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30. 自分の釣書だけは、書けません

 十一月十四日。広場には、仕事の手を止めた人々が肩を寄せている。空は高いところだけ青く晴れ、井戸の水面では薄い雲がほどけては流れていく。冷えた風の通り道で、ニコレットさんが太い腕をきっちり組み、いちばん前に立っていた。


「マルティーヌさん。あんたにも訊くわ」


「私は仲立ちでございます。自分では訊けません」


「だから、司祭さまに訊いてもらいなよ」


「へ? わたしが、でございますか?」


「ほかに誰が居るの?」


 オーブリー司祭は、急に役目を渡された人らしく丸い肩を上げる。けれど、こほんと咳払いをすると、それから、いつもの穏やかな声を出す。


「では、伺います。朝、起きるのは、いつでございますか?」


 長いあいだ他人へ向けてきた言葉が、はじめてこちらを向いて戻ってくる。背筋の産毛が、冷たい風とは関係なく立った。訊く側にいるときは、三つとも短い問いだと思っていたのに、訊かれる側へ回れば、一つ目でもう息が喉の上だけを行き来する。二十年、私はこの三つで、人の暮らしの戸をためらいなく開けてきた。開けられる側がこんなに落ち着かないとは、いままで一度も勘定に入れていない。


「朝、みんなが起き出す頃でございます。二十年、そうでした」


「その手が、いちばん長くしているお仕事は、何でございますか?」


「耳でございます」


「お困りのとき、いちばん先に誰へおっしゃいますか?」


「バベットさんでございます。二十年、三つ目だけが白うございました」


 帳面は広場まで抱えて出ていた。自分の頁を開き、三つ目の欄だけが白いことを、村の者へさらすように見せる。日の光の下では、その白さが店の灯りで見るよりも広く、まぶしい。声なら出せる。それでも、喉を離れた言葉と、帳面に触れる指の先とのあいだには、まだ細い道さえ通っていない。


 ざわめきの中から、エヴラールさまが一歩前へ出る。緑がかった茶の目が、逃げ道を塞がぬ静かさで、はじめてまっすぐこちらを向いた。


「では、私も申し上げます。朝は、日の出前です」


「畑を見に出られる前に、館の用を済まされますか?」


「はい。その手は、土です。手だけが大きいと、よく言われます」


 言葉どおり、その手は袖口からのぞくところだけでも、不釣り合いなほど大きい。二十九の領主の手というより、畑に出て土を返す人の手である。節は太く、爪の際には落としきれない土の色が残る。去年の秋、この手が私の帳面を受け取り、読まずに棚へ置いた。その光景だけは、紙に書かなかったのに妙にはっきり覚えている。


「困ったときに、いちばん先に言う相手は、坂の下のバベットどのです。あの娘の行き先も、あの方の覚えが割りました」


「……夏に下りられたのは」


「そのためです」


 この人の三つ目は、いつのまにか静かに動いていたのである。夏に下りたのも、秋にまた下りたのも、誰かに背を押されてのことではない。動かした理由を、この人は言わない。ただ、畑を見るときと同じまっすぐさで、こちらを見ている。


 指の先が、勝手に自分の頁の三つ目をなぞる。なぞって、白い欄の真ん中で止まった。紙はどこまでも白いまま、指の腹へ何の手触りも返さない。


「自分の釣書くらい、自分で書きゃいいわな。カッカッカ」


 村の誰かがそう言った。こらえきれなかった笑い声が、石の上を跳ね、広場の端まで明るく転がっていく。


「お断りいたします。自分の釣書だけは、書けません」


「なぜよ?」


「それだけは、私の仕事ではございませんので」


 エヴラールさまが、紙を一枚も出さず、空の手のまま前へ進み出る。


「あなたの釣書は、私に書かせてください」


 えっ? はぁ?


