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21. 数えていないものが、まだございます

 四月七日。会堂の重い戸を押すと、靴裏に触れる床の石が、もう冬の冷たさではない。冬のあいだ、靴の裏から膝までじわじわ這い上がってきたあの冷えは、今朝、跡形もなく消えている。石は日を溜めるのも吐き出すのも遅いから、床に春が来るのは、この村でいちばん最後である。それでも春は来る。誰が急かすでもないのに、石はきちんと順番を守り、ゆっくり温んでいく。


 午前は十三組目。木挽きのセレスタンさんと、乳搾りのマドレーヌさんである。式のあと、二人は十年空いていた家の戸を、両側から息を合わせて押した。蝶番は長い眠りから起こされたような声で鳴き、斜めに差す日の筋へ、眠っていた埃が金色にほどけていく。ヴァルヌはこれで四十三軒になる。


「おぉ広い……いや、違う。広いんじゃない。天井が高いんだ」


「三十歩です。牛小屋から戸口まで、三十歩あります」


 午後には十四組目、革をなめすユーグさんと機を織るフェリシーさんが続く。挙がった婚礼は、これで累計十四組になる。オーブリー司祭は、そのあいだにも十六組目の二度目の名を読み上げている。半白の髪は汗で細い束になって額へ貼りついているのに、丸い肩は今日、朝から一度も下がらない。名を読むたび、口元だけがほんの少しゆるむ。


 十年、この会堂で名を読む仕事は無かった。その十年ぶんを取り返そうとしているように見えるが、声に焦りは混じらない。一つ読むごとに、この人は必ず一度息を継ぐ。名前と名前のあいだに落ちる短い静けさ、その静けさのほうが、私には鐘の音よりよほど祝いらしく聞こえる。


 会堂の壁の板には、十五組目の日取りが村の者の字で入っている。四月十日。種を蒔く前の、終いの朝である。墨はまだ新しく、古い板の上でそこだけ春の光を返している。


       ◇


 昼、井戸の水が光を跳ね返す広場の日だまりで、オノレさんと向かい合う。二十九。蜂を飼う人で、返事の前には、手の甲に残る古い刺し傷を親指で撫でる癖がある。


「朝は?」


「昼だ。蜂は日の高いうちしか出ない。まあ、そういうことだ」


「その手は?」


「蜜だ。おれは箱を運ぶだけで、働くのは蜂のほうだがな。まあ、そういうことだ」


 箱、と言うときだけ、この人の声は少し低くなり、刺し傷を撫でる指も静かに止まる。手のひらの厚みも、指の節の太さも、その箱をひと冬抱えて過ごした人のものである。ぶっきらぼうな言葉より、手のほうがずっとよく喋っている。


「お困りのときは?」


「困ったときは屋根屋さんだ。巣箱は屋根の裏に上げるからな。まあ、そういうことだ」


 屋根屋さんとは、この春に婚礼を挙げたバティストさんのことである。人の家の屋根を先に葺いてから自分の日を置いた人が、いまは蜂の巣箱の心配まで預けられている。婚礼を挙げても、屋根屋さんの仕事はなかなか屋根から下りてこないらしい。


 リュシエンヌさん、二十五。苗を起こす人で、口を開く前に、土のついた指を服の脇でそっと拭う。爪のあいだに入り込んだ黒い土は、洗っても洗っても抜けないらしい。それでも拭う仕草だけは丁寧で、拭き取れていないことは本人がいちばんよく知っている。


「わたしは夜明け前に起きますの。苗は日が上がる前に起こしますから」


「お困りのときは?」


「困ったときですか。屋根屋さんへ参りますの。苗の囲いを直していただきますから」


 夜明け前と昼。苗と蜜。二人の一日は、端と端に離れている。


「箱は、どちらに置いておいでですか?」


「苗床のそばだ。花が咲く前に置く。まあ、そういうことだ」


「あの箱が近いほうが、実はよく入りますから」


       ◇


 夕方が近づくころ、煮炊きの煙が軒の上へ薄くたまりはじめる。その下で、村の女が私の袖を引き、声をひそめる。言いながら、あたりを二度見回す人である。


「あの話、断っておくれ。理由は言わないでおくれよ。角が立つからさ」


「それはお受けできません。理由を申し上げずにお断りすることは、いたしません」


「なんだい。そんな決まりでもあるのかい?」


「決まりではございません。断られた方は、理由のほうを長く覚えておいでになります」


 女は肩をすくめ、私の袖を放すと、砂を踏んで帰っていく。その背を見送るうち、春の空気は柔らかいはずなのに、喉の奥だけが妙に乾いてくる。理由のほうを長く覚えている、と言った自分の声が、耳の奥から離れない。


