18. 人を、代わりにはお出しになれません
三月十六日。春の淡い光の下、棟続きの二軒に、続けて屋根が乗った。新しい木と藁の匂いがまだ庭先に残る午前、会堂では、仮の約束で七組目だった二人の婚礼が挙がる。ローズさんとジュリアンさんである。
「自分は、荷を置く場所を、貸していただいてから」
「そこから、ずいぶん長うございましたね」
「長うございました。冬が、まるまる一つ挟まりましたので」
冬に一度、この縁は解けている。今年の湿った雪が軒下まで吹き込み、積んであった塩を濡らしたからである。けれど、解けたその日に、二人は結び直した。ローズさんは前掛けを外した手をどこへ置けばよいのか分からないらしく、指先を組んでは離し、離してはまた組んでいる。頬はゆるんでいるのに、手だけがまだ、今日に追いついていない。
「……あの、これで、いいんですけど」
「よろしゅうございます」
「ほんとに、これで」
三度も同じことを言うのは、まだ信じきれていないからだろう。解けた縁が戻るところを、この村の者はみな見ている。見たうえで、今日も会堂へ来て、二人を囲んで肩を寄せている。隙間がないほどの近さが、そのまま答えである。
午後には、同じ会堂で八組目だった二人が婚礼を挙げる。アンリさんとジャンヌさんである。オーブリー司祭は午前と午後で二度、丸い肩を上げて名を読んだ。挙がった婚礼は累計十組になり、二組はそれぞれ棟続きの新しい家へ入る。まだ木の匂いの残る隣り合う家のあいだを、祝いの声が行き来して、村は四十二軒になる。
ニコレットさんが湯気で赤くなった手を前掛けで拭き、額に張りついたほつれ毛を息で払ってから、戸を押さえに回る。腕が太いので、湿気を吸って重くなった戸でも片手で足りるのである。私は濃い栗色の髪を結い直しながら、押さえてもらった戸の下を身を縮めてくぐった。祝いの湯気が、ほどけかけた髪をまた頬へ運んでくる。
◇
二つの婚礼が済んだ午後、羊飼いのドニさんが、乾いた草と羊毛の匂いを連れて店へ来る。二十一。数える前に、いちど息を吸う人である。胸の中に言葉を並べてからでないと、口へ出せないらしい。
「朝は?」
「日の出前……。羊を出すから。困ったときは、宿の姉さんとこ」
「その手は?」
「羊……。爪を切るのも、毛を刈るのも、ぼくだから……」
言葉を足すほど、声は細くなっていく。膝の上で指を組み替えるたび、爪のあいだに染みた脂が窓の光を小さく返す。その手だけは、羊のことなら何でも知っている手に見えた。
「宿の姉さんには、どんなことを?」
「数が合わないとき……。ぼく、数えるのが遅いから……」
言い終わってから、いちど息を吸う。山では、羊を見ているあいだ、言葉は要らないのだろう。声はやわらかいのに、間の取りかたには、人と話し慣れていない素直さが出ている。数が合わないと自分から言える人を、私は嫌いになれない。遅いことより、合わないままにしないことのほうが、ずっと大事に思える。
もう一人はオデットさん、二十一。川で麻を晒す。濡れた手を大きく振って乾かしながら話すたび、指先から細かな雫が飛び、床に小さな点を作る。本人はまるで気にしていない。
「あたしは昼だもん。川で麻を晒すの。困ったら宿の姉さんとこへ行くもん」
「川は冷とうございましょう」
「冷たいよ。だから昼なんだもん」
日の出前と昼。羊と麻。頼り先は二人ともニコレットさんである。川の水で赤くなった指を、この人は隠そうともしない。困ったら頼ると言うのと同じ顔で、冷たさまであっさり見せている。そのまっすぐさが、少しまぶしい。
◇
夕、薄い金色の光が畑の土を横から照らすころ、畑の父親が一人で来る。靴の縁に乾いた土をつけたまま、倅の縁の話を持ってきたのである。
「うちは畑しか出せん。だが、倅を三年、向こうの家へ働きに出す。それでどうだ?」
「倅さんは、いまどちらに?」
「山だ。まだ知らん」
