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25. あれは、この村の帳面でございます

 五月五日。朝いちばんに、街道から来た人が広場で馬を下りる。黒い髪を短く刈った男で、指が細く、爪が短い。十日の道を来たのに、旅の埃は肩に薄く積もるばかりで、外套の裾だけが妙にきれいである。道の途中でも、身なりを整える手を惜しまなかったらしい。


 この人が村へ来るのは二度目になる。前は秋で、こちらの返事は決まっていた。怖くても、口を開けば用は済んだ。今日は何を言われるのか、鞍から下りる背中を見ても見当がつかない。胸の内に、まだ名前のない小石を置かれたようである。


「久しぶりだな」


「ご無沙汰しております」


「井戸を見せてもらった。ここは水がいい」


 ベルトランさまは村の井戸をひととおり見て、石組みや縄の擦れまで黙って確かめてから、用件を一つだけ言う。余分な言葉を重ねないところは、前と変わらない。


「あの帳面の写しを、貸していただきたい」


       ◇


 その朝、私は帳面の一件目の頁に指をかけていた。二十年前、仲立ちになって最初に断った縁である。黄ばんだ紙の角は指の脂でやわらかいのに、その頁だけが戸のように重く、めくれない。爪の先が紙の縁を白く押しているだけで、腕から先に力が入らなかった。指が痛むというほどではない。ただ、昔の私が向こう側から押さえている気がした。


 三年前も、七年前も、十二年前も、十六年前も開いている。順を追えばここへ来る。来ると分かっていて、朝からこの頁の手前で足踏みをしていた。なぜ開けないのかを、私は自分に説明できない。帳面のほうは何も急かさず、私よりよほど気長に待っている。


 開かないまま、私は帳面を伏せて店を出る。日の光はまだ低く、広場の土には夜のあいだの湿りが残り、靴の裏へしっとり貼りつく。井戸のほうから、桶の縁が石に当たる音がひとつだけ届いてくる。朝は私を待たず、もうきちんと始まっている。


       ◇


 昼、柳を編むアルベールさんと、卵を集めるエミリーさんに三問を伺う。店先では、柳の青い匂いと藁の乾いた匂いがゆるく混じっていた。三十五と、二十八である。


「朝は?」


「日暮れなんで。柳は水を吸ってからのほうが、しなるんで」


「その手は?」


「柳なんで。指の腹で編み目をなぞりゃ、太さは分かるんで」


 編み目、と言いながら、この人の指は空で細かく動く。見えない籠を仕上げているようで、その動きには言葉より迷いがない。爪の先が割れているのは、青いうちの枝を裂いてきた手の印である。柳の匂いは、乾いた草より少し青く、水の気配をまだ残している。そばにいると、川べりの風まで店先へ来たように思える。


「お困りのときは?」


「困ったときは領主さまんとこへ行くんで。柳は領の川べりのを使わせてもらってるんで」


 エミリーさんは、話しながら掌を上に向け、そっと丸める。卵の形の空洞が、そのたびに手の中にできた。何もないはずなのに、指先だけは薄い殻を守るようにやさしい。


「朝は、いつでございますか?」


「日の出前。鶏より先に起きないと、割られる」


「その手は?」


「卵だ。割れたのは持って帰らない。十七だ。今朝は十七個」


 数を言うときだけ、この人の声は少し高くなる。朝の働きが、声の先で小さく胸を張るようである。


「お困りのときは?」


「……困ったときは領主さま」


 日暮れと日の出前。柳と卵。前に、領主さまと答えたうえで、そこへは行かないと言った二人がいた。この二人は行く。行った先で何を言うかまで、もう決めているような顔をしている。頼る先を口にする声は同じでも、足がそちらを向くかどうかで、これほど顔つきが違う。私は帳面に書く前に、その違いを少しだけ眺めていた。


