙の音だけで、まだ始まってもいない朝まで閉じたことにするのが、王都でのやり方である。
「その手を、拝見してもよろしゅうございますか?」
ポーリーヌさんの指の腹には、針の痕が点々と残っている。刺してできた傷ではない。糸を引き続け、皮膚そのものが硬くなった痕である。フィルマンさんの掌は、家畜の綱で擦れて厚い。その硬い厚みが、親指の付け根から小指の下まで途切れず続いている。どちらの手も、美しく見せるために差し出された手ではない。だからこそ、暮らしはよく見える。
同じ朝に起きて、二人は違うものを起こしている。片方は子を、片方は牛を。子の寝ぼけ声と牛の鼻息では、朝の忙しさも違う。同じ刻に、同じ竈を取り合わない二人である。刻が同じでも、そこでしていることが違えば、朝は二人ぶんある。
「お困りのときは」
「バベット婆さんです」
「おれも、婆さんだな」
同じ名が二度出る。その響きだけで、帳面の余白が少し温まる。頼り先が同じというのは、困ったときに二人が同じ戸を叩くということである。同じ土間で、同じ椀の麦湯を出される。別々の戸を叩く二人は、困るたびに、気づかないほど少しずつ離れていく。二十年、私はその離れ方を数えきれないほど見てきている。
「あの、失礼を承知で伺います」とポーリーヌさんが言う。「うちには子が二人おります。あちらには一人。この年で、いまさら、笑われはしませんでしょうか?」
「笑われます」
「……そうですか。」
「ですが、笑うのは、その方々の一日には何も足しません。お二人の朝には、足すものがございます」
会堂を出て、その足で坂を下りる。乾いた草を撫でた風が、裾のまわりをくるくる巡る。いつもは閉じている戸が、今日は細く開いている。今日は指三本ぶんより、ひとつ広い。わずかな隙間なのに、招かれたように見える。
「あんたの帳面には、うちの村のことなんざ一行も書いてないだろ。」
「はい。一行もございません。ですから、伺いに参りました」
バベットさんは、しばらく私の顔を見ている。褪せた青い目の視線が、私の背丈を測るあたりで止まる。背の高い女は、たいてい一度そこで見られる。二十年で、見られる側の待ち方にも慣れている。
「……上がんな。背の高い女は、鴨居に気をつけな」
土間は暗く、火の消えかけた灰と、煎った麦の匂いがする。目が慣れるまでは、壁ぎわの棚も椅子も、黒い影の塊にしか見えない。婆さんは右足を引きずって奥の椅子に腰を下ろし、私に麦湯を出す。椀のふちが欠けていて、その欠けたところだけが唇に冷たい。けれど、麦湯そのものは火傷しそうなほど熱い。そのちぐはぐな冷たさと熱さが、冷えた体には妙にありがたい。
「フィルマンに、隣村の後家を世話しようと思ってるんだがね」
「その方の頼り先は、どちらでございますか?」
「知らないねえ。……ああ、そういえば。あの家とは三十年前に井戸を分けている。分けたときに、こじれた」
「では、お断りになったほうがよろしゅうございます。困ったときに、あのお二人は、同じ井戸へは行けません」
「……あたしが言おうと思ってたんだよ、それ」
婆さんは笑わない。麦湯の椀を両手で持ったまま、天井の梁を見ている。湯気だけが、皺の深い頬をゆっくり撫でていく。両手で持つのは、指の力が落ちた人の持ち方である。見慣れているはずなのに、今朝は妙に目に残る。
「うちの娘は一度だけ、よそへ行って、帰ってきた」
「……」
「それきり、この村から出ちゃいない」
その先を、婆さんは言わない。唇が続きの形にわずかに開き、また閉じる。私も訊かない。訊けば答えてくれる気配はある。それでも、人の古い痛みを、用事のついでに開いてよいわけではない。
