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2. 刻の違うふたりは、一日が長うございます

 九月十四日。店を開けて三日、扉の鈴はまだ鳴らず、誰も来ない。朝に掃いた床へ、昼にはもう薄い埃が戻り、その上に自分の足跡ばかりが増えていく。足跡まで暇そうに見える。


 村の年寄りへ挨拶に伺うのが、仲立ちの作法である。土地の昔も人の縁も覚えている人に、まず手を挙げてもらう。二十年、私は王都でそうしてきた。帳面を開くより先に、人の記憶の戸を叩くのである。バベットさんの家は坂の下にある。苔のにじむ低い屋根の煙出しから、薄い煙が白い空へまっすぐ伸び、風まで遠慮しているようだった。


「ごめんくださいまし。広場の店を借りました、マルティーヌと申します」


 戸が、返事の代わりに細く開く。指三本ぶんだけである。白髪を布で隙なく包んだ人が、その奥から私を測るように見ている。褪せた青い目は、私の背丈に沿って一度だけ上がり、それから下りた。人を招くには狭く、断るには十分な隙間である。


「王都の女に、うちの村の何が分かるっていうんだい?」


「何も分かりません。ですから、伺いに参りました」


「帰んな」


 戸が鼻先で閉まる。右足を引きずる音だけが、板の間を擦りながら家の奥へ遠ざかっていく。閉まりきらない隙間から、土間の匂いが細く流れてきた。灰と、干した草と、古い油。長い暮らしを煮しめたような匂いである。私は戸へ向けていた微笑みをそっとほどく。挨拶は、いつでもできる。二十年、断られることまで仕事のうちである。それでも、閉じた戸の音は耳の奥へ小さく引っかかった。


 私は裾を払い、坂を上がる。立ち止まるほどのことではない。


 鍛冶場は村に一軒だけである。戸口へ立った途端、赤く熱い空気が壁のように顔を押し返す。火床の前では若い男が、汗と煤に濡れた腕でふいごを踏んでいる。マチューさん、二十四。


「朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」


「……おれです。日の出前に火を熾さねえと、鉄が言うことを聞かねえので」


「その手が、いちばん長くしているお仕事は、何でございますか?」


「鉄です。ほかは何も」


 炉の火が、彼の顔の片側だけを赤く染め、反対側を深い影に置いている。汗はこめかみから顎へ伝い、灰の上へ落ちて音もなく消えた。扉口まで押し寄せる熱に、私の右の頬だけがぱりぱりと乾いていく。左の頬だけを、坂から来た風が涼しく撫でる。同じ体の右と左で、季節が違うようである。人も案外、こんなふうに違う時を抱えて暮らすのかもしれない。


「お困りのとき、いちばん先に誰へおっしゃいますか?」


「バベット婆さんです。おふくろが死んだとき、飯を炊きに来てくれたので」


        ◇


 宿は〈麦の穂亭〉が一軒だけである。娘のニコレットさん、二十一。赤茶の髪は湯気で頬にほつれかかり、湯の桶を抱える腕はよく鍛えられている。板場では鍋と木べらが休みなく鳴り、湯気に溶けた獣脂の匂いが鼻の奥へ重く残った。鍛冶場の熱が肌を焼く乾いた熱なら、こちらは服の内側へ忍びこむ濡れた熱である。同じ村の、同じ日の熱なのに、二つの熱は触れ方までまるで違っていた。


「あたし、朝は寝てる。客が寝るまで起きてるんだもん、夜通し」


「その手は」


「鍋。あと鍋。ずっと鍋」


 湯気で赤くなった手を、彼女は前掛けへ手早くこすりつける。けれど拭ったそばから、また湯気が指先を赤く染めていく。うんざりした口ぶりのわりに、その手つきには澱みがない。


「お困りのときは」


「バベット婆さん。……なんで、そんなこと訊くわけ?」


「お仕事でございます。ご縁のお話に伺いました」


「無理だって。ないない。あたし、来年には出てくもん。この村、十年ずっと誰の名も読まれてないんだよ。」


 鍋の底で湯がささやき始めている。吹きこぼれる前だけに立つ、細かな音である。夜通し湯を見ている人の手は、この音だけで動く。ニコレットさんは鍋を見ない。それでも音の膨らみを聞き分け、迷いなく火を弱めた。出ていくと言いながら、体のほうは、この板場の夜を覚えているらしい。


