27. 帰る先は、ご本人がお決めになります
十月二十三日。午前の会堂で、十八組目が挙がる。川で魚を獲るヴァンサンさんと、灰を焼くジョゼフィーヌさんである。開けはなした戸から入る風は、川面を渡った冷たい水の匂いを含み、祝福を待つ人々の袖をそっと揺らして、私の袖の内側に残る汗まで冷やしていく。挙がった婚礼は累計十八組になる。
「ばしゃっとな。そういう日は、いい日だ」
「ええと、今日は、いい日です」
「ええと、が要るのか?」
「ええと、要ります」
ジョゼフィーヌさんの袖には、今日も白いものが薄くのっている。陽を受けるたび、粉雪のようにかすかに光る。灰は洗っても落ちない。落ちないものを抱えたまま人は嫁ぐし、それでたいてい、うまくいくのである。二十年、私が紙に書いてきたのは、きれいに落ちるほうの汚れだけだった。
◇
昼、店の前に桶がいくつも積まれる。新しい木肌の白さと削りたての匂いが、陽に乾いた広場の埃へ重なり、店先だけが森の中のように青く香っている。パスカルさん、二十九。桶を締める人で、話しながら、たがの輪を節の太い指でくるくる回している。
「仲立ちさん。頼みがあるのさ」
「伺います」
「十年前に村を出ていった娘が居るだろう。あれを連れ戻して、おいらに宛がってくれ。この村にゃ、もう相手が居ないのさ」
名も経緯も、この夏のうちに村じゅうへ知れている。私は帳面を開かない。開けば、その娘をまた紙の中へ閉じ込める気がした。けれど手を止めても、二十年で覚えた言い方のほうが先に出る。喉のところには、使い慣れた断りの形だけが、鍵のように最初から用意されているのである。
「お受けできません。帰る先は、ご本人がお決めになります」
「おいらが悪いのか?」
「いいえ」
「じゃあ、なぜ断るのさ?」
「あの方の帰る先を、私が決めるわけにまいりません。それだけでございます」
パスカルさんが輪を止める。止めた指の関節がぎゅっと白くなり、何かを言い返す代わりに、少しずつ力が抜けていく。たがの輪は膝の上でゆっくり傾き、木の桶へ寄りかかって、かすかな音を立てた。この村に相手が居ない、とこの人は言う。目の前の顔を一人ずつ思い浮かべるより先に、数えられるだけの数を、もう数え終えたつもりでいるらしい。
「朝は?」
「おいらは日の出さ。桶は朝いちばんに水を吸わせるのさ」
「その手は?」
「桶さ。たがを締めるのが、おいらの手さ」
たがの輪が、また膝の上で回りはじめる。ほっとしたようでも、落ち着かないようでもある。この人の指は、話しているあいだ、いつも何かの丸みをなぞっている。途切れずに続く形でなければ、手の置き場に困るのだろう。
そこへ、エステルさんが灰をもらいに寄る。二十六。皮を鞣す人である。灰の袋を抱えた腕には水仕事の冷たさが残り、腕まくりした袖口を、話しながら何度もきちんと直す。
「朝は?」
「それは……いえ、夜半です。皮は夜のうちに桶へ沈めますので」
「その手は?」
「手は……いえ、皮です。手はいつも、皮の裏を撫でております」
言いさしては、ほんの少し眉を寄せ、言い直す。自分のことを尋ねられるのに慣れていない人の間である。腕まくりした腕は肘まで日に焼けておらず、白い肌に冷えた水の跡が細く残っている。桶へ沈めている時間のほうが、日に当たる時間より長いのだろう。爪のふちには、働いた分だけ、灰の白がうっすらと入り込んでいる。
「お困りのときは?」
「それは……いえ、灰の姉さんです。皮を鞣すのに、灰をいただくのです」
パスカルさんが、輪を回す指だけは止めぬまま、はじめてエステルさんのほうへ顔を向ける。
「困ったときは灰の姉さんさ。桶のたがを締めたあと、灰で拭くのさ」
「桶の、たが?」
「毎朝、あんたんとこへ届けてるやつさ」
喉の奥が、勝手に小さく鳴った。毎朝この人が桶を届けている家の娘である。けれど届け先の名は、いま「皮を鞣す家の娘」としか出てこなかった。毎朝交わしてきたはずの姿が、仕事の名の陰へすっぽり隠れていたのである。数に入れていない人は、いつの間にか居ないのと同じ扱いになる。だから、村に相手が居ないという言葉が、何の嘘もなく本当に口から出ることになる。
