泥濘の逃走と巫女の覚醒
朝の冷たい空気が、肺を無数の見えない氷の刃となって切り裂く。
島根県東部、八雲山の奥深く。道なき獣道を、暴風雨に打たれながら一晩中走り続けた栗原剛と石田は、岩肌が自然にえぐれてできた小さな洞穴のようなスペースに身を潜めていた。
二人のスーツは泥と枯れ葉にまみれ、急斜面を滑り落ちた際に裂けた生地の隙間からは、生々しい擦り傷と滲んだ血が見え隠れしている。四十六歳という栗原の巨体は、限界を超えた酷使によって重い軋みを上げ、荒い息を吐くたびに白い呼気が冷気に溶けていく。石田は限界を迎えたように足を投げ出し、泥だらけの地面に力なくへたり込んでいた。
その石田の右手には、物部の血がべっとりとこびりついた銀色の解剖用メスが、未だに固く握りしめられている。
「……追っ手の声は、聞こえなくなりましたね」
石田が、泥をシャツの裾で拭いながら掠れた声で呟いた。その手は、極度の疲労と、後戻りできない一線を越えてしまった恐怖でまだ微かに震えている。
「ああ。だが、三県合同の山狩り部隊がこの一帯を完全に包囲するのも時間の問題だ。連中、今頃は俺たちを凶悪な誘拐犯だと信じ込んで、血眼になって網を狭めているだろうからな」
栗原は、洞穴の入り口から見える重苦しい曇天を見上げながら、忌々しそうに吐き捨てた。
手元にあるのは、半分充電の減ったスマートフォンと、水没して完全に使えなくなった警察無線。そして、石田が素手で握りしめている凶器のメスだけだ。警察のシステムという巨大な眼を奪われた今、彼らは完全に目隠しをされた状態で、何千人という追っ手から逃げ延びなければならない。
「……栗原さん。僕、刑事として完全に終わりましたね」
石田が、泥と乾いた血にまみれた自らの両手と、そこにあるメスを見つめながら、自嘲気味に笑った。
「素手ですよ。あの野郎の血がべっとりついた凶器を握りしめちまった。柄の部分に僕の指紋、バッチリ残ってます。言い逃れできない立派な『犯行の証拠』の完成だ。これで僕は、正真正銘の殺人未遂の実行犯ですよ」
石田の肩が微かに震えている。彼は三十五歳。中堅としてこれからの警察人生を担うはずだった男が、すべてを棒に振るにはあまりにも理不尽な結末だった。
「気にするな。どのみちあの状況じゃ、手ぶらで逃げようが俺たちは真っ黒にされてた」
栗原は石田の肩を無骨に叩き、その手にある銀色の刃を指差した。
「……だがな、石田。結果論だが、お前がそのメスを確保したおかげで、俺たちは唯一の『反撃カード』を手に入れたんだ」
「反撃カード……? 何言ってるんですか。これは僕があいつを刺したっていう、最悪の証拠品ですよ。このメスについてる血痕からDNAでも検出して、あいつが連続殺人鬼だって証明できるとでも言うんですか?」
「バカ言え」
栗原は鼻で笑い、首を振った。
「十二年間で十一人分の血やDNAが一本の刃物に付着していたとして、それがまともな証拠になると思うか? DNAが混ざりすぎて科捜研でも鑑定不能のゴミになるだけだ。それに、十二年間も儀式を完遂しようとしている用意周到な怪物が、凶器の血を拭き取らないわけがねえ」
「じゃあ、なんでこれが切り札になるんですか……! 僕の指紋がべったりついてるんですよ!?」
「泥を拭き取って、そのメスの『刃の形』をよく見てみろ」
栗原に促され、石田はシャツの比較的綺麗な部分で刃先の泥を拭った。薄暗い洞穴の中で、その銀色の全貌が明らかになる。
「……これ、今時の使い捨ての替刃式じゃない。刃と柄が一体化してる、かなり古いタイプの……しかも、刃が異常に分厚くて短いです」
「そうだ。そいつは普通の外科手術で皮膚や筋肉を切るためのメスじゃない。軟骨や硬い組織を断ち切るための『解剖用メス』、あるいは『骨膜剥離子』に近い特殊な代物だ。刃こぼれをしないように、極めて硬い鋼で打たれてる」
