1. 王都の縁談を二十年まとめてきた仲立ち、本日限りで店じまいいたします
九月一日。王都の仲立ちを務めて、今日で二十年になる。窓の桟へ指を置くと、朝の冷えが皮膚をまっすぐのぼり、手首の奥へしみてくる。この部屋の、この高さにたまる空気を、私の指は二十年ぶん覚えている。
朝いちばんに、私は帳面を三部そろえて卓へ置く。背の高さがきれいに揃うまで、指の腹で二度押す。紙の角がまっすぐな線になって、ようやく指の先まで落ち着く。
二十年、王都の婚礼は、私の帳面の上で決まってきた。
役所へ一部、公証人へ一部、私の控えが一部。写しを取るのに三日かかっている。指にはまだ、その三日ぶんの墨が黒く残る。爪の際へ入り込んだ墨は、何度洗っても落ちない。それが規定であり、規定どおりに働けば、こういう手になる。
仲立ちの仕事は、縁を結ぶことではない。結ばない理由を知っていることである。
「引き継ぎの日を、あらためてお願い申し上げます。これで三度目でございます」
「要らん」
ベルトラン・ド・モンテルさまは、帳面のほうをご覧にならない。黒い髪を短く刈った、まだお若い方である。指は細く、爪は短い。書き物にも剣にもなじんだ跡がなく、ただ几帳面さだけが見える手だと、はじめて拝見した日に思った。その指で卓の縁を二度お叩きになる。お急ぎのときの癖で、ご本人より先に指が時をせいている。
「陰口の帳面など要らん。釣り合いなど、家格を見れば分かる」
嘲りを含んだお声ではない。声には角も熱もなく、抑揚は磨いた板のように平らで、悪意を置ける隙間さえない。この方は本気でそうお思いなのだと、その平らさのせいで分かってしまう。悪意で言われたなら、こちらにもまだ、言葉を返す足場があったのに。
「ようございます。では、本日限りで」
私は膝を折る。二十年、この部屋で同じ角度を何百回と繰り返してきたので、考えるより早く体が動く。服のこすれる音だけが、今日に限って耳へ残る。それから、もう一度、帳面の背をそろえる。揃えてしまえば、別れも仕事の顔をしてくれる。
「ただ一つだけ。明後日の申し込みは、お断りになったほうがよろしゅうございます」
「なぜだ。」
「帳面に書いてございます」
「何と書いてある?」
九月三日。ドーラン家からミルボー家のお嬢さまへ、申し込みが入る日である。釣書の上では、きれいに釣り合っている。家名も、畑の枚数も、代々の付き合いも。誰が見ても、どこにも欠けがない。少なくとも、紙の上には。
申し込む側の家について、私の帳面にあるのは一行しかない。開かなくても言える。二十年、書き足す必要のなかった一行であり、それだけで縁を止めるには足りる。
『朝が一切だめ』
「それだけか?」
「それだけでございます。ミルボーのお嬢さまは、日の出前に起きて、家じゅうの飯を炊かれます。あちらのお家では、朝、どなたの手も動きません」
「……朝の話で、家と家の縁を止めるのか?」
「手の話でございます。お嬢さまはお一人で、あの家の朝を負われます。三十年、代わる手がございません」
ベルトランさまは、もうこちらを見ておられない。手元の別の釣書へ目を落とし、細い指でその紙の端を几帳面に揃えておいでだ。紙が乾いた音を立てる。話は終わったのだと、お口より先に、その指が告げている。
一月前に、私は予告を出した。後任のお名前を伺い、引き継ぎの日を三度お願いして、三度お断りいただいている。恨む筋合いではない、と舌の上で規定文のように読み上げる。断るのはあちらの権利で、こちらの仕事は、断られてもなお置いていける形に整えること。そう考えれば、指先はいつもどおり動く。ならば規定どおり、置いていくだけである。たったそれだけだ。
