17. 日取りは、屋根の後でございます
三月九日。朝から、乾いた槌の音が村じゅうの空気をこつこつと叩いている。空き家には新しい梁が渡され、その上へ藁が次々に重なり、とうとう屋根が屋根らしい形を持った日である。バティストさんは屋根の上で足を大きく開き、風に揺れもせず立っている。その足元へ下から誰かが束を投げ上げるたび、藁くずだけが金色にほどけて舞う。
「屋根が乗ったっす。おれ、はじめて自分の屋根の下で寝るっす」
「そりゃあ、寝られんでな。うれしくてな」
ロランさんの声は、最後だけふわりと裏返る。煤の残る頬は、下から見上げているせいか、いつもよりずっと幼く見えた。三年前によそから来て、それからずっと鍛冶場の隅で寝起きしてきた人である。けれど、自分の屋根、と口にしたときだけ、弾んでいた声の出どころが喉から胸のほうへ下り、そこへ大切そうに収まった。
「日取りは、屋根の後でございます」
「そうなるっすね。屋根が先で、日取りが後っす」
「そのとおりでございます」
今日、仮の約束で六組目だった二人の婚礼が挙がる。ロランさんとソランジュさんである。ソランジュさんはリュセの種の家の娘なので、名を読む場所はこの村の会堂だ。私たちは、葺きたての藁の匂いを肩にまとわせ、その屋根を背にして連れ立って坂を下りる。屋根の下で寝る場所が決まってから日を置く、というのは、この村ではもう、わざわざ口にするまでもないことになりつつある。
「短いのがいい」
「短くいたします」
ソランジュさんは、言葉も決断もいつも短い。ただし今日は、言い切ったあとの口もとに、ほどけきらない笑みが残っている。挙がった婚礼は累計八組になり、村は四十軒になる。オーブリー司祭は丸い肩を少し上げ、祝うぶんを足すように、いつもよりゆっくり、長く名を読んだ。
会堂の戸口から眺めると、葺きたての屋根だけが、村の中でひとつ違う色をしている。まだ日に焼けていない藁は、朝の光をたっぷり吸い込み、蜂蜜を薄く塗ったように淡く光る。日の当たる藁の青い匂いが、乾いた埃と混じって鼻の奥へ入り、吸うたびに新しい家の輪郭まで胸に届く。屋根が増えただけなのに、村全体が少し若返ったように見えた。
◇
昼、革をなめすユーグさんが、戸口から濃い匂いを連れて店へ来る。三十二。物を渡されると、目で確かめるより先に、まず鼻を寄せて匂いを嗅ぐ人である。
「朝は、いつでございますか?」
「朝いちばんに革を漬ける。困ったときか? パン屋のかみさんだろ?」
「その手は?」
「革だな。ほかに何がある?」
訊かれたことを、いったん訊き返す人である。そのくせ答えはいつも先に用意してあり、こちらが追いつくのを待っている。卓に置かれた手の甲には細かい傷が幾筋も走り、革より先に、その人の仕事を語っている。
「では、その匂いは?」
「灰と、脂だな。慣れると好きになるぞ」
言われるまま少し近づいて嗅いでみると、なるほど、灰の乾いた匂いの奥から、脂の甘いような重いような匂いが袖を伝って立ちのぼる。冬のあいだ川が凍っていたので、この人の手は久しぶりに水を使ったばかりで、指の節まで、冷たさの残る赤に染まっている。
もう一人はフェリシーさん、二十八。機を織る。話しながら相手の袖の縫い目を見る癖があり、目がそこへ止まるたび、頭の中では糸の始末まで済ませていそうである。
「夜なべです、夜なべです。機を織りますので。困ったときは、パン屋のかみさんに」
「粉を分けていただいたのでございますか?」
「はい、はい。冬にひと袋。返せておりませんので、そのぶん通っております」
朝と夜なべ。革と機。エルディさんの名が、二人の口から同じ形で、ひどく自然に出てくる。秋に私が結んだ人が、いまでは人の頼り先の欄に、当たり前の顔で立っている。結んだ縁が、次の縁の欄の中で息をし、誰かの背をそっと支えているのだ。そういうふうに続くものだと、二十年やっていて知らなかった。
◇
夕、別の家から、日暮れの冷気をまとった客が来る。日取りだけ先に取りたい、という話である。