「骨を……切るため?」
「奴の目的は、少女たちの『第十二肋骨』の切除だ」
栗原の目が、薄暗い洞穴の中で猟犬のように鋭く光った。
「人間の硬い骨を刃物で切り取れば、どんなに頑丈な刃でも必ずミクロの欠けや傷がつく。そして、切り取られた骨の断面にも、銃弾の線条痕と同じように『その刃物特有の傷跡』が刻まれる。……わかるな、石田」
「あっ……! 山で発見された白骨遺体……! あの遺体から切り取られた第十二肋骨の切断面に残されたツールマークと、このメスの刃の形状を照合すれば……完全に一致するはずだ!」
石田が弾かれたように顔を上げる。だが、次の瞬間には再び絶望の色が顔を覆った。
「ダメですよ、栗原さん! ツールマークが一致したって意味がない! さっきも言った通り、この柄には僕の指紋がべっとり付いてるんです! 警察は『石田が十二年前からこのメスを使って殺人を繰り返していた狂信者だ』って結論づけるに決まってます!」
「バカ野郎」
栗原は、パニックに陥る石田の頭を泥だらけの手で小突いた。
「科捜研の連中を舐めるな。お前は暗闇から飛んできた血まみれの凶器を『拾った』んだ。つまり、お前の指紋は物部の新鮮な血痕の『上』から付着している。もしお前が柄を握ってあいつを刺したんなら、お前の指紋の『下』に血痕があるのは物理的におかしい。ちゃんと調べれば、お前が犯行後に凶器を拾っただけだってことは法医学的にすぐに証明できる」
「あ……」
「それに、十二年前からお前が犯人だとする筋書きも絶対に無理だ。お前、今三十五歳だろ?」
「十二年前の最初の事件の時、お前は二十三歳。警察学校に入ったばかりか、交番勤務のひよっこだ。全寮制の学校で四六時中教官に監視されていたか、交番で先輩とペアを組んで泥臭くパトロールしてた時期だ。中国地方を股にかけて連続殺人を実行できるような空白の時間なんて、お前の経歴のどこにも存在しねえよ」
「……!」
石田の目が、大きく見開かれた。
「そうだ。お前の指紋はただのノイズだ。警察組織でお前が過ごしてきた経歴そのものが、十二年間の完全なアリバイになる。つまり、この凶器の『本当の持ち主』は、昨日現場にいた物部という男以外にあり得なくなるんだ」
栗原は獰猛な笑みを浮かべた。
「俺みたいな窓際のデカが、こんな特殊なヴィンテージの解剖用メスを持ち歩いてるわけもねえ。警察のしがらみに囚われない本庁の『鈴原』のルートを使って極秘に解析させれば、被害者を装っている『物部』という男と、連続猟奇殺人を直接結びつける、逃れようのない絶対の物的証拠になる」
石田の手に握られた血まみれのメス。それは彼を破滅させる凶器ではなく、十二年の沈黙を暴き、怪物の喉笛を噛み千切るための唯一の「牙」だったのだ。
「……鈴原さんなら、僕らの意図に気づいて、裏で動いてくれるかもしれない」
石田は強く頷き、破れたシャツの裾を引きちぎると、メスを慎重に包み込んでポケットの奥深くへとしまった。
「……ん……ぅ……」
その時、洞穴の奥で丸くなっていた白いワンピースの少女――神谷しずくが、微かに呻き声を上げた。
物部によって嗅がされていた睡眠薬の効果が、数時間の経過とともにようやく切れ始めたのだ。
「おい、気がついたか」
栗原がゆっくりと近づき、泥だらけの手で声をかける。
しずくはゆっくりと目を開け、焦点の合わない目で薄暗い洞穴の天井を見つめた。そして、目の前にいる無精髭で泥まみれの巨漢(栗原)の顔を認識した瞬間、悲鳴を上げて後ずさった。
「いやっ……! 誰!? なんで、私……! スサさんは!? スサさんはどこ!?」
怯えきった声で、彼女は「スサ」の名前を呼んだ。
「スサさん、だと?」
栗原は眉をひそめた。
