15. 私の分は、まだ書けません
十二月十五日。雪の朝でも、街道は通れる。人と荷が絶えず踏み固めるからで、朝いちばんに来た使いの外套は、肩から下だけ、溶けた雪を吸って色濃く濡れていた。
王都からである。宛名は仲立ちを務める私、中身はエヴラールさまへの縁談だという。縁は仲立ちを通すものだから、こういう紙はいったんこの卓へ来る。指先に乾いた紙の冷たさを感じながら封を切れば、様式どおりに欄の埋まった釣書が一枚。家名、畑の枚数、額。三つとも、几帳面な字で、隙間なくきれいに埋まっている。
「お返事は、いつまでに?」
「急ぎではございません。雪ですから」
使いの人は、湯の椀を冷えた手で包み、一杯だけ飲んで出ていった。縁組所の名で組まれた縁で、私を戻せという話はもう来ない。三通は使い切られ、四通目のかわりに届いたのが、この紙だ。封蝋の赤も、字の並びも、二十年見てきたものと少しも変わらない。それなのに、こちらの椅子から眺めると、こんなに薄い紙だったのかと思う。指でつまめば、誰かの行く先ごと、頼りなくしなる。
◇
昼、会堂へ寄る。炭焼きのノエルさんは、軒下で背を丸め、節くれだった手を火にかざしていた。冬のあいだだけ山を下りてくる人で、夏は煙と木の匂いがしみついた山にいる。
「朝は?」
「おいらは夜中だでな。窯の火は夜に見るもんだでな」
「その手は?」
「炭だでな」
問いに答える前には、かならず手を火のほうへ近づける人である。話しているあいだ、黒い指の節だけが炭火の色をもらい、赤く照っている。
「お困りのときは?」
「司祭さまだでな。山を下りた晩は、あの軒の下で寝かせてもらうでな」
会堂の内から、蝋を替えていた人が、かすかな甘い匂いをまとって出てきた。シモーヌさん、三十。こちらの話が終わるまで戸口で待ち、小さく頷いてから、静かに口を開く。
「朝は昼です。日が高いうちに、燭台を拭きます」
「その手は?」
「蝋です」
「お困りのときは?」
「司祭さまです。わたくしは、会堂の蝋を預かっております」
夜中と昼。炭と蝋。火を作る人と、火を灯す人が、同じ人を頼りにしている。それだけで、離れていた暮らしの端が、すっと重なった。オーブリー司祭は柱の陰で両手を合わせ、照れたのか困ったのか、丸い肩を落ち着かなげに上下させている。
◇
午後、領主の館――。
卓の上へ、朝届いたその一枚を静かに置く。薄い紙が木に触れる音は、妙に乾いていた。
「伺ってもよろしゅうございますか。朝、いちばん先に起きるのは、どなたでございますか?」
「……私です。日の出前に、畑を見に出ますので」
「その手が、いちばん長くしているお仕事は、何でございますか?」
「土です。領のことは、あとから覚えました」
「お困りのとき、いちばん先に誰へおっしゃいますか?」
窓の外の雪明かりが、亜麻色の癖毛の縁だけを、細い銀のように白くしている。卓の上で大きな手がゆっくりひらき、指は見えない何かを掴みかけたあと、ためらうように開き直った。答えより先に、迷いだけがそこへ出てしまっている。
「……お答えは、いたしかねます」
秋にも、同じ言葉を聞いている。あのときは、私の問いのほうが違っていた。今日の問いは仲立ちとしての問いだ。それでもこの人は、同じ場所へ来ると、足もとに線でも引かれたように止まる。三問のうち、二つは答えて、三つ目だけをそっと置いていく人を、私は二十年で一人も見ていない。見ていないからこそ、その答えの重さばかりが、空いた欄にくっきり残る。
「では、この縁は?」
「お断りいたします。十年前に、この領から一人、王都の紙で嫁いでおります。……その先は、申し上げられません」
私は訊かない。訊けば、たぶん答える。伏せた目にも、固く結んだ口にも、その気配がある。けれど、十年ぶんの黙りを、紙の用事のついでにこじ開けてよいわけがない。背の高い女が言葉を抱えたまま立っていると、広いはずの部屋の天井が、ほんの少し低く見える。
◇
夕、会堂の前で、ノエルさんとシモーヌさんを引き合わせる。吐く息の白さが重なるころ、仮の約束は、これで十二組になる。
「夜中と昼でございます。炭と蝋でございます。お困りのときは、お二人とも司祭さまでいらっしゃいます」
「わたし、聞いておりましたか? いま、初めて聞きましたねえ」
「頼られている人は、たいてい最後に知ります」
司祭は祈る形に両手を合わせ、そっと息を吸ってから、名を読み上げる。丸みのある声が石の壁に当たり、雪の日の重たい空気を少しずつほどきながら、人々のあいだを渡っていく。
◇
夜、広場へ人が出ている。屋根の雪も道端の雪も青白く沈むなか、エヴラールさまが、雪を踏みしめて真ん中に立っている。
「十年前、父が王都へ口を利きました。村が外の縁を信じないのは、その一件のせいです」
誰も、そうだとは言わない。言わないかわりに、誰も帰らなかった。村の者が黙って耳を傾ける、その時間の長さで、その一件がどれだけ深く刻まれているかが分かる。責める声がないぶん、沈黙は雪よりも重い。それでもエヴラールさまは顔を上げている。いくつもの白い息だけが、言葉にならない返事のように並び、夜の底へほどけて消えていった。
◇
王都。十四件目である。
来た釣書の裏に、年月を吸った古い字で、一行が書き足してあった。十七年前、自分の姉が嫁いだ家の縁である。黄ばんだ紙には、〈暮らしが合います〉と、当時の仲立ちの手で迷いなく書かれている。
ベルトランは、壊れる前に、自分で断った。紙の裏の一行を根拠に断ったのは、初めてである。書いてはならないと定めたのは、彼自身だ。自分で閉じた扉を、自分の手で、ほんのわずかに開けてしまった。
そのあとで、彼は綴りの棚から古い一冊を出させる。十四年、開かずにおいた頁を、自分の手で開いている。乾いた紙の音が、静かな部屋ではやけに大きい。指が二度、卓を叩き、それきり動かない。姉の名の下には、嫁いだ日と、三年後の日付が、逃げ道をふさぐようにまっすぐ並んでいる。
◇
夜。店の灯りの下で、帳面の白い頁を開く。火が小さく揺れるたび、何もない欄だけが、こちらを急かすように明るくなる。
一つ目。朝、いちばん先に起きるのは私である。二十年、そうだった。その欄だけは迷わず、筆が走る。
二つ目。はじめに〈紙〉と書きかけ、筆先を浮かせる。紙は道具であって、手ではない。二十年、いちばん長くしてきたのは、人の話を終いまで聞くことだ。笑った話も、泣かなかった話も、言葉にならず飲み込まれた話も、まず終いまで。それなら、と少し考えて、『耳』と書く。黒い字が白い欄に収まると、肩の力がほんの少し抜ける。
三つ目で、筆が止まる。答えのない欄だけが、急に広くなったように見える。
「私の分は、まだ書けません」
誰も聞いていない部屋で、試しにそう言ってみる。声に出せば、書けない理由まで連れられて出てくるかと思ったが、返事をしたのは灯りの芯が小さくはぜる音だけだった。胸の奥は、ずいぶん口が堅い。指の先だけが、まだ紙の上に置いてある。
私の頁は、三つ目の欄で止まっている。