 渡した先で、その一行がどれほど長く相手の耳に残るのかを、私は一度も勘定に入れていない。あの人へ向けたつもりの言葉が、巡り巡っていま、自分の喉に小骨のように引っかかっている。


 店へ戻ると、夕日の色が帳場の奥まで伸びている。私は椅子にも座らず、白くない頁のほうを開く。二十年ぶんの断りが、一件に一行ずつ、行儀よく並んでいる。今日も開くのは一行だけである。三年前、王都の紙。


『夜は人を入れない』


 断った理由のほうは、こうして残っている。指でその行をなぞると、乾いた墨が爪の先へかすかに引っかかる。その小さな抵抗に、指がそこで止まる。あの家の娘がどこへ行ったのかを、私は書かなかったのではない。訊かなかったのである。


 訊かなかった、と胸のうちで言い直した途端、店の中は暖かいのに、指の腹だけが急に冷たくなる。断る理由を三つ数えるのは得意である。けれど、数え終えた先で何が起きたかを数えることは、二十年、一度も仕事のうちに入っていない。


       ◇


「数えていないものが、ございました。今からでも聞こうかと……」


 バベットさんは麦湯の椀を両手で包んだまま、立ちのぼる湯気の向こうから、褪せた青い目を土間の暗がりへ向けている。エヴラールさまは戸口の柱に手をかけ、外の残り日を肩に受けている。どちらも先を促さない。その黙り方が、急かされるより少しだけ話しやすい。


「行商の方に、家名だけお預けしようと思います。次にこの村を通られるときに」


「あんた、いまさらそれを聞いてどうするんだい?」


「書き足します。それだけでございます」


       ◇


 夕方、広場の影が井戸の縁まで長く伸びるころ、オノレさんとリュシエンヌさんを向かい合わせる。仮の約束は、これで十七組になる。オーブリー司祭がその場で一度目の名を読み上げると、低く丸い声は井戸の水面まで届き、夕日の中に細かな輪を描いて震える。


 名が二つ、続けて呼ばれる。呼ばれた二人は互いを見ず、どちらも足元の土を、何か大事な答えでも書いてあるように見つめている。恥ずかしさの置き場所は、この村ではだいたい足元と決まっているらしい。伸びた影だけが、本人たちより素直に並んでいる。


 無事、仮の約束が終わると、エヴラールさまが板の前に立ったまま言った。


「私にも、数えていない一件があります」


 亜麻色の癖毛が、傾いた日の縁を薄く縫っている。顔は板へ向いたままだが、声だけがこちらへそっと置かれる。


「どちらのお話でございましょうか?」


「……今日は、そこまでにしておきます」


       ◇


 王都。受理が止まっているあいだに、縁組所を通さない縁が、書類の外で方々に立ちはじめる。そのうちの一つが、誰にも止められないまま壊れた。届けが出ていないのだから、縁組所は、それが結ばれたことも、壊れたことすら、後から聞くことになる。紙の上の空白だけが、何も起きなかった顔をして残る。


 彼は縁組所の者を町へ出し、届けの無い縁も口で訊いて回らせる。かわりに、縁組所の中に誰も居ない日ができた。爪の短い指が、誰も座っていない机の縁を、端から順に叩いていく。乾いた音だけが、返事の無い部屋を行ったり来たりする。


       ◇


「あんた、今日は帳面を二度いじったね」


「開いたのは一度きりでございます。もう一度は、閉じたまま数えておりました」


 二十年、私は断った理由を書いてきた。断った先は、一行も書いていない。

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