「いいか、落ち着いてよく聞け。俺たちは警察だ。お前は誘拐されて、殺されかけてたんだ。俺たちが連れ出してきた」
「警察……? 誘拐……?」
しずくは混乱したように首を振った。
「違う! 私は誘拐なんかされてない! スサさんが、私を本当の神事に迎えに来てくれたのに……!」
「……お前、自分の意志で奴について行ったのか?」
栗原の問いかけに、しずくは乱れた髪を振り乱して叫んだ。
「私、学校にも家にも居場所がなくて……でも、神社の神楽教室にいる時だけは息ができたの。物部先生は、私が舞う巫女舞を誰よりも褒めてくれた! 『君の舞には神が宿っている。二人だけの時は僕のことをスサと呼びなさい』って……私の誕生月が十一月だって知ったら、『君こそが、古から伝わる秘められた神事のための、十二番目の特別な巫女だ』って言ってくれたの!」
その時、栗原の目が、しずくの乱れた髪の間に光る「ある物」を捉えた。
古い銀細工でできた、鈍く光る『銀の髪飾り』だ。
「……お前、その髪飾りはどうした」
「これ? これは……スサさんが、お稽古の後に特別に授けてくれた神具よ」
しずくは、その銀の髪飾りを宝物のように大切に手で包み込んだ。
「スサさんは言ったわ。『これは選ばれた真の巫女の証だ。君の誕生日のちょうど一週間前、それを髪に着けて指定の場所で待っていなさい。必ず、君を黄泉の国へと続く神の舞台へ案内する』って。だから私、言われた通りに待ってたの! そしたらスサさんが車で迎えに来てくれて……神聖なお香だと言って煙を焚いてくれて……そこから、記憶がないの。ねえ、スサさんはどこ!? 儀式を邪魔しないで!」
――地元の神社で巫女舞を教える、尊敬を集める神楽の指導者。
――二人だけの秘密の呼び名。
――誕生日のちょうど一週間前という指定。
――選ばれた生徒だけに授けられる、特注の銀の髪飾り。
栗原と石田は、息を呑んで顔を見合わせた。過去十一人の被害者が、なぜ一様に「誕生日の七日前に失踪」し、なぜ共通の「銀の髪飾り」を身につけていたのか。
そのすべての謎が、今、完璧な一本の線として繋がった。
物部は、ネットの匿名掲示板で行き当たりばったりに獲物を探していたわけではない。
中国地方の神社を回り、神楽の指導者という絶対的な権威と信頼の仮面を被って、孤独を抱える少女たちを直接吟味していたのだ。教師と生徒という逆らえない関係性の中で、自分が目をつけて誕生日を特定した少女に「あなたは特別だ」と甘い言葉を囁き、時間をかけて洗脳し、『神具(髪飾り)』を授けることで、少女たち自らに儀式のルールを守らせ、誰にも疑われることなく連れ去っていたのだ。
すべてを自分の手で、己の神話という狂った箱庭の中で完結させていた、完璧な単独犯だった。
「お嬢ちゃん。残酷なことを言うが、よく聞け」
栗原は、しずくの震える肩を両手でしっかりと掴み、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お前が『スサさん』と呼んでるあの男は、お前を神事に導く指導者なんかじゃない。……神楽や伝統を隠れ蓑にして、自分のイカれた儀式を完成させるためだけに、十一年間、お前と同じように教え子だった少女たちを騙し、殺し続けてきた連続殺人鬼だ」
「え……?」
「その髪飾りは、選ばれた証じゃない。『屠殺場への整理券』だ。あいつは、お前の胸の骨を切り取って殺すつもりだった。あの泥まみれの廃神社でな」
「嘘……! 嘘よ!!」
しずくは両手で耳を塞ぎ、激しく頭を振った。
「だって、スサさんは優しかった! 私の舞が一番美しいって……!」
「それが奴のターゲットの条件だったんだ。お前はただの『十二番目の生贄の肉』として選ばれただけだ」
「違う! 違う違う違う!!」