       ◇


 午後、店の卓を挟んで、ベルトランさまと向かい合う。窓から差す光が卓の古い傷をなぞり、帳面をしまった棚の前だけが少し暗い。


「王都では、届けを受け直すことにした。整わない紙は、聞き取りで補う。そのための形が要る」


「形と申しますと?」


「あなたの帳面だ。一件に一行、暮らしの事実だけ。あれを写させてほしい」


「お断りいたします。あれは、この村の帳面でございます」


 背が高い私が座ると、この人と目の高さがちょうど揃う。灰色の目で見返しているあいだも、こちらの喉は乾かなかった。卓の下の手も、膝の上でおとなしくしている。秋にこの人の前へ立ったときは、指の先まで冷えていたのを覚えている。あのときは、視線に触れただけで言葉まで凍りそうだった。同じ人の、同じ声である。変わったのは、こちらの立っている場所のほうだろう。あの秋、陰口の帳面など要らんと言った口が、いま、その帳面を借りたいと言っている。肩が軽くなるかと思えば、案外そうでもない。紙に預かった声の重さが、いまは私の意地より先に立っている。ただ、それだけのことである。


「理由を聞こう」


「あの一行は、話してくださった方からお預かりしたものでございます。写しは、その方の許しなしにはお出しできません」


「許しを取ればよいのか?」


「二十年ぶん、お一人ずつ伺うことになります。もうおられない方も、ございます」


 ベルトランさまは、短く刈った頭を一度だけ動かす。詫びも、認める言葉も出てこない。


       ◇


 夕方、その人の目の前で、広場に二人を向かい合わせる。傾いた光が、向かい合う足もとに長い影を落としていた。紙は一枚も出さない。仮の約束は、これで二十組になる。秋を待つ組は、これで五組である。待つという言葉にも、前より少し明るい響きがある。


 オーブリー司祭が一度目の名を読み上げる。丸い肩が息とともに上下し、低い声が夕風に乗って村の屋根を越えていく。村の者が床のかわりに土を踏み鳴らすと、乾きかけた地面から埃がふわりと立ち、その音が井戸の底で細く返った。拍手より不器用で、この村にはよく似合う祝福である。


 紙は、どこにも無い。名が空気の中を通って、聞いた人の耳へ入り、それで済んでしまう。二十年、私はこれを紙の上でやってきた。どちらが確かなのかを比べる気は起きないが、いま鳴っている音のほうが、たしかに温かい。その温かさが、背の後ろの固いところへ急がず染みてくる。


 エヴラールさまが板の前へ立つ。いつもならよく動く手が、今日は脇で静かに握られている。十年前に王都の紙で嫁ぎ、それきり村へ帰れなかった娘の名を、この人は前に一度だけ口にしている。その名を出したときだけ、目の奥に消えない灯が見えた。


「その娘の行き先は、私が探します」


 ベルトランさまの立っているほうを、この人は見ないまま言う。亜麻色の癖毛が夕風に押され、額へ戻ってきても、顔はまっすぐ広場のほうを向いている。声に力を入れた様子はないのに、その言葉だけは、土へ杭を打つように残った。ベルトランさまは何も答えず、馬のほうへ歩いていく。呼び止める者はいない。街道の土が乾きはじめていて、馬の足が上げる埃だけが、夕日の中でしばらく漂っている。やがてそれも薄れ、広場には人の息づかいと、まだ消えない温かさが残る。


       ◇


 王都――。


 整わない届けを受けないと定めたまま季節が過ぎ、縁組所を通った婚礼が一つも挙がらない。机には整った紙ばかりが行儀よく重なり、人の並んでいた場所だけが静かになった。所を通さない縁のほうが、いつのまにか多くなっている。規則は残ったまま、人の暮らしだけがその脇をすり抜けていく。


 発つ前に置いていった指図のとおり、所は受理を開き直し、整わない届けは聞き取りで補うことにした。様式を定めた自分の名で、それを緩めたことになる。秋からこちら、あの所で縁が動いた件は、これで二十四件になる。


       ◇


 夜。土間の火が細くなり、赤い火種だけが灰の下で息をしている。灰の匂いは低いところに残り、冷えた床をゆっくり這う。昼のざわめきが嘘のように、帳面の紙がかすれる音まで聞こえそうである。


「一件目は、開いたのかい?」


「……指はかけました。それだけでございます」


 一件目の頁だけを、私はまだ開いていない。


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