24. 代筆は、書いた人の名では残りません
四月二十八日。春の水を張った田が、薄い空をところどころ映している。畦道を渡って、リュセから二人が来る。水車番のフロランさん、三十三。縄ないの家の娘のソフィーさん、二十四。二人とも、膝から下が同じ土の色に汚れ、歩いてきた道までよく似て見えた。
「釣書を、書いてもらえねえか。おれもこの人も、字が書けねえんだ」
「うちの兄も書けません。書けないまま、縁を結びました」
二人を土間の椅子へ座らせると、古い脚が小さく鳴る。フロランさんは大きな背をできるだけ丸め、ソフィーさんは膝の上で指をそっとこすり合わせていた。畦道の泥の青い匂いが、火の熱にあたためられ、二人の足もとからゆっくりほどけていく。
二人の顔には、覚えがある。名を知らないまま、私の帳面の脇を通り過ぎていった顔である。どちらも、私が断った側に立っていた。二人は何も言わない。椅子のあいだに置かれた沈黙だけが、少しばかり重い。
◇
待たせているあいだに、私は白くない頁を一行だけ開く。紙の端は指になじみ、古い墨だけが妙に近く見える。十六年前。この一件の釣書は、私が代筆した。相手の家の字ではなく、私の字で、私の書き癖まできちんと並んでいた紙である。名は残らなくても、癖は消えてくれないらしい。
「この家名、どなたかご存じでございますか?」
「知らねえな。堰の向こうまでは、おれの足も届かねえ」
「わたしも存じません。……縄を売りに回る先ではございませんので」
この七日のあいだに、行商にも、司祭にも、館にも訊いた。返ったのは、首を横に振る仕草と、知らないという短い答えばかりである。分からない、と頁の下へ書くとき、墨がやけに濃く出る。分からなかったことを書き留めるのに二十年かかったのだと思うと、指の腹が、乾く前の字を一度だけかすめた。黒い線の端がわずかににじみ、そこだけが私の返事のように見えてしまう。
分かった、と書ける日ばかりではない。分からないままの一行も、数のうちに入れておかないと、数えたことにはならないのだろう。七日前に書いた一行と、字の大きさだけは同じである。揃っているのはそこだけで、それでも頁は静かに続きを待っている。
◇
「朝は?」
「堰は夜明け前に上がる。あとは一日、車が鳴っている」
「その手は?」
「車だ。歯が減れば削る。水は、車が使うんであっておれじゃねえ」
この人は、自分を主語にしない。堰が上がり、車が鳴り、歯が減る。ひびの入った手を動かしているのは本人なのに、話の中では物のほうが先に働いている。話しながら、手のひらで空に大きな円をゆっくり描いてみせる。その円だけはのびのびとしていて、背を丸めていた人とは思えないほどだった。
「お困りのときは?」
「困ったときは種の家の旦那だ。堰の水は、あの家の田へも回るからな」
ソフィーさんは、話しながら指の腹で豆を転がす癖がある。豆はどこにも無いのに、親指と人差し指のあいだで、丸いものがたしかに回っている。ときどき指が止まり、見えない傷を見つけたように、わずかに脇へよける。選る手というのは、良いものを拾う手ではなく、悪いものを外す手である。この人の指は、たぶんそちらのほうを長くやってきた。だから返事を選ぶときも、急がないのだろう。
「昼です。豆を選るのは、日が高いうちですから」
「お困りのときは?」
「種の家の旦那さんです。兄も、縁を結ぶときにあの方を頼りましたので」
前に伺ったとき、この人の口から出たのは、母、の一語だけである。いま、そのあとに兄のことと、頼れる人の名が続く。三つ目の欄が黙って移るのを見るのは、これで二度目になる。針を持ったあの人のときも、私は後から気づいている。
夜明け前と昼。車と豆。まるで重ならない暮らしの先で、ジェルヴェさんの名だけが、この冬からリュセの者の三つ目の欄に、続けて出てくる。人ではなく、道しるべのように。
「では、釣書を」
「お受けできません。代筆は、書いた人の名では残りません」
「じゃあ、おれたちはどうすりゃいい?」
「読み上げに、紙は要りません。司祭さまが三度、お二人の名をお読みになります」
◇
午後、会堂でオーブリー司祭が一度目の名を読み上げる。高い窓から差す光の中を、細かな埃がゆっくり流れている。紙は一枚も使わない。仮の約束は、これで十九組になる。フロランさんは天井を見上げ、ソフィーさんは指の腹をこすり合わせながら、どちらも自分の名が声になって、石の壁へやわらかく返るのを黙って聞いている。丸い肩の向こうで、蝋の火が二つ、同じ高さで寄り添うように揺れる。
◇
日が傾いてから、エヴラールさまが店へ来る。戸口から伸びた影が足もとを横切っても、バベットさんは土間の椅子から動かないので、店の中は三人である。火のそばだけが明るく、ほかは夕方の色に沈んでいる。
「あんた、いま何を数えてるんだい?」
「断った縁の、行き先でございます」
エヴラールさまが、口を開いた。声が乾いていて、いつもなら途中に挟まる言い直しが無い。この機会でなければ、口にできなかったようにも聞こえる。
「十年前、父が王都の家へ縁を持ちかけて、この領から娘をひとり嫁がせております。その縁は壊れて、あの娘は帰れませんでした。その手紙を書いたのは、父の代筆をした十九の私です。……ですから私は、自分の縁談だけをお断りしてまいりました」
土間の火が小さく爆ぜ、赤い火の粉をふっと吐く。バベットさんは白髪を包んだ布の下で、褪せた青い目を伏せたまま動かない。知っていたのか、いま初めて知ったのか、その顔からは読めない。私は詫びを受ける立場ではないし、慰めを言う立場でもない。控えを開こうとして、指が表紙の縁で止まる。手の甲に、火の熱だけが薄い紙を一枚のせたように広がっていた。
エヴラールさまの膝の上の手が、いつのまにか固く組まれている。指の節だけが、力を入れすぎたぶん白い。ほどくつもりはないらしい。私はその手を見てから、また火のほうへ目を戻す。
火の色が、この人の頬の輪郭を下から浅く照らしている。強がるときより、黙っているときのほうが幼く見えるのが、少しだけ意外である。詫びを言わせないでよかった、と思う自分がいて、その思い方が正しいのかどうかは、今日も決められそうにない。決めずに置けることも、たぶんある。
◇
王都――。
別冊に書かれたことを、書かれた家が知る。誰が書いたかは分からない。名が無いぶん、家の者の目は書き手ではなく、縁組所そのものへ向くらしい。墨の跡より、沈黙のほうがよく広がる。
彼は、当人へ開いて見せることにしている。紙を挟んで向かい合うほうが、隠すよりましだと踏んだのだろう。そのうえで、見せた家の三軒が、二度と所へ来なくなった。
◇
「あんたの名は、その紙のどこに残るんだい?」
「どこにも要りません。要るのは、あのお二人の名のほうでございます」
私の二十年も、誰の名でも残っていない。




