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28/30

28. 一日に、二組まででございます

 十月三十日。午前は十九組目。リュセの水車番フロランさんと、縄ないの家のソフィーさんである。畦道を半日歩いてきた二人の靴には、向こうの田の黒い土が、まだ湿ったままついている。並んだ爪先を見るだけで、長い道を共に来たことがわかる。二人ともリュセの者なので、ヴァルヌの戸数は動かない。それでも、寄り添って立つ姿を見ていると、村の景色が少し広がったように思える。


「車が鳴っている。今日はよく鳴る」


「はい。よく鳴ります。兄も、そう申しておりました」


「兄さんは種の家の旦那に世話になったな」


「はい。わたしも、あの方に伺います」


       ◇


 午前の式が終わるなり、坂の下の土間へ寄る。土間は外より暗く、戸口から差す光も奥までは届かない。麦を炒った香ばしい匂いが低いところに溜まり、冷えた空気をほんのりやわらげている。バベットさんは麦湯の椀を両手で包み、そのぬくもりまで逃すまいとしている。


「朝は?」


「夜半だよ。この年になると、眠りが浅い。いちばん長くしてきたのは、覚えることさ」


「覚えること、でございますか?」


「あんたが書いてる時分、あたしは覚えてたのさ」


 右足を引きずるこの人は、この土間から出ない。出ないかわりに、村じゅうの話が湯気に連れられてここへ集まってくる。坂の上からも下からも、人の口の数だけ細い道が、この暗い土間へ伸びているようなものだ。


「お困りのときは?」


「困ったとき? 娘のとこさ。十年、居やしないけどね」


 色の薄くなった青い目は、土間の暗いほうを向いたままである。白髪を包んだ布の端が、麦湯の湯気に触れてかすかに揺れる。私は三つとも書き取った。憐れむための欄は、この帳面に無い。だから、余計な言葉も、憐れむ顔も挟まない。ただ、三つ目に短い一語を入れるあいだだけ、筆を持つ指がほんの少し固くなる。紙をこする音が、二人のあいだに細く残った。


       ◇


 午後は二十組目。柳を編むアルベールさんと、卵を集めるエミリーさんが、領のお預かりだった最後の一軒へ入る。戸の内側は日が入らないぶん、外より一段冷たい。長く空だった部屋へ、二人の吐く息が白くほどけ、寄り添うように消えていく。ヴァルヌはこれで四十五軒になる。挙がった婚礼は累計二十組である。春から秋を待っていた五組が、これで全部挙がったことになる。短い記録なのに、待った季節のぶんだけ、紙が少し重く感じられる。


 エミリーさんが、卵を受けるときのように手のひらを上へ向け、そっと丸めながら言う。


「十九だ。今朝は十九」


 アルベールさんが、居心地悪そうに指で柳の編み目をなぞりながら続ける。


「卵の話は、あとにしてもらえるといいんで」


 板を打ちつけてあった戸が、去年の秋から一つずつ開いた。そのたびに、閉じこめられていた埃が日の中で舞い、家はまた人の声を覚えていく。開いた戸の数を、私は一つずつ数えている。数えるあいだ、手のひらはずっと汗ばんだままだ。十年前に空いた家は、これで一軒も残っていない。板を剥がした跡だけが、どの戸口にも白い筋になって残っているのである。傷のようにも、光の縁取りのようにも見える。


 この村へ来た日、私はその白くない板の色を数えた。忘れぬためというより、見落とさぬために。あのときと同じ目で、いまは開いた戸を数えている。数えるものが変わったことに、いまごろ気がつく。気づけば、口もとまで少しゆるんでいた。


       ◇


 午後の会堂で、二十一組目の三度目の名が読み上げられる。梁のあたりで声が一度やわらかくこもり、古い木の匂いを揺らしてから、床のほうへ落ちてくる。去年の秋、この村で最初の一組を読んだ日は、聞いている者が数えるほどしかいなかった。今日は、戸口の外まで人が立っている。人の熱に押され、戸口から入り込む秋風まで、どこか浮き立っている。


