16. 同じ日を、二度お過ごしになります
三月二日。屋根に積もった雪が、重たげにずるりと滑り落ちる音で、村の朝が始まる。三月一日から、この土地は春の婚礼の季節である。庇の先では雫がせわしなく連なり、広場の土は黒く濡れ、踏むたびにやわらかく沈む。冬のあいだ、この村では新しい縁を一つも結んでいない。畦道は雪に閉ざされ、人影も絶え、私は店の奥で使われない帳面の縁を指先でなぞるばかりだった。
雪に閉じ込められた静けさは、思っていたよりずっと長く、耳まで冷たくするようである。王都では、冬でも紙は休まない。届けは雪の中を運ばれ、名は暖かな屋根の下で決まっていく。この村では、雪が来れば人の暮らしまでいったん息を止め、春の気配と一緒にまとめて動きだす。止まっているあいだ、自分の手だけが何もしていないことに、私はまだ慣れずにいる。
午前、会堂に立つのは、仮の約束で九組目だった二人である。ヴィヴィアンさんとティボーさんは、肩が触れそうな距離に並び、足元を確かめるように敷居をまたぐ。
「針です。いまは、じゃなくて」
「はい。存じております」
自分で言い直し、照れたように口元をゆるめる。秋にこの人が同じ言葉を口にしたとき、語尾は細く震えていた。いま、その声は春先の光のようにやわらかい。オーブリー司祭の丸い肩も、朝の光の中でいつもより少し高く持ち上がっている。半白の髪を、開いた戸から忍び込む風がそっと揺らす。
「午後は、リュセのお二人ですねえ」
「畦道が開きましたので」
「開きましたとも。今朝、水車番が渡ってきましたからねえ」
午後は十組目だったアデルさんとジュスタンさんである。二人とも膝まで泥をつけてたどり着き、皆に笑われると、自分たちも足元を見て笑いながら会堂へ入っていく。
挙がった婚礼は、これで累計七組になる。会堂の石の壁に手を打つ音が明るく返り、庇から雫の落ちる音と混ざって、耳の奥から胸の内までぬるく満たしていく。王都に居たころ、私はこの音の輪の中にいたためしがない。居たのは名の決まる部屋のほうで、名が祝って読まれる場所へは一度も足を運ばずに済ませていた。
◇
午後の婚礼が済んでから、店へ二人がやって来る。木挽きのセレスタンさん、二十七。
「朝は、いつでございますか?」
「……いや、違う。昼だ。木を挽いて、昼に下ろす。困ったときは、親方んとこへ行く」
「親方と申しますと」
「鍛冶場のギヨームだ。あの人が梁を担いでくれた」
話しながら、指をひらいて板の寸法をあてる癖のある人である。答える前に一度言い直すのは、頭の中でもう一度、きちんと測り直しているからだろう。木の粉の乾いた匂いが、袖口からこぼれるように卓の上まで届く。
もう一人はマドレーヌさん、二十三。乳搾りで、頬には外の冷気に触れた赤みがまだ残っている。
「朝は?」
「三頭ぶんです。夜明けに搾りますので。困ったときも、親方に伺います」
「その手は?」
「乳です。桶と、布巾と」
この人はものを数えるとき、指を折らず、顎を小さく動かして数える。牛の名を呼ぶときだけ声がひとつ低くなり、そこだけ夜明け前の小屋の静けさがにじむ。
「なぜ、夜明けでございますか?」
「そのころがいちばん出ますので。指が冷たいと嫌がられますから、先に温めます」
嫌がられます、というところで、私は紙の上に浮かせた筆を止める。牛が嫌がるかどうかを気にかける人の朝は、きっと人に向けても同じようにやわらかい。そんな考えが胸に落ちると、書き慣れた紙が急に狭く見える。二十年、私は釣書のどこにも、こういう小さなやさしさを書かなかった。書く欄が無かったのではない。そういう欄の作り方を、そもそも知らずにいたのである。
二人の手のひらは、どちらも働いたぶんだけ荒れている。片方は木の粉に水気を奪われて乾き、片方は湯と乳に触れ続けて赤い。同じ荒れかたではない。その違いが並ぶと妙にあたたかく見えるところが、この二人のいいところなのだと思う。
昼と夜明け。木と乳。頼り先は同じ人である。王都では、この欄をいちばん最後に埋めていた。この村では、話を始めれば、そこがいちばん先に埋まっていく。
◇
夕方、薄い橙色の光と一緒に、村の女が若い衆と娘を一人ずつ連れてくる。見るからに並べたがっている顔である。男のほうは土のついた鋤の柄を握ったまま、娘のほうは前掛けの端を握ったまま、見えない縄でも張られているように同じ幅だけ離れて立っている。
