20. あちらでは、いま、名が止まっております
三月三十日。朝いちばん、街道を来た使いが、まだ雪解けの匂いをまとったまま写しを一枚置いていった。王都の縁組所の名で、様式の欄の整わない届けは受けない、と黒い字で書かれている。その下には、少し間を空けてもう一行――整うまで、名は読み上げない、とあった。
返事は要らない、掲げてもらえればよい、それだけの用である。街道はぬかるんではいるが通れる、と使いは言い置き、そのまますぐに発っていった。外套の裾は泥を吸って重たげに垂れ、歩くたびに鈍いしずくを落としている。雪解けの道は、見える土より下のほうがずっと緩いらしい。
同じ朝、会堂では十二組目の婚礼が挙がる。湿った木の匂いと、消えかけの蝋の匂いが交じるなか、並ぶのは炭焼きのノエルさんと、蝋を替えるシモーヌさんである。
「おいらは明日、山へ上がるでな。今日でよかっただでな」
「わたくしは、昼です。蝋を落とします。今日からは、この人の炭で」
「炭は、上等でございますか?」
「上等だでな。煙が出ねえでな」
この人は春のうちに山へ上がり、村へ下りてくるのは冬である。明日の朝には荷を背負って発つため、互いの都合が重なる日はここしか無かった。挙がった婚礼は、これで累計十二組になる。冬のあいだ春を待ち続けた七組も、これで全部片づいた。屋根を待った組も、道が開くのを待った組も、人の家の屋根を先に葺いてからようやく自分の日を置いた組も、みな今日までに会堂の床を踏んでいる。晴れ着の裾についた泥まで、この村では祝いの印に見えた。
雪解けの水が屋根の裏を走って、ぽつり、ぽつりと鳴り、その音に重なるように名が読まれていく。十年、この村では一組も読まれなかった。数えていたのは私ではない。けれど、胸の内で欠かさず数えていた人はいる。その人が、いま、いちばん前に立っている。オーブリー司祭の丸い肩は、今日はいちだんと高く、狭い会堂の天井まで持ち上げそうである。半白の髪が汗で額に貼りついても、息がわずかに震えても、この人は名を読む声だけは落とさない。
◇
昼になると、井戸を浚うレミさんが来る。三十六。袖口は乾ききらず、指の節には縄の跡が白く残っている。話す前から、井戸の底へ声を届けるように少し下を向く人である。
「朝は?」
「……ああ。夜明け前だ。井戸を浚う。困ったときは、司祭さまのところだ」
「その手は?」
「水だな。桶と、縄と、腕だ」
クロチルドさん、三十四。薬草を摘む人で、外套からは、踏まれても立つ葉の青い匂いがする。人の話には、忘れず草の名を一つ添える。
「日暮れです。露が下りる前に摘みますので」
「その手は?」
「草です。乾かすところまでが仕事ですので」
「お困りのときは?」
「つまり、困ったときに伺う先ということでございますか。でしたら、司祭さまです」
夜明け前と日暮れ。水と草。この二人は、村の同じ道を、一日のいちばん端と端で歩いている。顔を合わせるころには、片方の仕事はもう終わり、もう片方の仕事が始まるのだろう。それでも靴の裏には、同じ雪解けの土がついている。
◇
午後、村の娘が紙を胸に抱いて店へ来る。王都から届いた釣書で、折り目もなく、欄はどれも息苦しいほどきれいに埋まっている。家名、畑の枚数、額。墨の色までよそよそしいその紙は、私が二十年見てきた形そのものである。
「これ、受けてもいいものでしょうか?」
「こちらからも一枚、様式どおりの紙をお出しになります。額の欄が要ります」
「うちは、書けません」
「書ける家は、この村にございません。あちらでも、そう多くはございません」
あの縁組所で、どの家が欄をいくつ埋められるのか、私は嫌というほど見てきた。埋められる家は、指で数えられるほどしかない。目を伏せれば、そこへ朝の写しの一行が、乾いた声のように重なる。整うまで、名は読み上げない。
「あちらでは、いま、名が止まっております」
「じゃあ、この人は」
「お断りになったほうがよろしゅうございます。組んでも、名が読まれません」
紙は薄い。けれど、その薄さの上で、家も畑も、人の暮らしも動かしてきた。いまは同じ紙が、この村の戸口で、雨に濡れた靴のように行き場をなくして止まっている。
娘は紙の端を強く握り、白くなった指を見てから、ほんの少し笑う。困った顔ではない。読まれない名であっても、いまは自分の手の中にある――そう分かった人の顔である。紙の端に残った小さなしわだけが、さっきまでの迷いを引き受けていた。
娘の背が戸口の向こうへ消えてから、私はレミさんとクロチルドさんの控えを開く。二人はまだ広場に立っている。日暮れの光は井戸の縁を細く縁取り、古い石の欠け目に、金の糸のように残っている。
「読み上げが済むころには、種蒔きでございます。婚礼は、次の秋になります」
「……ああ。待つのは慣れてる」
「秋には、りんどうが咲きますので」
井戸の底をのぞく人と、露の下りる時刻を待つ人である。どちらも急かしたところで、水も草も言うことを聞かないと知っているのだろう。急がない人の声は低く、聞いているこちらの肩からまで、こわばりが静かにほどけていく。仮の約束は、これで十六組になる。
オーブリー司祭が、その場で一度目の名を読み上げる。低く丸い声が会堂の戸口を越え、まだ冷たい広場へゆっくり広がっていく。
◇
夕、エヴラールさまが会堂の壁へ、朝の写しを掛けている。〈代わりに出せるもの〉の板の、すぐ隣である。湿った壁には、紙の白さがひどく目立つ。
「破らないのですね」
「選べるようにしておくのが、私の仕事です」
亜麻色の癖毛が、夕日の細い縁をまとっている。板にある四つは、この人が先々週みずから書いたものである。その下には、村の者の字で荷運びと糸が並び、いまは六つになった。字はどれも大きさが揃わず、右へ傾いたものも、遠慮がちに縮んだものもある。それでも、書いた手のぬくもりだけは、妙に揃って見える。
壁の同じ高さに、王都の写しが掛かる。欄の名は、物差しを当てたように端正に並び、その下へ朝の一行が冷たく続いている。けれど、埋まっている欄は一つも無い。夕日は写しにも板にも同じように当たり、板の木口だけが、粉を吹いたように白く光っている。
◇
王都――。
欄が増え、様式どおりに書ける家がほとんど無くなった。紙を前に、筆を置く手が増えていく。書けない家の縁は、届けにたどり着く前から、声も立てずに消えていく。
彼は、様式の欄の整わない届けは受けないと定めた。ためらいのない強行である。整うまで、王都では誰の名も読み上げられない。
秋からこちら、あの所で壊れた縁は、これで十九件になる。数えれば短いが、そのどれにも、待っていた誰かの朝と夜があった。
◇
夜。窓の外で、雪解けの水が、暗がりを縫うように細く鳴っている。指の先は冷たいのに、掌だけが妙に熱い。あの縁組所の卓に座り、名を紙の上へ黙々と並べていたころ、その名は翌朝になると別の誰かに読み上げられていた。どんな声だったのか、私は一度も聞いたことがない。紙を渡せば仕事は終わりで、その先へ耳を澄ますことさえ思いつかなかったのである。いまは聞こえる。この村の会堂で、七日ごとに、梁を震わせ、人の胸へ落ちていく声が聞こえる。
私が二十年いた場所で、名が止まっている。




