神の機転と二人の烙印
暴風雨が吹き荒れる八雲山の中腹。
風化し、半ば崩れかけた廃神社の拝殿で、無数の蝋燭の火が不気味な影を壁に揺らめかせていた。木造の柱は腐りかけ、雨漏りのする天井からは冷たい水滴が一定のリズムで落ちている。その水滴が床を叩く音だけが、暴風雨の唸り声の中で異様に耳に届く。
拝殿の中央、祭壇として使われている古い木箱の上に横たわるのは、真っ白なワンピースを着せられた少女だ。薬物か何かで深く眠らされているらしく、胸が微かに上下しているだけで、その表情には生気が感じられない。
そして、その傍らで鈍く光る医療用のメスを握っているのは、真っ白な狩衣を身に纏った男だった。
「ようこそ、黄泉の入り口へ。ですが、十二年越しの私の神事を邪魔することは、誰にも許されませんよ」
男――物部は、突然泥まみれで踏み込んできた侵入者である栗原たちに向けて、狂気の欠片も感じさせない、ひどく穏やかで透き通るような声でそう告げた。
その瞳は、目の前で警棒を構える栗原たちを見てはいなかった。焦点はもっと遠く、彼自身の脳内にしか存在しない神話の深淵を見つめているようだった。
「私は物部。古の神話より連なる、真なる儀式の執行者です。彼女たちは迷える子羊などではなく、黄泉の国を形作るために選ばれた巫女。この十二本の肋骨が揃う時、私は死という穢れを祓う完璧な神殿を完成させ、偉大なるスサノオノミコトと同化する……。私は、ちっぽけな人であることを超えるのです」
「……スサノオノミコトと同化だと?」
栗原は、男の言葉に込められた「まやかしの響き」を聞き取った瞬間、腹の底からどす黒い怒りがマグマのように込み上げてくるのを感じた。
「孤独な少女の心に付け込んで、神話の真似事か。立派な御託を並べてるがな、お前がやってることはただの醜悪な誘拐と猟奇殺人だ。それ以上でも以下でもねえんだよ」
四年前。もっともらしい虚像と狂信によって、すべてを奪われた己の過去がフラッシュバックする。
『栗原教』というでっち上げられた架空の宗教。その教祖という濡れ衣を着せられ、メディアに袋叩きにされ、実家の両親まで晒し者にされた。のちにそれがただの学生サークルの名前だったと判明したものの、栗原の心に刻まれた「言葉という刃」への嫌悪感と、大衆の身勝手な熱狂に対するトラウマは決して消えていない。
人間の弱さを言葉で支配し、弄ぶ奴を、栗原は決して許さない。
「石田、その子を保護しろ! 俺がこいつを制圧する!」
栗原が太い丸太のような足で床板を踏み鳴らし、警棒を構えて踏み出す。それと同時に、背後の石田が腰の無線機を手に取った。
「こちら石田! 八雲山廃神社にて容疑者および被害者を発見! 直ちに本部の応援を――」
だが、石田の叫びは無機質で暴力的なノイズに完全に飲み込まれた。
「……こちら石田! 応答しろ! クソッ、ガガッ……ピーッ……!」
石田が何度ボタンを押しても、返ってくるのは耳障りな電子音だけだ。激しい落雷による電磁波の影響か、あるいはこの深い山中が完全に電波のデッドゾーンに入ってしまっているのか。頼みの綱であった警察無線は、この決定的な瞬間に沈黙し、ただのプラスチックの塊と化した。
「栗原さん、無線が死んでます! 繋がりません!」
「チッ……!」
栗原が舌打ちをしたその時。物部は逃げようとも、メスを構えて抵抗の姿勢を見せることもしなかった。ただ、薄暗い拝殿の外――激しい雨音が打ち付ける真っ暗な獣道の方角へ、チラリと視線を向けただけだった。
「……時間ですね」
物部が、狂気を孕んだ笑みを浮かべ、小さく呟く。
「何っ!?」
栗原が間合いを詰めようとした、まさにその瞬間だった。
物部は自らの右手に持っていた医療用メスを逆手に持ち替えると、あろうことか、自らの左腕と脇腹に向かって深く、躊躇なく突き立てたのだ。
「ぐあっ……!」
ブシャッ、と生々しい音を立てて鮮血が吹き出し、純白の狩衣を赤黒く染め上げる。物部が苦悶の声を上げて床に崩れ落ち、血まみれのメスを手放した。
その直後、神社の外の暗闇から、無数の強力なハロゲンライトの光の束が拝殿を一斉に照らし出した。
「――そこまでだ!! 動くなッ!!」
激しい怒号と共に、泥だらけのブーツを鳴らして踏み込んできたのは、三県合同の山狩り部隊の先陣を切っていた、地元署の若手捜査員と機動隊員たちだった。
数千人規模で行われていたローラー作戦の網の目が、ついにこの八雲山の廃神社へと到達したのだ。
