29. 数えると、申しました
十一月七日。午前の会堂で、二十一組目が挙がる。石を切るテオドールさんと、麻を績むブランシュさんである。窓から差す日は冬めいて薄く、床の石は昼を迎えても冷たい。祝福の声だけが高い天井へ、白い息といっしょに上っていく。挙がった婚礼は累計二十一組になる。それでも、戸数は動かない。
「七日、待った」
「はい。お待ちくださいました」
「長かったか? と訊くな」
「伺いませんわ」
◇
昼、坂の下の土間へ、私は帳面の写しを抱えて下りる。店の手元にある一部のほうである。乾いた表紙は、抱えた腕の内側でだんだん温かくなっていく。そのくせ、坂を渡る風は襟元から遠慮なく入る。坂は短いのに、下りきるまでがいつもより長い。踵から膝へ、下りの震えが一段ずつ伝わり、そのたびに腕の力だけが強くなる。帳面が逃げるはずもないのに、二の腕の内へ押しつけずにはいられない。
オーギュストさん、四十四。薪を割る人で、話しながら親指で刃の背をゆっくりなぞる。目は穏やかなのに、指だけが休まない。
「朝は?」
「なに、夜明けだ。薪は霜が下りているうちに割る。そのほうが素直に割れる」
「その手は?」
「薪だ。それきりだ」
刃の背をなぞる親指の腹に、細い傷が何本も走っている。木を割る人の指は、たいてい木よりも刃に削られる。傷の一本ずつに、うまく割れなかった朝や、急いだ夕方が挟まっているのだろう。本人は、それを数える気などなさそうである。
「お困りのときは?」
「なに、困ったときは坂の下のバベットさんとこだ。薪の乾き具合も、うちの親の代の話も、あの人が覚えてる」
アドリエンヌさん、三十九。パンを焼く人で、話しているあいだ、指を組んでは解いている。粉のない土間でも、その手は仕込みの続きをしているように忙しい。
「朝は?」
「あたしは夜半なのよ。竈は夜のうちに熾しておくのよ」
「その手は?」
「竈なのよ。手より先に、竈が起きるのよ」
組んだ指を解き、また組む。節に薄く残った粉が、動くたび白く浮く。粉を練る人の手は、休んでいるあいだも何かをこねる形になるらしい。手にも、いつもの仕事というものがある。
「お困りのときは?」
「困ったときは、バベットさんなのよ。竈の火を落とす日も、母の代のことも、あの人に訊くのよ」
親の代。母の代。二人が、同じ言い方をする。その響きが、抱えてきた表紙の温かさと耳の奥で重なり、腕の内側へ小さく沈む。二十年ぶんの断りのうち、行き先を数えられなかったのは一件だけである。閉じたままのその一件が、いま腕の中で、ほかのどの頁より重い。
「では、二十年前の家の名も、覚えておいででしょ――」
「その頁は、開くんじゃないよ」
バベットさんが、はじめて私の言葉を遮る。椀を置く音が、土間の低い天井へ硬く跳ね、すぐに消える。この人がこんな声を出すのを、私は聞いたことがない。いつも笑う前に細くなる目も、いまは私ではなく、帳面を見ている。
「なぜでございますか?」
「言わないよ」
「お断りいたします。数えると、申しました」
一件目の頁を開く。乾いた紙の端が指の腹に引っかかり、そこだけが二十年ぶんの重さを返してくる。指先が止まりかける。けれど、十八だった私が最初に書いた一行は、待ちくたびれたようにそこにある。奉公先の家の名と、その下に一行。
『釣り合いません』
声に出して、家の名を読む。舌の上で、二十年ぶりにその音が転がった。忘れていたはずなのに、口だけは正しい音を覚えている。オーギュストさんが刃から親指を離し、首を振る。アドリエンヌさんも、指を解いたまま動かない。土間の空気が、灯りの届かない隅から少しずつ冷え、私の足もとへ溜まってくる。
「それは、うちの娘が奉公していた家だ」
土間の暗いほうから、低く、そう返ってくる。声の主を見なくても、バベットさんだと分かる。
二十年前、王都で断られて村へ帰った娘が居る。その娘が、この村の仲立ちになった。人の縁を切る一行を受け取りながら、人の縁を結ぶ側へ回ったのである。断ったのは、私だ。十八の私が、所で教わったとおりの言い方を、疑いもせずそのまま写した。その一行が二十年かけ、紙より遠い道を通って、この土間まで届いている。
「……あんたが断ったのかい?」
「はい」
「そうかい。……うちの娘は、帰ってきてから、はじめて人の話を終いまで聞くようになったよ」
「申し訳――」
「それは要らない」
詫びは受け取ってもらえない。許しも、ここで都合よくもらえるものではない。私は返す言葉をなくし、代わりに書き取る。手は震えていたが、字は震えない。二十年、そういう手にしてきたのである。筆の先が紙をこする音だけが、やけに澄んで聞こえる。一件目の一行の下へ、はじめて行き先が入り、この頁も二段になる。書き終えて息をついたとき、目のふちが熱いことに気づく。泣くための行は、この帳面に無い。だから、その熱も書かずにおく。
開いた頁をそっと閉じ、私は立つ。膝の裏は痺れていたが、立てないほどではない。帳面を抱える腕は、下りてきたときより少しだけ軽い。夕、二人を向かい合わせる。仮の約束は、これで二十三組になる。司祭が坂を下りてきて、冷えはじめた土間で一度目の名を読み上げる。アドリエンヌさんの指は、今度こそ静かである。
「今日でよいのか?」
「はい。今日でございます」
「なに、挙げるのは春でいい。雪が降りはじめたら、こっちは薪だ」
「承知いたしました。春に、日取りを……」
戸口に、エヴラールさまが立っている。何も言わず、何もしない。ただ、亜麻色の癖毛の先に、外の淡い光をぼんやり乗せ、こちらを見ている。その視線は問いも慰めも持ち込まず、私が立つぶんだけの場所を空けてくれている。
「私は、ここにおります」
◇
王都――。
二つの裁可に割れた一件が、とうとう壊れる。どちらも正しい手続きを踏んでいるのである。正しさが正しさを押し返し、同じ日付の紙が二枚、冷えた同じ卓の上で向かい合っている。紙は黙ったまま、どちらも退かない。
彼は地方に所の出先を置いた。かわりに、十日の道の向こうは、彼の目に入らなくなっている。届く紙は増えても、紙にならない声は届かない。黒く短く刈った頭は地図の端で止まり、その先に暮らす人を見ようとしない。
◇
夜、坂を上って店へ戻る。冷えた戸を閉め、暗がりへ灯りをつけて、椅子を引く。脚が床を擦る音は、店の中で思ったより長く響く。
「……ただいま戻りました」
十年、誰も座らなかった椅子へ、そう言ってから腰を下ろす。古い座面は小さく軋み、よそ者を確かめるように私の重みを受ける。その窪みは、私の体には合わない。合わないまま、去年の秋から座っている。指でなぞれば、私ではない人の長い時間が、木のへこみに残っている。窪みを作った人は、二十年前に私が断った娘である。
一件目の行き先は、いま私が座っている椅子だった。