「板に名を書いておきたい。屋根はあとでいい」
「お二人は、どちらでお休みになりますか?」
「……そこは、これから探す」
「探しておいでのあいだは、どちらに?」
「野宿はせんよ。なんとかなる」
なんとかなる、で始まった所帯を、私は王都で幾つも数えた。便利な言葉ではあるが、それだけでは雨も夜風も防いでくれない。この村では、屋根と日取りが同じ一本の綱で結ばれ、片方だけを先へ引くことはできないのである。
「お考えになったほうがよろしゅうございます。日取りは、屋根の後でございます」
二十年、私は刻を訊き、手を訊き、頼り先を訊いた。眠る場所を訊かなかったのは、秋のことである。あのとき欠けを埋めたのは私ではなく、私はあとから、そこに線を引いただけだった。けれど今日は、自分の口から先に訊いている。問いが迷わず出てきたことに気づくと、喉の奥が少しだけ温かい。人に直された一度が、こんなふうに自分の中へ根を下ろすとは思わなかった。
日が落ちてから、ユーグさんとフェリシーさんが揃って会堂の前へ来る。革の匂いと機の油の匂いが、薄青い夕闇の中で、まるで前から隣同士だったように並んだ。
「仮の約束は、十四組でございます」
「十四。増えました、増えました」
フェリシーさんは同じ語を二度重ねてから、私の袖の縫い目へ確かめるように目を落とす。増えた、と言われて、私は指を折りかけ、途中でそっと止める。秋に一組目を読み上げた日、司祭は宿の前まで呼ばれてきたものの、足を止める者は一人もおらず、読み上げる声だけがそこに残ったのである。店のほうにも、三日は誰も来なかったものだ。いまは、指で数えきれないほどの縁がこの村にあり、それぞれが誰かの朝や夜なべを支えている。折りかけた指をほどくと、手のひらに小さな熱だけが残った。
オーブリー司祭が、その場で一度目の名を読み上げる。丸みのある声は石壁にやわらかく返り、暮れかけた村の空へゆっくりほどけていく。
◇
エヴラールさまが、葺き上がった空き家の戸を押している。新しい蝶番が低く鳴り、戸口から細かな埃がこぼれる。建て付けを見て、指で蝶番の高さを確かめてから、エヴラールさまはこちらを向いた。
「お貸しするのは、やめにいたします。差し上げます」
「差し上げる、とおっしゃいますか?」
「貸したものは、いつか返せと言えます。言える形で住まわれると、その人は落ち着いて眠れません」
「領のものが、一軒減ります」
「減りません。人が増えます」
戸の内を風がゆるく回り、眠っていた土間の匂いを起こす。人の住んでいなかった家というのは、目で見るより先に、匂いで分かる。冷えた土と、去年の藁と、しばらく火の入っていない竈の匂いである。けれど今日は、そこへ葺きたての藁の青い匂いが混じり、空き家が誰かを待つ家へ、ゆっくり変わり始めている。
痩せた体に、手だけが大きい。その手が、木の戸の下端をいたわるように押さえている。私の目でいくら見ても、この人の言い直しの多い口から、こういう一行が出てくる順番だけは、いまだに読めない。読めないまま、その一行だけが毎回、私の帳面をひょいと追い越して先へ行く。それが少々くやしく、ずいぶん頼もしい。
◇
王都。受理の前に当人を縁組所へ呼ぶことにしたため、仕事が春の数に追いつかない。所の外には人が並び、朝から日暮れまで、端の見えない列がほとんど動かずにいる。並んだまま帰った一組は、待ちきれず、別々の相手と決めてしまう。
彼は所の外に控えの部屋を借りた。人を呼ぶ場所が足りなくなり、とうとう縁組所が借りる羽目に追い込まれたのである。
◇
夜。槌の音が耳の奥にまだかすかに残り、そのぶん、静けさのほうがいっそう大きく聞こえる。今日いちにち、私は日を一つも決めていない。帳面は静かで、指先にも、いつもの忙しさが残っていない。それなのに、何もしなかった気はしない。決めたのは屋根で、私は朝の光を吸っていた藁が、夜の色へ沈んでいくのを見ていただけである。
日を決めているのは、人ではない。屋根である。




