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26. 考え直せる七日が、消えます

 十月十六日。会堂の戸を押すと、蝶番がひと声きしみ、刈り入れの終わった村の匂いが朝の光と一緒に入ってくる。乾いた藁と、少し焦げた土の匂いである。床の石は朝の冷えを溜め、夏のあいだは素足でも歩けたのに、いまは靴の裏から踵へ冷たさが這い上がる。石が季節を覚えるのは遅い。遅いぶん、一度覚えたことは、こちらが忘れてもなかなか手放さないらしい。


 午前は十六組目。井戸を浚うレミさんと、薬草を摘むクロチルドさんである。オーブリー司祭が名を呼ぶと、半白の髪の下で丸い肩が大きく持ち上がり、息と一緒にゆっくり下りる。声は梁のあたりで一度やわらかくたわみ、床の石へ落ちてくる。半年ぶんの間があいたぶん、その音は前より深く、待ちくたびれた足の裏まで届く。


「……長かった」


「つまり、待っていた日も数のうちということでございますね。でしたら、この村でいちばん長い二人でございます」


「わたしは、待っていた日のほうを覚えております」


 クロチルドさんが、言葉の角を丸めるように、そう言い換えた。この人はいつも、聞いた言葉を自分の言い方へ直してから頷く。そうしてようやく、手のうちへ収まるらしい。


 午後は十七組目。蜂を飼うオノレさんと、苗を起こすリュシエンヌさんが、十年空いていた家の戸を両側から押す。板を剥がした跡から細い光が差し、埃と、閉じていた家の冷たい匂いが一度にあふれ出る。光の筋で埃が金色に舞い、家まで目を覚ましたようだった。ヴァルヌはこれで四十四軒になる。挙がった婚礼は累計十七組である。


「戸が重い。まあ、そういうことだ」


「重いのは、長く閉まっていたからですの。これからは軽くなるわ」


 種を蒔いた日から刈り入れが終わるまでの六か月、この村では婚礼が一つも挙がらなかったのである。そのあいだ、街道を下ってくる人は絶えなかった。受理は開き直されたのに、縁組所に紙が積まれたまま動かない。待ちきれず、自分の足で来た家の者たちである。その一人ひとりの泥の乾いた靴を前に、私は二十年ぶんの断りの行き先を訊いている。訊くたび、その一行の下へ行き先を書き足し、頁が一つずつ二段になっていく。過ぎた年月にも、遅れて居場所ができる。数え残しているのは、もう一件しかない。


       ◇


 午後も遅く、広場でテオドールさんと向かい合う。四十一。石を切る人で、話す前に掌を打ち合わせて白い粉を落とす。乾いた音が広場に跳ね、粉だけが秋の日差しの中でゆっくり沈む。


「朝は?」


「わしは昼だ。石は日が高くならんと色が見えん。色が見えんうちは、切るところも見えん」


「その手は?」


「石だ。割れるように切る。切るように割る。わしのはそれだけだ」


 同じ語を二度使う人である。一度言って、言葉の前後を返して言い直し、そこでようやく落ち着く。指の節はどれも太く、爪は短く削れ、細い傷には白い粉が埋まっている。


「お困りのときは?」


「困ったときは乳搾りのマドレーヌさんとこだ。石を割った日は、あすこで湯を分けてもらう。湯を分けてもらう日は、たいてい割れた日だ」


 石の粉は、掌の皺の底に残る。落としても落としても残るものを持っている人の手は、たいてい同じかたちに硬くなるのである。二十年、私が見てきたのはこういう手だった。顔は笑えても、手まではうまく笑えない。手を見れば刻が割れることもあるし、刻を訊けば、手のほうが先に割れることもある。


 ブランシュさん、三十五。麻を績む人で、話しながら指に巻いた繊維をほどいていく。ほどけた端が、白い糸のように指の腹を滑り、秋の光を引いて膝へ落ちる。


「朝は?」


「早くはありません。早いのは、麻のほうです。わたしは夜なべでございます」


「その手は?」


「手というほどのものではありません。麻です。麻ばかりでございます」


 この人は、訊かれたことをまず一度だけ否定する。否定してから、そのすぐ隣にある本当のほうを、そっと置く。癖というより、身を守る手つきに近い。それでも、本当のことは隠さない。