戸口で一度だけ振り返る。棚には、二十年ぶんの紙と糊の匂いが、薄い埃と重なっている。日の当たらない側の板だけはいつもひやりとして、その冷たさの筋まで指の腹が覚えている。もう二度と撫でることはない。そう思うと、何も触れていない指先が、名残を惜しむようにわずかに曲がる。
――ところで、一件目のことを、私はまだ覚えている。
十八の年に、初めて「お断りになったほうが」と申し上げた縁。北の在から出てきた娘さんで、釣書は奉公先の家名でしか回ってこなかったから、お名前は知らない。記憶の中でも、あの方だけは呼びかける名を持たないままである。
あの方は、どこへ行かれたのだろう。幸せかと案じるには、私はあの方を知らなさすぎる。それでも、そんなことを考えたのは、二十年で初めてである。仕事を置いてきた途端、忘れていた問いのほうが追いついてきたらしい。
王都アンブロワからヴァルヌまでは十日である。行き先を決めたのは、この春、縁組所の卓へ回ってきた一通の手紙のせいだ。文字は大きさも傾きも不揃いで、仲立ちを一人置きたいと書いてある。額の欄だけが白く空いていたので、所内では誰も取り合わなかった。私だけが、その名を覚えている。文字よりも、額の欄の白さのほうが、いつまでも目に残った。
乗合の荷馬車を三度乗り換え、最後の一日は歩く。車輪に揺すられていた体には、自分の足で進む道のほうがかえって頼りない。石畳が砂利になり、砂利が乾いた土へほどけていく。道の脇の畑は、進むほど色を失い、麦の丈も王都のそれより指二本ぶん低い。風が乾いていて、吸うたび喉の奥に土の味が張りつく。
二十年、明日の予定が無い朝を、一度も持たずにきた。誰それの家の返事、どこそこの家の日取り、その次の日の顔合わせ。目が覚めた瞬間には、頭の中で用向きが順番どおりに並ぶ。ところが今は、目を開けても、待っているのは乾いた道ばかりである。手が空くというのは、こんなにも落ち着かないものらしい。行き場をなくした指が、自然と何かを揃えたそうに開いたり閉じたりしている。
九月十一日。ヴァルヌ。
三十七軒。十年前は五十二軒だったと、道を教えてくれた老人が言う。空いた家の戸口には板が打ちつけられ、どれも雨と日差しに色を抜かれて、よく似た灰色になっている。板の下からのぞく敷居だけが、帰る足を待つように残る。同じ年に、いくつも空いたのだろう。
「若いのが出ていくんでね。縁がまとまらねえもんだから」
「仲立ちの方は、いらっしゃいませんの?」
「十年前に死んだよ。それきりだ」
十年、この村で読み上げられた名は、一組もない。数を聞いたとき、私はまず、その十年ぶんの若い者の顔を思う。顔を知らないのに、思ってしまう。
館は石造りで、玄関の敷居が真ん中だけ深くすり減っている。けれど、人が通った跡ではない。屋根の端から落ち続けた雨だれの跡である。エヴラール・ド・ヴァルヌさま。二十九におなりだそうである。淡い亜麻色の癖毛が耳の上で気ままに跳ね、頬は少し痩せておいでなのに、手だけが驚くほど大きい。爪の際には畑の土が入り込み、指の節には乾いた白い筋が残る。領主がご自分で畑へ出るのだと、その爪だけで分かる。
「あの、申し訳ありません。お茶が、その、出せません。井戸の水でよろしければ」
「けっこうでございます」
「あの……正直に申し上げます。この領は、縁談が十年、一件もまとまっておりません」
「存じております」
「畑の実り以外に、お支払いできるものがありません。ですから、その、まとまった縁のぶんだけ、というお話に……いえ」