「お聞きになってからのほうが」
「聞くも何も、親が決めることだろうが」
私は返事の代わりに、卓の木目を目でたどる。釣書に書かれた持参金を数えてきて、そこに人が書かれていたことは一度も無い。畑の枚数も、種籾の年数も、出すと決めた者が自分で出すものだ。木目の細い流れを追っても、人を品物の列から外す言葉だけは、どこにも書いていない。
「お考えになったほうがよろしゅうございます」
「なぜだ。三年も働けば、畑一枚ぶんにはなる」
「人を、代わりにはお出しになれません。ご自分の手なら、いくらでも」
父親は口を開き、言葉の代わりに息だけをこぼして、それから閉じる。日に焼けた首に、飲み込んだ言葉のぶんだけ、細い筋が立っている。握った手には土が入り込んでいて、働くことを惜しむ人には見えない。悪い人ではない。悪くない人が、いちばんよく間違える。だから私は、この人を責める言葉を持たない。二十年、私はこれと同じ紙を、疑いもせずに受け取っていたからである。
父親が土の匂いを残して帰ったあと、ドニさんとオデットさんが戸口から顔を出す。ドニさんは戸板の陰に半分隠れ、オデットさんはその横から身を乗り出している。オデットさんは、まだ水気を含んだ麻の束を両腕に抱えていた。
「持参金の代わりは、晒した麻でようございます」
「え、それでいいの」
「額の欄は、埋めなくてよろしゅうございます。この村では、そう決めました」
「じゃあ、あたし、来年のぶんも晒すもん」
仮の約束は十五組になる。麻の束が、冷たい川風の匂いを残したまま、卓の端にどさりと置かれている。額の欄を埋められない家の紙は、王都ではそこで止まる。ここでは、麻の雫で端を少し濡らしても、止まらない。
オーブリー司祭が、その場で一度目の名を読み上げる。
◇
エヴラールさまが、削りたての匂いがする一枚の板を抱えて会堂へ来る。〈代わりに出せるもの〉と、上のほうに大きく書いてある。冬の藁、種籾、晒した麻、屋根を葺く手間。文字の下には、まだ四つしか並んでいない。余白のほうが、ずっと広い。
「館の棚へ置かれるのかと存じておりました」
「これは、館へは置きません。会堂へ掛けます」
「あちらのほうが、傷みませんが」
「傷んでも、皆さんが書き足せる場所のほうがよいのです」
「書き足す方が、おいででしょうか?」
板の切り口は、まだ削りたての白さを残している。指でなぞると、粉のような細かな木くずが指の腹につき、乾いた感触と新しい木の匂いが残る。
「いれば、そのときに増えます。いなければ、四つのままです」
緑がかった茶の目が、板に書かれた言葉ではなく、その下に広がる余白のほうを見ている。私は自分の帳面の重さを、腕の内側でふいに思い出す。写しは館の棚にも一部あるが、そこに書いた一行が、なぜその一行になったのかは、とうとう誰の手にも渡らなかった。帳面は残っても、その向こうにいた人の声は、私のところで止まっていたのである。渡せなかったのではない。渡せる形にする、という考えが、私の側に無かった。けれど、板の余白は広く、今からでも書き足せそうに見える。
◇
王都。面談を義務にしたので、当人が本当のことを言わなくなった。様式に書けないと、もう知っているからである。書けない一行は伏せられたまま、表向きだけ整った縁が組まれ、やがて見えない一行のところから壊れる。
彼は訊く者と書く者を分けた。訊いた者は書かない。そのかわり、同じ所にいる者どうしが、互いの手を知らなくなったのである。
◇
夜。店の棚から、私が起こし直した手元の記録の一部を下ろす。灯りのそばで開くと、乾いた紙がかすかに鳴り、棚の影が卓の上で揺れる。持参金の欄のところで、指が止まる。以前なら、そこが埋まっているだけで、ほっとしていた。けれど、この欄は、もう私の側だけのものではない。
代わりに出せるものを、私は自分の帳面から外した。




