22. 合わぬと書いた娘の、その後でございます
四月十四日。街道から人が下りてくる。十日かけて来た者の外套は、途中の土を順番に吸い込み、風にあおられるたび乾いた音を立てた。裾に残る色だけが、村の土とはまだ違って見える。
王都からこの村まで十日。二十年、私はその道の向こう側に座り、こちら側の暮らしを何ひとつ知らなかった。いま、その同じ道が人をこちらへ運んでくるのを、反対の端から眺めている。
ガスパールさんと名乗る。四十四。王都で紙を漉く家の主で、話すあいだも、手にした紙の端を指でしきりに揃えている。紙が無いときでさえ、その指だけは、見えない紙の端を探して同じ動きをする。
「手前どもは、縁組所へ納める紙を漉いております。注文の控えで、家と嫁ぎ先は存じております」
「では、私の行き先も、あちらでお聞きになりましたか?」
「聞きました。辞めた方の行き先は、所の内では隠しようがございません」
「十日の道を、それだけのために越して参りました」
連れの娘は父の半歩後ろに立ち、父が言い終えるたび、言葉尻を自分の口に合う形へ小さく言い直す癖がある。従っているようで、少しだけ譲っていない。
「あちらでは、いま届けが受けられません。娘の縁が、欄ひとつで止まっております」
「……控えで、存じております」
四月十日には、十五組目の婚礼が挙がっていた。種を蒔く前の朝である。土の匂いをつけた靴が会堂へ並び、挙がった婚礼は、これで累計十五組になる。畑が人の手を離さなくなるので、次の婚礼は秋まで無い。
◇
店の卓で、私は白くない頁を開き、そこに残った一行だけを明るいほうへ出す。
先週の家名は、行商の荷とともに街道の途中にある。追いかけても荷車の埃を食うだけなので、今日開くのは別の一行である。七年前、北の在の家である。
「この家名を、ご存じでいらっしゃいますか?」
「存じております。あちらの娘さんは、嫁いでおいでになりません」
「……嫁いでおりません」
「奉公先を継がれました。いまは、あちらから紙の注文をいただく側でございます」
息が、思ったより深く入ってくる。胸の奥だけが、私より先に安心したらしい。安堵と呼んでよいのかどうか、私にはまだ決めかねる。私が断ったから今日があるのだ、と考えるのは図々しい。断ったのに今日がある、と考えるのは薄情である。どちらにも寄れないまま、掌の下で、頁の紙が体の熱をゆっくり吸っていく。
肩の力が抜けたのは分かった。分かったうえで、その軽さを自分に許してよいのかが分からない。二十年、私は人の縁について、こんな宙ぶらりんな気持ちを持たずに済ませてきた。紙の上では、良いか悪いかのどちらかしか要らなかったのである。
「合わぬと書いた娘の、その後でございます」
私は、その一行の下へ、行き先のほうを書き足す。墨は薄く、字は小さい。目立たせたくない気持ちまで、ずいぶん正直な字である。それでも二十年で初めて、この頁は二段になった。乾くのを待つあいだ、灰色の目のやり場に困り、私は窓の外で春の光に白んでいる道ばかり見ている。
一行が二行になっただけである。頁そのものは同じなのに、重さが変わった気がするのはおかしい。けれど指は、次の娘の名を驚かせないようにでもするみたいに、さっきより慎重に紙をめくろうとしていた。
◇
改めて、娘さんに三問を伺う。
「朝は?」
「朝でございます。日の出とともに簀を張りますので」
答えたのは父のほうである。娘さんは半歩後ろで、いったん伏せた目を上げ、その語尾を自分のものとして小さく拾い直す。
「……朝です。夜明けではありません」
「その手は?」
「紙でございます。父の手元で、乾かすところまでを」
簀、と言うときに、この人の指が一度だけ動いた。父親と同じ動きである。血ではなく、同じ台の前に立ってきた年月のほうが、こういう癖を指へ移すのだろう。水の冷たさを覚えている指は、乾いた店の中にいても、そこだけ薄く濡れているように見える。娘さんはその手を、隠しも見せびらかしもせず、膝の前に置いている。
「お困りのときは?」
「父でございます。……父のほかには、まだ」
ガスパールさんが卓の上へ一枚を置く。折り目もなく、欄はどれも息苦しいほどきれいに埋まっている。家名、畑の枚数、額。二十年見てきた形そのもので、紙だけなら、どこにもつまずく場所はない。けれど娘さんの目は、紙より先に父の横顔を見ていた。
「これで組んでいただけませんか? 欄はひとつも空いておりません」
「ご意向は分かりましたが、お二人はまだ一度もお会いになっておりません」
「紙は、整っております」
「整っております。お二人が、まだお会いになっておりません」
◇
午後の会堂で、十六組目の三度目の名が読み上げられる。井戸を浚うレミさんと、薬草を摘むクロチルドさんである。開いた扉から湿った土と青い草の匂いが入り、紙は一枚も出てこない。オーブリー司祭が二人の名を呼ぶと、村の者は返事のかわりに床を踏み鳴らした。靴音が腹へ響くなか、半白の髪の下で、丸い肩がその音を受け止めるように大きく上下している。
「三度、読み終えました。ですが、次は秋でございます」
ガスパールさんは、戸口のところで長いこと立っている。いつも紙の端を揃えていた指が、このときだけ止まっていた。名を認める声が梁に当たって降りてくるたび、その肩がわずかに動く。娘さんは何も言わず、止まった指のほうを見ている。
◇
夕方、館の前でエヴラールさまが待っている。西日の薄い金色が石壁に残り、痩せた体つきのせいで、手だけがひどく大きい人に見えるのは、いつものことである。
「あなたが書き足したものを、少し伺っても」
「七年前に、私が合わぬと書いた娘さんでございます」
この人は板の掛かった壁のほうへ目を向けたまま、少しのあいだ黙っている。大きな手が、言葉の置き場所を探すように、外套の脇でゆるく開いている。
「先だって、私にも数えていない一件があると申し上げました」
大きく息をつき――続けた。
「リゼットと申します。十年前に、王都の紙で嫁いだ娘です」
名だけを言って、この人はそれきり黙る。亜麻色の癖毛の先が風に持ち上げられても、目は板の掛かった壁のほうへ向いたまま戻らない。私は続きを訊かなかった。訊けば答えたのかもしれないが、答えさせることまでが私の仕事ではない。口に出した名は、まだ風にさらしておくくらいでよい気がした。
名を口に出すというのは、それだけで一段ぶんの階を下りることなのだと思う。この人は今日、その一段を自分の足で下りた。私はその足音を隣で聞いただけで、下りた先がどこなのかは、まだ私にも見えない。
◇
王都――。
口で訊いて回っても、訊いた暮らしを様式へ書く欄が無い。机には整った紙ばかりが並ぶのに、肝心の人だけが紙の外へこぼれていく。暮らしの記述を禁じたのは、彼自身である。書けなかった一行のせいで、また一件壊れた。
彼は、訊いたことを書く帳面を、様式とは別に一冊立てる。ところがその帳面は、役所も公証人も受け取らない。どこへも出せない紙が、彼の机の上で日ごとに厚くなり、閉じてもわずかに口を開く。
◇
「頁が、厚くなるじゃないか?」
「一行のぶんでございます。それも、下の段に」
合わぬと書いた娘が、いま、立派に人を使う側に立っている。