言い直された。大きな手が膝の上で一度開き、言葉をつかみ損ねたように、また閉じる。言おうとしたことを途中で引っ込め、もっとご自分に損な言い方を選び直す方の手つきである。二十年で、この手つきをする方を、私は何人か見てきた。損な言い方を選ぶ方は、たいてい、あとから約束を小さくしない。そのぶん、長く続く。
「お支払いできるのは、畑の実りぶんです。ですが、まとまらなかった縁のぶんも、お支払いします。あなたが断ってくださった縁こそ、お仕事ですから」
窓の外で、鶏が喉を反らして鳴いている。乾いた庭を渡ってきた声だけが、がらんとした館の壁にやわらかく返る。その余韻が消えると、また静かになる。その静けさが、この家に人が少ないことを、言葉よりはっきり告げていた。
二十年、誰にも言われたことがない。まとめた縁には謝礼がつく。断った縁には、何もつかない。断るために費やした日数も、そのために歩いた道のりも、勘定に入る場所はどこにもなかった。誰も、それを仕事とは呼ばない。無いのが当たり前だったので、無いと思うことさえしてこなかった。けれど今、ずっと空欄だった場所へ、静かに名前を置いてもらった気がする。
朝から冷えていた指の先が、そのときだけ、内側からじんと熱を持つ。肩のあたりで、勘定に入らないものとして畳んできた時間が、そっとほどける。喉は反対に狭くなり、いつもならすぐに出る返事が、ほんの一拍だけ遅れる。
「ようございます。ここを、私の店にいたしましょう」
「……よろしいのですか?」
「はい。断る場所が要りますので」
◇
同じ九月の三日、王都アンブロワの縁組所では――。
ベルトランが卓に釣書を二枚並べる。ドーラン家とミルボー家。家名を照らし、畑の枚数を照らし、代々の付き合いを照らす。窓の光を受けた紙は、どちらも同じ白さである。どこにも欠けはない。細い指が紙の端を揃えると、二枚の縁は、はじめから重なるためにあったようにぴたりと重なった。
「釣り合っている」
その一言で、書記が受理の判を押す。赤い印が紙へ沈み、決定だけが鮮やかに残る。誰も、それ以上の言葉を要さない。二十年、この部屋では、紙の外にある暮らしを確かめるため、もっと長い時間がかかっていた。だが、それを覚えている者は、今日この部屋にいない。
棚のいちばん奥に、革の背の厚い帳面が一部だけ立ててある。窓から離れたそこだけは薄暗く、背に落ちる光も細い。誰も手を伸ばさない。帳面だけが、紙の上にない欠けを知っている。
◇
夜。前の仲立ちの店は、広場に面している。十年、閉まっていたそうである。軒の下には古い木と湿った土の匂いがたまり、扉を押すと、暗がりがゆっくり奥へ退く。鍵は赤く錆びているのに、鍵穴の内側だけは滑らかだ。油を差した誰かがいるのだと、指へ返る軽さで分かる。
埃を払うと、その下から棚の板のあたたかな色が現れる。よく拭き込まれた板である。角の丸まり方まで、布が繰り返し通った道筋のとおりについている。ここに座っていた誰かは、この店を大事にしていたのだろう。掌に乗る埃の重さと、わずかに残る板の艶で、そういうことが分かってしまう。顔も知らないその誰かへ、私は勝手に、少しだけ近しさを覚える。
その棚の奥に、帳面が一冊、息をひそめるように置かれている。
背表紙に名前はない。指で埃を撫でると、革の縫い目がまだ生きている。糸はぴんと張り、押せば指先へかすかな力を返す。長く使われ、そのあと急に使われなくなった物だけが残す張りである。まるで、持ち主の手が戻れば、すぐ続きを始められると信じているような。
私は、まだ開かない。開くのが怖いわけではない。たぶん。革の冷たさへ掌を重ね、店の静けさと自分の呼吸が揃うのを待つ。帳面のほうも黙ったまま、続きを待っている。




