19. 行かないとおっしゃる先は、頼り先ではございません
三月二十三日。朝の会堂で、まだ冷たい光の中に並んで立つのは、仮の約束で十一組目だった二人である。屋根葺きのバティストさんと、糸を績むアニェスさんだ。
「人の家の屋根を、みんな葺いてから、と決めてたでな。おれの日は、いちばん後ろでいい」
「先に言ってくれてもよかったけどね」
「言うと、急かされるでな」
アニェスさんは膝の上で糸を撚るように指先を動かしたまま、隣のバティストさんを見て笑う。からかわれたバティストさんの耳が、朝日にほんのり赤い。この人は兄の家に居て、今日からはバティストさんの家へ移る。村の戸数は動かない。それでも、帰る家を同じにする人が増え、挙がった婚礼は累計十一組になる。
朝の光が高い窓から差し込み、会堂の床を斜めに切っている。金色の筋の中では、踏まれて舞った埃が、祝福をためらうようにゆっくり昇る。紙の上で名を並べてきた者が、こうして人と人の並ぶところを見届けるようになって、まだ一つの季節も回っていない。それでも胸の奥には、前から知っていた景色を見るような、くすぐったい温かさが残る。
会堂へ来る道のとちゅう、白髪を布で包んだバベットさんが戸口に腰掛けていた。褪せた青い目だけが朝の冷気よりも澄んでいて、通る者を一人ずつ、勘定するように見送っている。今朝はいつもより早くから出ているらしく、膝の上の布はもう乾いて、端だけが朝風に揺れていた。この人が数えている日は、たいてい何かが起きる。よいことか悪いことかまでは、数えても教えてくれない。
◇
昼、まだ畑の匂いを肩に残した若い二人が店へ来る。卓の前にきちんと並んで座り、示し合わせたように、同じ答えをした。
「朝は?」
「日の出だ。畑に出る」
「あたしは夜明け前。パンを配りますので」
二人とも、答えが口を離れるまでが早い。考えていない早さではなく、何度も同じことを訊かれ、そのたび同じ答えを差し出してきた人の早さである。
「その手は?」
「鋤だな」
「あたしは、粉と籠です」
どちらの手も、指の関節が太く、爪のきわに仕事の色が残っている。朝の早い仕事をする人の手である。けれど湯呑みを持つときだけは両手になり、湯気を逃すまいと包み込むところまでよく似ている。
「お困りのときは?」
この問いだけは、私はいつも最後に置く。答えまでの間が長いか短いかで、その人がどれほど人に支えられ、どれほど自分だけで踏ん張ってきたか、暮らしの厚みが見えるからである。
「困ったときは、領主さまだな」
「あたしも、領主さま」
二人の声は気持ちがよいほど揃い、そこだけを聞けば申し分がない。だが、言葉が止んだ土間では、乾いた土が靴の縁からぽろぽろとこぼれ、答えの足元まで崩していくように見えた。
控えの上では、頼り先が同じである。第一に良い。丸をつけたくなる答えだ。ところが二人とも、そのあとに、あっさり続きを足す。
「まあ、行かないけどな」
「行かないわね。あんな立派なところに、上がれるわけがないもの」
控えを押さえていた私の指が、紙の上でぴたりと止まる。名は同じなのに、そこへ続く道が無い。この欄は、これまでずっと名前で埋めてきた。書けさえすれば暮らしに橋が架かるような気でいたのだ。けれど名前と、実際に行くことは、同じではなかったらしい。紙の白さが、急に頼りなく見える。
「では、これまでにお困りのときは、どちらへ?」
「うちで済ませたな」
「あたしも」
済ませられるうちは、それでよい。家の中だけで片づけて、誰にも見せずに済む。私が訊いているのは、済ませられなくなった日に、どこへ足を向けるかである。この欄は、その日のためだけに空けてあるはずだった。けれど空いているのは欄ではなく、この二人が渡れる道なのかもしれない。
私は湯呑みを卓へ戻す。陶器がかすかな音を立て、そこで初めて、指先が思ったより冷えていると知る。湯気の温かさだけが、取り残されたように頬へ触れた。
「お考えになったほうがよろしゅうございます」
「合ってるのに?」
「行かないとおっしゃる先は、頼り先ではございません」
二人は顔を見合わせる。驚いた顔までよく似ていて、それから口をそろえ、じゃあどこへ行けばいいのだと訊く。その先を決めるのは私ではない。けれど、決めることではないと言えば、この人たちの道が生えるわけでもない。この問いの答えを持たないまま人を送り出したのは、この仕事に就いて初めてである。喉の奥がひどく乾き、いつもの敬語だけが場違いに整って、声は思ったより低く出る。