「た、助けてください……ッ!」
床に倒れた物部が、傷口から血を止めどなく流し、口から血の泡を吹きながら、踏み込んできた若い警官たちに向かって悲痛な声で叫んだ。
「私は地元の歴史研究家です……! この神社のフィールドワークをしていたら、突然、この男たちが現れて、そこの女の子を連れ去ろうと……! 私が止めに入ったら、いきなり刃物で刺されて……!」
「嘘だ! こいつが誘拐犯だ!」
石田が必死に叫ぶが、現場はすでに完全にパニックに陥っていた。
踏み込んできた若い警官たちの目には、「血を流して倒れる民間人の被害者」と「祭壇で気を失っている真っ白なワンピースの少女」、そして「警棒を振り上げている巨漢(栗原)」が映っている。
その時、栗原の視界の端で、床に転がった血まみれのメスが鈍く光ったのが見えた。
現場保存は刑事の鉄則だ。凶器には絶対に触れてはならない。だが、このパニックの中で、狂人である物部の手が再びその柄に伸びようとしているように見えた。これ以上、こいつに狂った真似をさせるわけにはいかない。
栗原は咄嗟にブーツの先で、床のメスを後方の暗がりへ向かって大きく蹴り飛ばした。物部の手の届かない場所へ遠ざける、ただそれだけの意図だった。
「危ねえ!」
血濡れた刃物が、後方にいた石田の足元へ向かって飛んでいく。
だが、ここで最悪の偶然が重なった。
暗闇と怒号が交錯する極限のパニック状態にあった石田は、自分に向かって飛んできた「何か」を、反射的に身を屈めて拾い上げてしまったのだ。
「えっ……?」
石田の手に生温かい感触が伝わる。自分が無意識に拾い上げたものが、まだ温かい血に塗れた凶器のメスだと気づいた、まさにその瞬間だった。
拝殿に雪崩れ込んできた数人の警官たちが、強力な懐中電灯の光を石田に向けた。
光の中に浮かび上がったのは、**「両手で血まみれのメスを握りしめ、慄いている若手刑事」**の姿だった。
「おい……石田、お前……」
機動隊員の一人が、絶句して銃口を石田に向けた。
「メスを持ってるぞ! あいつが刺したんだ! 二人で共謀して、被害者を始末しようとしたんだ!」
「違います! これは飛んできたから、つい拾っちゃって……!」
石田の悲痛な弁明は、降りしきる雨と警官たちの怒号に完全にかき消された。
現場の状況は最悪を超えていた。血を流して倒れる「被害者」。そして、武器を手にした「二人の刑事」。
「動くなと言っているだろうが! 全員、両手を頭の後ろで組んで膝をつけ!」
チャカッ、と安全装置を外す音が幾重にも響き、複数の拳銃の銃口が栗原と石田に向けられる。
栗原は、警棒を持ったまま、微動だにできなかった。
無線が繋がっていれば。あるいは、踏み込んできたのが関川のようなベテランであれば、状況を的確に見極めさせることができたかもしれない。だが、パニック状態に陥り、正義感に駆られた若手署員たちに、一度動き出した「現場の思い込み」を止める術はなかった。
(……なんという、悪魔的な機転だ)
栗原は、周囲を取り囲む警官たちの顔と、床で呻く物部の姿を交互に見て、背筋に氷のような悪寒が走るのを感じた。
不運の連続。山狩り部隊の接近はともかく、栗原たちが自力でこの廃神社へ辿り着いたのは、執念と偶然が重なった結果に過ぎないからだ。
この怪物は――遠くから聞こえる部隊の足音と、突如目の前に現れた栗原たちという『想定外の乱入者』を、ほんの数秒の思考で結びつけ、極限のアドリブで**「自分を無実の被害者に、栗原たちを凶悪な侵入者にすり替える」**という最適解を弾き出したのだ。
ここで身分を明かして説明を試みても、彼らの「正義」によって封殺される。何より最悪なのは、この混乱の中で物部が『被害者』として警察の保護下に入り、救急車の中で悠々と姿を消すことだ。
「全員、動くな! 撃つぞ!」
栗原の目が、猟犬の狂気へと変わった。
「石田! 迷ってる暇はねえ! 走れ!」
栗原は巨体をバネのように弾かせ、祭壇に飛び乗って意識のない少女を左肩に担ぎ上げた。
「武器を捨てろ!」
警官が叫ぶが、栗原はひるまない。担いだ少女を盾にするような形になり、警官たちは引き金にかけた指を凍りつかせた。
「石田! 行くぞ!」
「……っ、わかりました!」
石田は血まみれのメスを握ったまま、栗原の背中を追って走り出した。
「逃げる気か! 止まれェッ!」