梁の上から、煤の粒が一つ落ち、麦湯の面に音もなく小さな輪をつくる。輪は静かに広がって、椀のふちに触れる前に消えてしまう。土間の暗さに目が慣れると、壁ぎわの棚に古い糸巻きが並んでいるのが見える。使いさしのまま、糸の端が、ほどかれるのを待つように垂れたままになっている。
「あんた、この村に何しに来たんだい?」
「縁を結びに参りました。結ばないほうがよい縁を、先にお断りするためにも」
「……酔狂だね」
日の暮れかけた広場には、薄青い影が家々の軒から伸びている。炊事の煙が低い空へ溶け、集まった人々の頬を夕日が赤く染める。その真ん中で、私は二人のあいだに立つ。
「笑うのは、おやめくださいまし。三十四と四十一でございます。あと三十年、同じ竈の前に立つお二人を、いま笑ってどうなさいます。」
誰かが口をつぐむ音が、順番に広がっていく。笑い声が引いていく順番は、そのまま人の並びの順番だった。あとには、風に擦れる服の音と、誰かの照れ隠しらしい咳だけが残る。
風が冷たい。私の指も冷たい。三十四と四十一を庇いながら、私は自分の年を数えている。三十八というのは、なるほど笑われる側の年でもある。背のどこかが小さく縮むけれど、顔まで一緒に縮こまるつもりはない。濃い栗色の髪を結い上げた首筋を、風がひやりと撫でて抜けていく。
「立会人が、その、要りますのですよう」と司祭が言いかける。
「私が立ちます」
エヴラールさまが前へ出られる。亜麻色の癖毛が、風で耳の上から跳ねる。声を出す前に、一度だけ大きな手が固く握られる。指の節が白くなり、それから静かにほどける。
「笑われるのは、私の領だからです」
領主が立会人に立つのは十年ぶりだと、あとで婆さんが教えてくれる。この人は、いま初めて自分の領の縁に名前を貸した。夕日のせいか、耳の先だけが少し赤い。仮の約束は、これで二組になる。紙の上ではまだ仮でも、広場には、もう帰る場所を見つけたような顔が並んでいる。
「では、読み上げます」
オーブリー司祭が、その場で二人の名を読み上げる。今度は声が震えていない。二組目だからである。よい慣れというものも、ちゃんとあるらしい。
◇
王都。磨き上げられた机の上で、同じ娘に、二つの家が同時に申し込んだ。どちらの釣書も釣り合っており、先に出したのはどちらかで揉めている。紙は白く、墨は黒く、争いばかりが妙に華やかである。娘の気持ちは、きれいに余白へ追いやられている。
ベルトランは両家を同じ日の午後に呼び、片方へ別の縁を宛て直す。格が一つ上の家である。断られる側の面目が立つように、上の縁を回したのだ。それを聞いた家は、その場で矛を収める。面目は守られ、娘の名は話の端へ押しやられる。
「では、そちらで結構」
書記が筆を持ち替える暇もない早さである。手は早い。迷いもない。紙の上だけを見れば、惚れ惚れするほど鮮やかな手際である。
ただし、その縁は、先に別の娘へ約されていたものだった。その娘は、次の話が来るまで一年待たされることになる。王都の机では紙を差し替えるだけでも、その娘の窓辺では季節が巡る。名を読み上げてもらえない一年である。
◇
王都から二度目の書状が来る。紙は上等で、封は前より重い。謝礼を三倍にするから戻ってこい、という申し出である。
「お心づかいは、ありがたく存じます。ですが私はもう、値札を剥がさない場所を見つけてしまいました」
断りの返事に、そう書いた。筆の先から落ちた墨が乾いていくのを眺めながら、二十年ぶんの謝礼の額を一度も思い出さなかったことに、あとで気がつく。額は覚えているはずである。帳面に書いていない数のほうを、私はいつも正確に覚えている。それでも指に残っていたのは、欠けた椀の冷たさと、その内側から伝わった麦湯の熱さだった。