◇
午後、セレスタンさんとマドレーヌさんを、四月に入る予定の空き家へ案内する。古い家々のあいだに肩をすぼめるように建つ、梁が残っていた一軒で、戸の建て付けだけが少し下がっている。壁にはまだ冬の冷たさがあるが、窓から落ちる光は新しい暮らしの場所を探すように、土間をゆっくり撫でていた。
「ここでお休みになりますか?」
「……いや、違う。ここでいい。ここがいい」
「土間が広うございますね。桶が四つ置けます」
エヴラールさまが、戸の前でためらいなく膝をつく。差し上げます、と言ったのは二週前。今日は袖が土で汚れるのも構わず、下がった蝶番へ薄い木の切れを噛ませている。家を渡すだけでなく、きちんと閉まる戸まで渡したいらしい。
「四月には入れます」
「ありがとうございます」
戸の隙間から入る風には、まだ冬の冷たさが残る。それでも土間にはやわらかな日が届き、乾いた地面だけが手のひらほどの温もりを抱いている。ここで眠る二人の朝は、昼と夜明けに分かれる。すれ違うようでいて、分かれているぶん、この土間には一日じゅう誰かの気配があり、帰れば相手の残した温かさに触れられるのだろう。二人の頬から、張りつめていたものがほんの少しほどける。
◇
帰り道を歩いても、昼の二人の声がまだ耳の底に残っている。名は言えて、それでも行かないと言った二人である。頼り先とは、名前ではなく、足を向けられる道のことなのだろう。では本当に行く先を持っている人は、この村にどれだけいるのか。往来を満たす夕方の足音が、今日はどれも少し心細く聞こえる。
村の道はどれも、バベットさんの家の前を通る。この人は右足が悪く、敷居から外へ出られない。その代わり、朝から日暮れまで戸口に腰掛け、行き交う者を目だけで迎えては数えている。白髪を包んだ布が夕風に押され、少し傾いていた。自分は村へ出ていけなくても、村のほうがここへ顔を見せに来る。
その戸口の前で、領主さまが不意に足を止める。靴底が土を擦る小さな音に、私までつられて息を止めた。
「あんたはどうなんだい、領主さま。困ったときは、どこへ行くんだい?」
「……なぜ、それを?」
「あんたが訊いてまわってる問いだろ。自分だけ答えないのは、ずるいさね」
井戸から戻る者も、畑から上がってくる者も、いつの間にか十人ばかり、その道に足を止めている。水桶の雫が土へ落ち、鍬の先から乾いた土がこぼれる音まで聞こえるほど、皆が黙っていた。私は喉の奥が狭くなるのを感じる。問いがエヴラールさまへまっすぐ届くのが、なぜか落ち着かず、考えるより先に間へ入る。
「いまは、伺うことではございません」
「いいや、いまさ」
エヴラールさまは、私のほうを見ない。戸口の柱の、日に焼けて色の薄いあたりへ目を置いたまま、少し息を吸う。言葉を選ぶ間だけ、肩がかすかに固くなる。それでも逃げずに、静かな声で口を開いた。
「……困ったときに参りますのは、マルティーヌどののところです」
「え……?」
エヴラールさまは、バベットさんの問いに答えただけである。それなのに耳の奥が、雪に包まれたようにしんと静まる。井戸の水音も、子どもの声も、皆の衣擦れも、そのあいだだけ遠くへ退いていく。二十年、私は人の縁の話を聞くときにだけ、こういう耳になった。言葉の裏でほどける安堵も、結ばれずに残るためらいも、聞き落とさないための耳である。今日はその耳が、頼みもしないのに勝手にそうなっている。
私は控えを開き、いま聞いたことを書き留めようとする。刻と手と頼り先。三つ目の欄で、指だけが言うことを聞かない。背が高いぶん、こうして立ったまま書けば紙が遠い。いつもなら、それだけのことだ。胸元へ近づけても、白い欄は妙にまぶしく、白いままである。
◇
王都。困ったときに誰へ言うかを、誰も訊いていなかった一件が、とうとう壊れた。所の者はようやく当人へその問いを訊きはじめ、返ってきた答えを確かめながら、その日のうちに組み直している。
彼はその問いを様式の欄へ足した。紙の上では、欄が一つ増えただけである。そして欄になった問いには、揃った答えが返りはじめる。
◇
夜。灯りを手元へ引き寄せ、控えをもう一度開く。油の匂いを含んだ火が揺れるたび、昼にはただ白かった欄が、息をしているように明るくなったり暗くなったりする。
この人の三つ目の欄には、私の名が入る。私の欄は、まだ白い。