「刻は違うほうがよろしゅうございます。手も違うほうが。頼り先だけは、同じでないと持ちません」
「……おいらは、居ないと言った……」
「はい。居ないとおっしゃいました」
エステルさんが袖口に隠していた手をそっと出し、積み上がった桶の山を見つめる。見慣れたはずの木肌を、初めて見るもののように。そのあと一つ息をのみ、私ではなくパスカルさんへ向き直った。
「それは……いえ、毎朝の桶は、あなたの手だったのですね」
「おいらの手さ」
「では、うかがいます。わたしでも……よろしいですか?」
エステルさんは上目がちに恐る恐る聞いた。
「えっ? そ、そりゃぁ頼まれたら断れない……さ」
パスカルさんが、私の方をチラチラ見ながら答える。
エステルさんは袖口をもう一度直す。そこへ勇気まで折り込むように指で折り目を押さえてから、深く頭を下げる。
「……はい。では、わたしから、お願いします」
「お、おう。こ、こちらこそ……さ。挙げるのは、冬に入る前に村じゅうの桶のたがを締め直してからさ」
「承知いたしました。日は、そちらでお決めくださいまし」
夕方、茜色の光が桶の縁を丸く照らす中、二人を向かい合わせる。仮の約束は、これで二十二組になる。司祭がその場で一度目の名を読み上げると、エステルさんが袖口をもう一度だけ直していた。指の先は、うれしさに追いつけないように少し震えている。それでも袖口は、きちんと折り目のところで揃うのである。隣では、パスカルさんの指が、見えない輪の丸みを静かになぞっていた。
◇
街道から使いが戻ったのは、その日の暮れである。低くなった陽が土埃を赤く染め、馬の荒い息が白くほどけていた。土埃をかぶった外套が、疲れきった体より先に鞍の上から下ろされる。エヴラールさまは村の者が集まる前で、荷を解くより先に口を開いた。亜麻色の癖毛が、暮れの冷たい風にあおられ、額のところだけ幼いころのように乱れている。
「リゼットは、生きております。王都から二日戻った町で、宿の勝手を預かっているそうです」
誰も声を上げない。安堵は大きすぎると、声になるまでに時間がかかるらしい。井戸のあたりで桶が石に当たり、澄んだ音が広場を渡って消えるまで、誰も動かないのである。私の指の先だけが、耳より先に驚いたように急に冷たくなっていた。十年、誰も行き先を知らなかった人が、いま、遠い町の勝手口に立っている。火の具合を見て、皿を数え、自分で選んだ朝を迎えているところを、勝手に思い描いた。
村の誰かが、まだ答えを包んでいそうな荷のほうへ首を伸ばして訊く。
「連れ戻しますか?」
「いいえ」
私が答えるより先に、その人が迷いなく答えている。緑がかった茶の目は街道のほうを向いたままで、遠くにいる娘の姿を、こちらの都合で引き寄せようとはしない。
「あの娘が決めた先です」
「さようでございますね」
◇
王都――。
夕暮れを知らぬ役所の机で、額の欄が埋まらない届けが積み上がり、書けない家の縁が、また一つ、届けの前から静かに消える。空いたままの欄が、どの紙にも同じ形の穴をあけている。その穴の向こうに誰が居たのかは、どの紙にも書かれていない。
彼は、額の欄は書かなくてよいことにしている。かわりに、額を書かずに組んだ縁の持参金の争いを、縁組所が引き受けた。空欄を許せば、別の欄へ責任が移る。それでも短く刈った黒い頭が、訴えを聞く机の前から動かない。
◇
夜、店の帳面へ二十二組目を書き足す。灯りを近づけると、紙の目が細かく立ち、乾きかけた墨が鈍く光って見える。窓の外の街道は、もう闇へ溶けて何も見えない。それでも道は、見えない先へ続いている。あの道の向こうで、誰かが誰にも連れ戻されず、自分の名で自分の居場所を決めていたのだと思うと、筆の先が紙の上で少しのあいだ動かなくなる。
「帰る先は、ご本人がお決めになります」
今日、広場で言ったのと同じ言葉を、もう一度なぞってみる。口にすれば簡単で、簡単だからこそ、耳のほうへ遅れて届く。二十年、私は人の行き先を紙の上で決めてきた。迷わず書けることを、正しいことだと思っていたのだ。決めた先が本人の望みかどうかは、一度も欄に無かったのである。
あの娘の行き先は、あの娘が決めていた。