「これで三度でございます。あとは、日を待つばかりでございます」


 テオドールさんが、待ちきれないように手のひらを打ち合わせる。それから、浮き立つ人々を背に、司祭のほうへ一歩出る。


「今日でどうだ。村じゅうが集まってる。集まってる日に済ませたい」


「お断りいたします。一日に、二組まででございます」


「二組は、もう挙がったのか?」


「午前と午後で、二組でございます」


「誰が決めた?」


 司祭が丸い肩をきゅっと上げる。皆の視線まで載せてしまったように、上げたまま下ろせずにいる。


「……わたしが来る前から、そうなっております」


「前って、いつだ?」


「……存じません」


 誰が決めたのか、この村で答えられる人は一人しかいない。エヴラールさまはそれを聞くと、迷うそぶりもなく、そのまま坂を下りていく。私も、少し遅れて後ろから下りる。


       ◇


「伺いに参りました。坂は、こちらが下ります」


 領主が土間の敷居の外で膝を折る。大きな体が戸口の光をふさいだので、さらに低く身をかがめた。大きな手は、ためらいなく土の上に置かれている。バベットさんは麦湯の椀を置かない。ここではそのままでよいと、領主の姿勢のほうが先に告げていた。


「一日に二組までというのは、どなたがお決めになりましたか?」


「決めた者なんざ、居ないよ」


「では、どうして?」


「うちの母が覚えて、あたしが覚えて、娘が紙にした。三代だよ。次に渡す相手が来るまでは、覚えてるしかないだろう」


 三代。その短い言葉が、麦湯の湯気よりゆっくり土間へ広がる。この村に帳面が生まれたのは、娘さんの代からだったのだ。それまでは、母から娘へ、名と暮らしが声から声へ、口の高さで渡されてきたのである。渡す先が絶えたあとの十年も、この人は一人で覚えつづけていたことになる。人の名も、家の事情も、忘れてしまわないように口の中で繰り返しながら。


 耳の奥で、自分の鼓動が急に大きくなる。二十年、私は書いて渡す側にいた。紙があれば残せる。それを、当たり前のことだと思っていたのである。この人は、紙がなくても、覚えて渡す側にいたのである。同じ務めが、急にまるで違う重さで届き、組んでいた指に、少し力が入る。


 エヴラールさまは、膝を土から上げない。問いを受け取る者の顔ではなく、教えを受け取る者の顔で、黙ってバベットさんを見ている。


       ◇


 王都――。


 夜まで開けても追いつかず、一人では裁ききれない。裁可を待つあいだに、また一件が壊れる。閉め切った部屋には、ろうそくと冷めた墨の匂いが重くこもる。机の上だけが妙に明るく、急ぐほど紙の山は高く見える。


 彼は縁組頭の座を、二人で分けた。かわりに、同じ一件に二つの裁可が出る日ができる。分けたぶんだけ裁きは早くなり、早くなったぶんだけ答えが二つになる。細い指が、二枚の紙を左右に並べて、どちらも取らない。


       ◇


 夜、坂を上って店へ戻る。上り道では息が切れ、途中で一度、井戸の縁に手をついた。石は昼の熱をもう手放していて、手のひらの下でひやりとする。吐く息が白くほどけ、坂の下の灯りが遠くまたたいている。


 戸を開けて灯りをつけると、棚の一冊がいつもの場所にある。革の背は、やわらかな光に照らされている。埃はもう積もっていない。


「……渡す先が、参りました」


 棚の一冊へ向かって、報告するように言う。十年、この一冊は渡す先の来ないまま、ここで待っていた。返事はもちろん、無い。喉のあたりで長く結ばれていたものが、するりとほどけた気がした。


 覚えていたのは、渡すためだったのだ。

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