「お困りのときは?」


「急ぎはしません。急ぐのは、麻のほうです。困ったときに伺うのは、マドレーヌさんです」


 その名を書き取る指が、一度だけ止まる。乳のにおいのする土間へ、この二人が別々の日に相談へ行き、同じ湯気の前で息をつくところが、勝手に目に浮かんだ。浮かんでから、そんな景色を思い描いたのは二十年で初めてだと気がつく。紙の上で離れていた暮らしが、あの土間でつながっている。それだけで、鼻の奥が少しくすぐったい。


「一つ、頼みがある」


 テオドールさんが掌を打ち合わせる。粉は、もう落ちていない。それでも乾いた音だけが、さっきより大きく響く。


「読み上げを、二度で済ませてくれんか。三度は長い」


「お考えになったほうがよろしゅうございます。考え直せる七日が、消えます」


「わしは考え直さん」


「お相手から、二度目の前に取り下げられることがございました。一度きりのことでございますが」


 オーブリー司祭が、板から目を上げずにそう言う。十年より前、この村にまだ仲立ちが居たころの話である。テオドールさんは何も言わない。その手は、膝の脇で硬く握られている。喉のあたりが一度だけ動いて、それきり止まる。日に灼けた首の皮が、そこだけ頼りなく白い。


 この人が縮めたいのは、日数ではないのだろう。待つあいだ、返事が変わるかもしれないと、掌の中で同じ石を割り続ける時間のほうなのだろう。


「……いま言うな」


「申し上げました。日は、削れませんゆえ」


 夕、二人を向かい合わせる。広場の影が井戸の縁まで伸び、石の照り返しだけが足元に淡く残っている。仮の約束は、これで二十一組になる。司祭がその場で一度目の名を読み上げると、縮めてくれと言った当人が、いちばん深く頭を下げていた。向かい側では、ブランシュさんの指に残っていた麻の端が、ふっとゆるむ。


「……七日、待つ。待つのが仕事なら、待つ」


「はい。お待ちくださいまし」


 エヴラールさまが板の前に立っている。亜麻色の癖毛に、傾いた日が淡い縁を付けている。足は止まっているのに、目だけは街道の先を急いでいる。


「街道へ人を出しております。まだ、報せが参りません」


「さようでございますか。どちらまでいらっしゃいますか?」


「これから、坂を下ります。夏にも一度、伺いました。今日も、伺います」


 エヴラールさまが坂を下りていく。私も少し遅れて、その背を追う。靴の下で乾いた土が崩れる。土間の暗がりで、バベットさんは麦湯の椀を両手に抱えたまま、置こうとしない。


 領主は敷居をまたがず、その外で膝を折る。衣に土がついても払わず、バベットさんと目の高さを合わせたまま口を開く。


「ほかに、覚えておいでのことはありませんか?」


「あんた、夏にも同じことを訊いたね」


「はい。二度目です」


「あのときは家の名を言った。今日は、言うことがないよ」


「……承知しました」


 大きな手が、土の上に置かれたまま動かない。バベットさんの褪せた青い目は、その手を見ようともせず、土間の暗いほうを向いたままである。ただ、椀の麦湯だけがかすかに揺れている。


       ◇


 王都――。


 受理を開き直したので、地方からの届けが所へ押し寄せ、その日のうちには捌けない。机の端に積まれた紙の山は、日ごとに窓の高さへ近づき、昼の光を細くしていく。墨が乾かないうちに、次の紙が重なる。その底で、捌けなかった一件が、届けの前に壊れる。


 彼は縁組所を夜まで開けさせる。灯を足し、机を足し、人を残らせた。それでも紙の山は低くならない。かわりに、所の者が家で夕餉を取らなくなっている。爪の短い指が、最後まで残った机の縁を、焦りのぶんだけ速く叩いている。


       ◇


 夜、店の灯りを落とす前に、帳面の余りの頁へ今日の二十一組目を書き足す。指の先には、まだ石の粉のざらつきが残っている。紙の上の名が、ようやく人の暮らしの手触りを持った気がした。窓の外では、刈り取ったあとの畑が黒く沈み、そこへ薄い霜の気配だけが音もなく降りはじめている。


「……七日でございます」


 声に出すつもりはなかったのに、口のほうが先に動いた。声は帳面の上に小さく落ち、すぐ消える。二十年、私は断った日を数えてきた。断った日にはいつも理由が付き、紙の欄へきちんと収まるから、数えるのはたやすいのである。


 断った日は数えてきたが、待たせた日を数えたことは、一度もない。

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