「どなたか、王都においでで?」


「……いない」


 いない、と口にしてから、彼女は鍋の縁をせわしなく拭く。とうにきれいで、拭かなくてよい縁である。手を止めれば、いま言った言葉が喉まで追いついてくる。だから追いつかれる前に、布を動かしているのだろう。布の先だけが、彼女の代わりにひどく忙しい。


      ◇


 その日の午後、村の男が私をつかまえ、マチューさんにはリュセの縄ないの家の娘はどうか、と弾んだ声で言ってきた。縁なら近いほど楽だ、と顔に書いてある。


「お困りのとき、あちらのお嬢さんは、どなたへおっしゃいますか?」


「さあ……向こうの、おっかさんじゃねえかな」


「では、まだ何も申し上げられません」


 縄ないの家は、その日ちょうど村へ縄を売りに来ている。道端には青い草の匂いを残す縄束が積まれ、荷を降ろしていた娘さん本人に、その場で伺った。


「困ったときですか。母です。母のほかには、いません」


 これで両方が揃う。マチューさんは坂の下、あの娘さんはリュセの母。困ったとき、二人の足が向く方角は、はじめから反対である。晴れた日には近く見える縁も、心細い夜には遠すぎる。


「では、お断りになったほうがよろしゅうございます。困ったときに、お二人が別々の家へお帰りになりますから」


 男は、笑いかけた口のまま、しばらく黙る。それから、そういえば姉もそうだった、と視線を落として言った。姉さまの話は、それきり先へ進まない。誰も続きを尋ねず、風だけが縄束の端を転がしていく。続かない話の中に、この村の十年がひっそり折り畳まれている。


 夕方、私は鍛冶場と宿のあいだの道に立つ。傾いた西日が、煤けた鉄の匂いと白い湯気の匂いを細い道の上で混ぜ、その境目に置かれたように足が止まった。歩幅にして、二十歩あるかどうかである。鍛冶場では金槌の音の名残がかすかに鳴り、宿では鍋の蓋が返事をする。この村は、思ったより狭い。狭いくせに、暮らす刻はずいぶん遠い。


「あの二人は、まともに話したこともないよ」と村の者が言う。


「刻は違うほうがよろしゅうございます。手も違うほうが。頼り先だけは、同じでないと持ちません」


「刻が違うと、どうなるんです?」


「刻の違うふたりは、一日が長うございます。片方が起きているあいだ、片方が眠れますから。竈も寝床も、取り合わずに済みます」


 その夕、私は二人を道の真ん中で会わせる。マチューさんは火を落としたばかりで、前髪の先が熱に負けて縮れている。ニコレットさんはこれから板場へ入るところで、前掛けにはまだ乾いた布の匂いが残っていた。一日を終える人と、これから始める人が、同じ西日に頬を染められて立っている。近いのに会わなかった距離が、そのあいだで妙に照れて見えた。


「あんた、いつも寝てる人だ」


「そっちこそ、いつも起きてる人でしょ」


 互いが目を開けている顔を、二人は初めて見ている。二十歩の道を挟み、十年ぶんの朝と夜をすれ違ってきた二人である。マチューさんは煤のついた指を落ち着かなげに握り、ニコレットさんは前掛けの端をつまむ。それでも彼女は、王都の話をしない。言わないことが、いまは出ていかないという返事のように見える。


 顔合わせは、その日のうちに済んだ。互いの暮らす刻は遠くても、仮の約束は同じ日にできる。


「二度目の読み上げまで、七日ございます。そのあいだは、どちらからでも取り下げられますから」


「……取り下げねえよ」


「……あたしも、いいわ」


 二人とも耳まで赤くしながら、うつむき加減である。


「王都は、よろしいので?」


「……いい。読んでもらうわ」


 一度目は、その場で読み上げる決まりである。オーブリー司祭は宿の前まで呼ばれてきた。半白の髪の、丸い肩の人である。長くしまっていた大切な品を取り出すような手つきで紙を開き、二人の名を読み上げる。声は初めこそ細く震えたが、名を重ねるうち、夕暮れの広場へゆっくり届いていく。