「どちらも日の出前に起きます」
「鋤でございますね」
「この子も鋤だ。畑の子だからね。困ったときは、二人とも婆さんとこへ行く。そこも同じだよ」
「三つとも、同じでございますね」
「合ってるだろうが。なんで渋い顔をするんだい?」
同じ刻に、同じものを起こして、同じ人のところへ行く。二つが違うほうがよいというのは、離れているぶんだけ互いの足りないところへ入り込み、噛み合えるという話である。この二人には、その隙が無い。向かい合わせた鏡のように、どこまで行っても同じ景色が続いてしまう。
悪いところは、一つも無い。だからこそ、いちばん口にしにくい。悪いところを挙げるのは仕事のうちだが、何も悪くない相手に首を横に振る感触には、二十年やっても慣れなかった。
「お断りになったほうがよろしゅうございます」
「なんでだ。合ってるのに!」
「お二人は、同じ日を二度お過ごしになります」
春は縁が動きだす季節で、そういう季節ほど、村は人を並べたがる。畑が乾けば手が空き、手が空けば口まで空くからである。
村の女は不満そうに口をとがらせたが、若い衆のほうが先にふっと肩の力を抜く。日に焼けた首の後ろを掻き、それから娘と目を合わせないまま、どちらからともなく笑う。娘もつられたように唇をゆるめ、握りしめていた前掛けの端をようやく離す。布には指の跡が細く残っている。腑に落ちるのはたいてい後になってからで、今日はそれで十分である。
二人を帰したあと、私はセレスタンさんとマドレーヌさんを広場へ呼び戻す。日はもう傾き、広場には薄青い影が満ちて、井戸の縁だけが名残の光を受けて白い。
「仮の約束は、これで十三組でございます」
「十三ですか。あたしの牛より多いです」
「親方には、何かしていただいたことがおありでございますか?」
「はい。牛が転んだ晩に、夜中に来て、荷車ごと起こしてくださいました」
オーブリー司祭が、その場で一度目の名を読み上げる。三度読んで、はじめて婚礼になる。名は夕方の風に乗り、広場の隅まで静かに届く。読まれているあいだ、二人は互いを見ず、司祭の口元だけをじっと見ている。けれど、脇に下ろした荒れた手は、ほんの少しずつ近づいていた。
◇
エヴラールさまが、会堂の壁に真新しい板を掛けている。爪に土の入った大きな手で、釘の頭を二度、ぐらつかないか確かめるように押す。
「それは、なんの板でございますか?」
「春の日取りを、皆さんで決めていただきたいのです」
「領主さまがお決めになるのかと存じておりました」
「順は、私が決めません。この板は、村の皆さんが埋めてください」
亜麻色の癖毛が、春を含んだ風にあおられ、また元気よく跳ねる。私は背が高いので、板の上のほうまで、望まなくても見えてしまう。まだ何も書かれていない木の面が、傾いた日を受け、雪の名残のように白く光っている。
「では、順はどなたが?」
「順を決めますのは、私ではございません。畑でございます」
口にしてから、自分の口がそんなことを言ったのに驚く。順を決めてきたのは、ずっと私である。待たせる娘も、繰り上げる家も、紙の上なら迷いなく選べる仕事だった。紙は待たされても、困った顔をしない。あのころ、待たされた娘の顔を私は見ていない。見ないで済むところに座っていたからで、それを腕がよいと呼ばれていたのである。
◇
王都。雪のあいだに溜まった届けを、彼は当人に会わないまま、いつものように様式の欄だけを追って受けている。そのうちの一件が、初夜を待たずに壊れる。
彼は当人へ詫びて、次の縁を組み直している。ただし春に挙げるはずだった日取りを、秋へ回した。花の咲くころにと言っていた家である。詫びる声は短く、指は卓の縁を二度叩いたはずである。あの人の詫びかたを、私は二十年、隣の部屋で聞いていた。
◇
夜。目を閉じても、板の白さがまぶたの裏にまだ残っている。指の先には、釘の頭の冷たさが移ったままである。明日から、あの白い面に村の字が並ぶ。誰が先で誰が後か、私は口を出さない。出さずにいることが、こんなにも手持ちぶさたで、落ち着かないものだとは思いもしなかったのだ。
二十年、順を決めていたのは私である。この村では、順は畑が決める。