しずくの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
自分を唯一理解し、才能を認めてくれた特別な大人が、実は自分を肉塊としてしか見ていない冷酷な殺人鬼だったという現実。十五歳の少女にとって、それは信じていた世界が根底から崩れ去るほどの絶望だった。
彼女は両手で顔を覆い、しゃくり上げながらその場に泣き崩れた。
栗原は何も言わず、ただ泥だらけの不器用な手で、彼女の背中を叩き続けた。言葉の刃で切り刻まれた心は、すぐに癒えることはない。だが、ここで彼女が現実を受け止めなければ、怪物を止めることはできない。
数分後。泣き腫らした目で、しずくはゆっくりと顔を上げた。
「……スサさん……あの男、車の中で、ずっと独り言を呟いてた……」
「独り言?」
「うん……スマホも持ってないのに、助手席の空の空間に向かって、すごく興奮した声で話しかけてて……『はい、これでついに十二の月が揃います。今夜、黄泉比良坂の奥の、真の神楽殿で』って……。まるで、目に見えない神様と会話してるみたいに……」
その言葉に、栗原の背筋に冷たい粟が立った。
物部は、ただの狂信者ではない。彼は己の脳内に「神」を棲まわせ、その声を聞きながら十二年間、たった一人でこの狂気の儀式を遂行してきたのだ。誰とも共謀せず、たった一人で世界を騙し続けてきた怪物の底知れない異常性が、その一言に凝縮されていた。
「黄泉比良坂……!」
石田が、弾かれたように顔を上げた。
「島根県松江市にある、あの神話の舞台ですか!? でも、あそこはただの観光地化された石碑があるだけの場所だ」
「奴はただの歴史研究家じゃない。由緒ある神楽の指導者だ。表面上の観光地ではなく、代々の伝承者にしか口伝されていないような、あるいは奴自身が裏で管理している『未発見の地下洞窟』や『古い神楽の舞台』が、松江の黄泉比良坂周辺に存在するはずだ」
栗原の脳裏に、一つの強烈な確信が閃いた。
栗原は立ち上がり、洞穴の入り口から外を見た。
雨は小降りになっていたが、遠くから、ついに警察犬の低い吠え声と、枯れ枝を踏み折る多数の足音が微かに聞こえ始めていた。山狩り部隊の包囲網が、すぐそこまで迫っている。
「石田、スマホのバッテリーはどれくらい残ってる?」
「二十パーセントです。でも、電波はまだ圏外で……」
「山を下りて電波を拾い次第、鈴原に暗号で連絡を取れ。メスの件を伝え、同時に松江市周辺の未発掘の遺跡や、古い神楽の舞台跡を検索させろ。奴の『本当の儀式場』を特定するんだ」
「でも、栗原さん。僕らは今、全国指名手配の逃亡犯ですよ!? 警察の包囲網を抜けるだけでも不可能なのに、これからその男を追いかけるつもりですか!?」
「逃げるだけじゃ、事態は何も変わらねえ。俺たちは組織から追われる身になった。だがな、それは裏を返せば、もう警察の面倒なルールや上層部の許可を気にする必要がなくなったってことだ」
栗原は、獰猛な猟犬の笑みを浮かべた。
「世間や警察が俺たちを『狂った誘拐犯』として追っかけている隙に、俺たちが裏から本当の怪物の喉笛に食らいつく。……反転攻勢だ。ここから先は、俺たちが奴を狩る番だ」
栗原はしずくに手を差し出し、彼女を立ち上がらせた。
「歩けるか、お嬢ちゃん」
「……はい」
しずくは、泥だらけの栗原の手をしっかりと握り返した。その瞳には、先ほどまでの怯えや絶望ではなく、信じていた大人に裏切られた悲しみを抱えながらも、真実を知って生き延びようとする、力強い光が宿っていた。
「行くぞ。泥水すする覚悟を決めろ」
遠ざかる雷鳴の中、二人の孤立無援の刑事と、残酷な現実を受け入れた少女。
圧倒的な警察権力という巨大な波を背に受けながら、三人は真実の潜む黄泉の国へと向けて、泥濘の山を駆け下りていった。




