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23. その家は、もうございません

 四月二十一日。朝から店の前が、春の市のように騒がしい。灰を焼くジョゼフィーヌさんへ、二つの家から同じ日に申し込みが来たのである。三十。袖にも前掛けにも白い灰がうっすらのり、身じろぎするたび、朝の光へふわりと舞う。


 同じ日に二つ、という言い方なら、王都で嫌というほど聞いている。あちらでは、そういうときに決めるのが仲立ちの仕事である。どちらの家が重いかを、田畑の枚数ごと紙の上で量り、軽いほうへ別の縁を宛て直す。それを手際がよいと褒められ、私は素直に褒め言葉として受け取っていた。


 片方は川で魚を獲るヴァンサンさん、三十三。もう片方は山向こうの在から来た男で、話す前に必ず帽子を脱ぎ、胸の前で持ち替える。丁寧というより、そうしなければ言葉が出てこないらしい。


「あんたが決めておくれよ。二つ来たんじゃ、うちも身動きが取れないんだ」


「少しお待ちくださいまし。先に、こちらの用を済ませます」


       ◇


 私は白くない頁を開く。紙の端は、めくられたぶんだけ柔らかくなっている。十二年前。同じ形の一件が、そこに一行だけ残っている。あのとき、私は片方を選んだ。選んで、選ばなかったほうへ、合わぬ、と書いたのである。


 その字は、いま見ても迷いがない。真っすぐで、よく整い、だからこそ今日はやけに冷たい。指の下で紙がわずかに反り、かさりと乾いた音を立てる。昔の私は、頁の向こうでこちらも見ずに筆を置く。


「この家名に、覚えはございますか?」


「ああ。うちと同じ在だ」


「そちらへ嫁がれた娘さんは、いかがしておいででしょうか?」


「あの家は、もう誰も残っちゃいねえ。田も人手に渡って、いまは名だけだ」


「その家は、もうございません」


 男は帽子をかぶり直し、それきり口をつぐむ。つばの影が、日に焼けた目元へ落ちる。私は頁の上へ何を書けばよいのか、しばらく分からずにいる。無いという答えも、答えのうちに入れておくよりほかにない。そう思ってから、ようやく指が動く。墨の冷たさが爪の下から手首へ、細い水のように上がってくる。


 泣くところではない。詫びるところでもない。あの家が絶えたのは、私が選んだからではないだろう。だろう、としか言えないことを、二十年ぶんの頁の上に置いていく。それが、今日から始めた仕事である。喉の奥がひとつ鳴る。聞いたのは私だけで、そのあとは妙に静かだった。


       ◇


 昼、店先へ椅子を出し、ジョゼフィーヌさんとヴァンサンさんに三問を伺う。日差しは高いが、川から渡る風には、まだ春の冷たさが残っている。


「朝は?」


「夜明けだな。魚は明るくなる前に網を上げる。ばしゃっとな」


「その手は?」


「魚だ。あとは網と、この腕だ」


 この人は、話しながら片手で網を繰る。目の前に何も無いのに、節くれた指は水の重さも、濡れた縄の滑りも覚えているように動く。川の匂いは、外套よりも先に、この手のほうから来た。掌の硬い皮には、朝ごとの流れが薄く刻まれている。


「困ったときか? 針のヴィヴィアンさんとこだ。網を繕ってもらうんでな」


 ジョゼフィーヌさんにも問う。


「朝は?」


「ええと、夜なべです。灰は夜のうちに落ち着かせますから」


「その手は?」


「ええと、灰です。焼いて、篩(ふる)って、袋に詰めるところまでを」


 ジョゼフィーヌさんは、指先の灰を払いかけて、途中で手を止める。誰かの服へ飛ばしてしまいそうだと思ったのか、話しているあいだじゅう、その手はどこにも触れず、白い小鳥のように宙で待っている。袖口に残った灰だけが、風にさらわれていく。


「お困りのときは?」


「ええと、困ったときは、針のヴィヴィアンさん。灰の袋を縫っていただくから」


 夜明けと夜なべ。魚と灰。まるで隣り合わない暮らしなのに、二人がそろって挙げたのは、同じ人の名である。網も袋も、あの指先を通ってから村へ戻ってくる。この村では、頼り先というのはたいてい、手の届く距離にある物の名で言い当てられる。


       ◇


 帽子の男が、店先の影を踏み直し、待ちかねたように口を開く。握られた帽子の縁は、すっかり弓なりになっている。


「では、決めておくれ」


「お断りいたします。どちらをお選びになるかは、私の決めることではございません」


「決めるのが仕事だろう?」


「断るのが仕事でございます。十二年前、私が選びました。選ばせていただいた先が、いま、ございません」


 男は帽子の縁を強く握り、硬く曲げてから、ゆっくり力を抜く。ジョゼフィーヌさんは袖の灰を一度だけ払う。白い粉が日差しにほどけ、彼女は両方の顔をゆっくり見比べる。広場の井戸で桶が石に当たり、からん、と乾いた音がする。その響きが家々の壁に薄く返り、消えるまで、誰も口をきかなかった。


 選ばれるほうも、選ばれないほうも、いま自分の足で立っている。私はその外側に立ち、口を挟まず、ただ待つ。待つというのは、二十年やってこなかった側の仕事である。何もしない時間は、紙を埋めるよりずっと長い。掌に滲んだ汗を、そっと前掛けの布へ押しつける。


「……こちらの人で」


 ジョゼフィーヌさんが自分で言う。ヴァンサンさんは、見えない網を繰る手つきのまま固まる。口だけがわずかに開き、嬉しさが顔まで追いつくのに少しかかった。


 帽子の男は広場の端で一度だけ振り返り、それから畦道のほうへ歩いていく。春の草が脚に触れ、その背は若葉の向こうへ小さくなる。帽子の縁を握っていた手は、いつのまにか開いている。


 仮の約束は、これで十八組になる。オーブリー司祭がその場で一度目の名をよく通る声で読み上げ、丸い肩を上下させながら、婚礼は秋だと村の者へ言い添える。あちこちから息をほどく声が上がり、止まっていた広場の時間がようやく動き出す。


       ◇


 夕方、エヴラールさまが井戸の縁に腰を下ろしている。西日が亜麻色の癖毛を淡く透かす。手だけが大きく見える両手を、膝の上で行儀よく組んだままである。


「行き先が無いというのは、こたえますか?」


「こたえます。けれど、数えないよりはようございます」


「あの娘は、村へ帰れませんでした」


 言い終えたとたん、この人は自分の言葉にいちばん驚いたような顔をする。亜麻色の癖毛の下で、耳の縁だけが夕日に負けないほど赤い。組んだ大きな手にも、わずかに力が入る。私はそれ以上訊かず、井戸から上がってくる冷たい水の匂いを吸い、背筋を伸ばす。胸の内には、触れれば崩れる灰のようなものもある。訊かないでいるのも、二十年で覚えた仕事のうちである。


       ◇


 王都――。


 別冊に書いた者の見立てが外れ、一件が壊れた。整った字で並べた理由も、きれいな封も、誰かの暮らしを元へは戻さない。書いた者は間違えるまいとして書き、読んだ者は、整っているからこそそれを疑わなかったのだろう。


 彼は別冊を縁組所の者みなに読ませることにする。一人の見立てで決めないためである。かわりに、書いた者の名を、紙に残さないことにした。名があれば、人は中身より先にその名を信じる。名の無い字が、窓から差す夕明かりの下、机の上で日ごとに増えていく。


       ◇


「明日も開くのかい?」


「一行だけ、開きます」


 行き先が無いということも、行き先である。

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