 広場が、息の仕方を忘れたように静まる。井戸の水が揺れる音だけが、ずっと下のほうで涼しく鳴っている。掌は熱いのに、指の先だけが冬を先取りしたように冷たい。断る理由は口もとまで押し寄せたのに、そこから一つも声にならず、すごすご引き返したのである。理由を数えるのは、私のいちばん得意な仕事だった。得意な仕事のほうから、こんなにあっさり手を離していくとは思っていない。困るはずなのに、胸の奥には、困ったときとは違う温かさが広がっている。


 二十年、私は他人の釣書を書き、自分の分だけは書かずに済ませてきた。書かずに済ませる理由なら、いつでも三つはすぐ並べられたのである。けれど今は、どれも帳面の白さに負けて、役に立たない。


「ようございますわ」


 ほぉ……。わぁ……。おぉぉぉ……。


 広場がざわめく。


「条件は釣り合っている。まずは仮の約束から……」


「も、もうで……ございますか?」


「仮ですから……嫌ですか?」


 エヴラールさまはわたしの前にひざまずくと、オリーブ色の瞳を輝かせ、にっこりと笑い手を差し伸べてくる。


「そ、そんなことは……ございませんわ」


 おぉぉぉ! わぁ! ヒュゥ!


 広場は大盛り上がりである。


 オーブリー司祭は、嬉しそうに何度もうなずいた。


 仮の約束は、これで二十四組になる。会堂の戸が開けられると、乾いた木の匂いと薄暗い冷気が広場へ流れ出す。オーブリー司祭は板の前に立ち、丸い肩をそっと上げた。去年の秋にはじめて聞いたときと同じ低さで、けれど今日は私の踵の下まで届く声で、二人の名が読み上げられる。


「マルティーヌ。エヴラール」


「……はい」「はい」


 自分の名が読まれるのを、私は両足を地につけて聞いている。王都では、いつも別の部屋にいた。紙が決め、紙が回り、名は私のいない別の建物で読まれていたのである。名にも重さや温度があり、音になればこんなふうに胸へ触れるのだと、三十八でようやく耳から知る。声は思ったより低く、思ったより長く、古い梁のあたりにやわらかく残っている。


       ◇


 王都――。


 二人で分けた座は、どちらの名を入れても様式が動かなくなっている。紙を抱えたまま廊下に立つ者は、どちらの部屋の戸を叩けばよいのか決めかね、冷えた取っ手のあいだで視線を往復させる。


 彼は様式から、自分の名を外した。かわりに、縁組頭の名で決まってきたものが、誰の名でもなくなっている。爪の短い指は、名だけが消えた一枚を、捨てるでも戻すでもなくしばらく持っている。窓の薄い光が、空いた欄を白く照らす。去年の秋からこちら、あの所で縁が動いた件は、二十九件になる。


       ◇


 夜、店へ戻り、冷えた室内へ灯りを入れる。抱えて帰った帳面を卓へ置くと、革の表紙が小さく息をついた。昼と同じ頁を、もう一度開く。一つ目に朝、二つ目に耳。三つ目は、広場で見せたときのまま白い。灯りを近づければ、白い欄だけが紙よりも明るく、こちらを待つように浮かび上がる。


 筆を取る。二十年、他人の欄を埋めてきたときと、持ち方は何も変わらない。けれど指はもう震えず、筆の先に灯りが小さく揺れている。


「三つ目でございます」


 誰へでもなく、いつもの仕事を始めるようにそう断ってから、白い欄へ筆を下ろす。墨が紙へ吸われる匂いが、夜の静かな店にそっと広がる。


 二十年、断る理由ばかり書いてきた手で、三つ目の欄に、一行だけ書く。


 巡り巡ってついに自分の番が来た――――。


 実感など湧かない。けれども、胸の奥で温かいものが湧き上がるのが感じられる。きっと、自分がお世話してきた人たちの胸にも、こうやって熱が灯っていたのだろう。


「エヴラールさま……」


 わたしはその温かいものに手を当て、大きく息をついた。


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