「十年ぶりですのでねえ。わたし、読み方を忘れておりましてねえ」


 自分の名が読まれるあいだ、ニコレットさんは口をきかない。村を出ると言っていた人が、名を呼ばれているあいだ、逃げもせず、ただそこに立っている。前掛けの端を握る指だけが白く、唇は泣くより少し手前で、覚えのない笑い方を探していた。板場から漏れる湯気は西日の中を細く立ち上り、その筋に浮かぶ埃が、祝う作法を知らない村の代わりにゆっくり舞っている。


 王都では、読み上げを聞きに行ったことが一度も無い。名が読まれる刻、私はいつも次の釣書を開き、乾かぬ墨を急かしていた。誰かの名が響く会堂は、いつでも私のいる部屋の外にある。名は紙の上で決まり、その先は私の仕事ではない。ずっとそう思っているほうが、手は速く動くのである。


 自分の仕事に音があるのを、三十八にして初めて知る。宿の壁がその声をやわらかく返し、耳の奥に、まだ消えずに残っている。二つの名が並んで読まれると、それだけで一つの音の形になる。紙の上では離れていた名が、声にされると寄り添って聞こえる。二十年、私はこれを一度も聞かず、ただ紙の上へ組んできたのである。掌に受けたその音は、思ったより軽く、思ったより重い。


 仮の約束は、これで一組になる。店にはまだ誰も座っていないのに、空っぽだった椅子へようやく仕事の気配が腰かけたようである。


       ◇


 その夕、エヴラールさまが店へ寄られる。私は、誰も来なかった三日で書き直した一部を卓へ差し出し、館の棚へ置いていただけますか、と申し上げる。中身は頭に入っているので、紙ならいくらでも起こせる。写しがもう一つ、この領にあったほうがよい。なくしたくないものほど離して置くのが、私の身についた用心である。


 厚い革の背が、大きな手のなかでは不思議に小さく見える。傷めぬよう掌で包む持ち方が丁寧すぎて、渡したこちらの指先まで行き場をなくした。紙を預けただけなのに、もっと内側のものまで大事に扱われた気がして、どうにも落ち着かない。


「お預かりいたします。棚に置きます。読まないのは、失礼だからではありません。あなたがここにおいでだからです」


「……お読みになれば、早うございますのに」


「訊けば、もっと早いでしょう。埃は、私が払います」


       ◇


 王都。祝いの蝋燭の匂いも消えぬうちに、ドーラン家とミルボー家の縁は、初夜を待たずに壊れた。


 慣いでは、縁が壊れれば持参金は実家へ戻る。ところが婿方は、それをもう畑の借りの返済に充ててしまっていた。返せと言う実家と、返すものが無いと言う婿方。祝いの席で向き合った家が、今度は役所で訴え合う。


 ベルトランは三日で調停に入り、婿方に新たな借りを起こさせて、持参金をそっくり実家へ返させた。全額が戻ると実家は訴えを取り下げ、表向き、家名にも傷はつかない。書面だけを見れば、鮮やかな始末である。


 けれど、その借りの担保になった婿方の畑が一枚、その年のうちに人手へ渡る。分割で返させれば畑は残ったが、それでは三日では終わらない。家名は守られ、暮らしを支える土だけが静かに削られていく。


       ◇


 王都から書状が届く。封の蝋には見慣れた紋が押されている。開けば、あなたの帳面だけでも譲ってほしい、という文面である。


 王都からここまでは十日。つまりこの紙は、私がこの村へ着くより前に、もう王都を発っていた。壊れたから寄越したのではない。席に着いた日に、断る理由が一件も手元に無いと気がついたのだろう。紙越しでも、あの方の眉がわずかに上がる様子まで見える。あの方は、そういう気づき方だけは、誰よりお早い。


「帳面は三部ございます。役所と、公証人と、私の控えでございます」


 返事にはそう書いた。どうぞお読みくださいまし、とも書き添える。書き終えた紙の上で、乾ききらない墨が窓の青い光を小さく返している。遠く宿のほうから、鍋の蓋が軽く鳴る。帳面なら王都へ渡せる。けれど今日ようやく聞いた仕事の音は、どうやら紙のあいだに収まりそうもない。

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