二人は拝殿の裏手にある腐りかけた板壁に体当たりし、木っ端微塵に粉砕した。そのまま、雨の打ち付ける深い崖下の暗闇へと、転げ落ちるようにして飛び込んだ。
「逃げたぞ! 二人ともだ! 栗原と石田が少女を拉致して逃走中! 片方はメスを所持している、注意しろ!」
若手署員たちの絶叫が、暴風雨の中に溶けていった。彼らの意識は、凶器を持って逃走した「二人の凶悪な誘拐犯」へと完全に集中し、大多数の警官が暗闇の山中へと雪崩れ込んでいく。
その大混乱の最中、拝殿の床にわずかな血痕を残して、物部が救急車の到着を待たずに闇へ消えていったことを、正義感に燃える若い警官たちは誰一人として気づかなかった。
* * *
翌朝、島根県警本部・特別捜査本部。
大会議室には、かつてないほどの怒号と戦慄が渦巻いていた。
「――被害者を名乗る男を、取り逃がしただと!?」
バンッ!! と、関川が演台の机を力任せに叩きつける。その顔は怒りで真っ赤に染まり、額には青筋が浮かんでいた。
報告に上がってきた地元署の小隊長は、顔面を蒼白にして震え上がっている。
「も、申し訳ありません……! 少女を拉致した二人の男が山中へ逃走したため、部隊の大部分をその追跡に割き……現場には、被害者の救護と監視のために、若い署員を一人だけ残したのですが……」
「救急隊が到着するまでの間に、男は自力で歩いて姿を消した、というわけですね」
関川の傍らに立つ鈴原が、氷のように冷たい声で補足した。
「腹部と腕を深く刺された人間が、警察の目を盗んで自力で夜の山を下りるなど不可能です。……男は怪我の程度を偽装していた。最初から逃げる気だったんですよ」
「ふざけるなッ! 現場の保存と関係者の身柄確保は基本中の基本だろうが!」
関川が頭を力任せに掻きむしる。
あの栗原が、理由もなく無実の人間を刺して逃げるわけがない。関川と鈴原は、姿を消したその「物部」という男こそが真犯人であると、内心で確信していた。
だが、特捜本部の空気は、すでに最悪の「結論」によって支配されつつあった。無線の故障、石田が凶器のメスを握っていたという目撃証言、そして末端の署員による初動のミス。その巨大な空白を埋めるように、メディアのミスリードが濁流となって押し寄せていたのだ。
「……警部。テレビとネットが、完全に火を噴いています」
鈴原が、静かにタブレットの画面を関川に向けた。
『四年前のテロ容疑者が再び凶行か!? 栗原剛容疑者、少女を拉致し部下と共に逃走中!』
メディアは四年前、連続爆破テロや銀行立てこもり事件の重要参考人としてお茶の間を騒がせたあの栗原警部補が、今度は本物の誘拐犯として指名手配されたという事実を、これ以上ないほどの「警察の腐敗」としてセンセーショナルに書き立てていた。
さらに画面が切り替わり、ニュースキャスターが緊迫した声で告げる。
『先ほど入った情報によりますと、拉致された少女は、県内に住む中学三年生・神谷しずくさん(15)である可能性が高いとのことです。番組では、しずくさんのご両親に独占インタビューを行いました』
画面には、自宅前で無数のマイクを向けられ、疲労困憊して目を赤く腫らした両親の姿が映し出された。
『……ええ、最近、警察の栗原という男が急に家に来ましてね。「娘さんは十一月生まれか」とか、「神事だの巫女舞だのに興味はないか」とか……やたらと気味の悪いことをしつこく聞き回っていたんです。まさか、あんな頭のおかしい刑事に娘が攫われるなんて……!』
母親が泣き崩れ、父親がカメラに向かって「娘を返せ!」と怒号を上げる。
その映像を見た瞬間、関川はギリッと、歯が欠けるほど強く奥歯を噛み締めた。
栗原が地道に足で稼ぎ、懸命に真実を探ろうとした「聞き込み捜査」。誰も見向きもしなかった三十件の家出というノイズから規則性を見つけ出し、ターゲットを絞り込もうとしたその刑事としての執念すらも、メディアによって『誘拐犯の異常な執着』へと完璧にすり替えられていたのだ。
関川は無言で、窓の外に広がる八雲山の稜線を睨みつけた。
警察の縦割り構造、末端の怠慢、そして「一度ついたレッテル」を強化しようとするメディアの悪意。その死角を縫って、怪物は再び野に放たれた。
真実を証明するものは、何一つない。
日本中の警察という圧倒的な暴力、そして「正義」という名の凶器を振りかざす無慈悲な世論。
そのすべてを敵に回し、孤独な二匹の猟犬の、地獄の逃走劇が幕を開けた。




