崩壊する正義と、深淵からの告白
島根県警本部、特別捜査本部。
壁一面の巨大モニター群で、ワイドショーのコメンテーターたちが栗原剛への非難をわめき散らしていた音声が、突如として不自然な電子音と共にプツリと途絶えた。
直後、特捜本部のすべてのスピーカーから、チリチリという微かなノイズに混じって「ピチョン、ピチョン」という、水滴が冷たい岩肌を打つような湿った環境音が響き始めた。
「……なんだ? 通信トラブルか?」
捜査員の一人が怪訝な顔で天井のスピーカーを見上げた、その時だった。
『――山名という男は、実に扱いやすい指揮官でしたよ』
水を打ったように静まり返った会議室に、ひどく穏やかで、透き通るような男の声が響き渡った。
それはテレビの音声ではない。どこか密閉された広大な地下空間から、マイク越しに直接語りかけてきているような、不気味なほど生々しい肉声だった。
『私が廃神社の床で自らの腹を刺し、血を流して見せただけで、彼らは一切の疑いを持たずに私を「被害者」として保護してくれた。……そして、あなた方のような鋭い猟犬を、勝手に「凶悪犯」に仕立て上げて全力で追い回してくれたんですからね。これ以上の喜劇はありませんよ』
「な……っ」
本部長席で腕を組んでいた山名が、弾かれたように立ち上がった。その巨体が、目に見えない巨大な鉄槌で殴られたかのように大きくグラついた。
その声の主を、現場にいた機動隊員たちも、山名自身も知っていた。
つい数時間前、八雲山の廃神社で「栗原たちに襲われていた」と証言し、救急車の到着を待たずに闇へ消えた「自称・歴史研究家の被害者」の声だ。
「おい、通信班! これはどこからの音声だ! 誰が本庁の回線にこんなものを繋いでいる!」
山名が血走った目で怒号を飛ばすが、システムを外部から完全に掌握された通信班の端末はフリーズし、オペレーターたちは真っ青な顔で無意味にキーボードを叩くことしかできない。
この異常事態の理由を理解しているのは、特捜本部の中でただ一人、関川管理官だけだった。関川は静かに目を閉じ、口角をわずかに上げてその「告白」に耳を澄ませた。
スピーカーからは、怪物の独白がさらにクリアに、冷酷な響きを持って鳴り響き続けていた。
『警察組織の強大な権力と、メンツを守るための硬直した正義感。それらは、私の神殿を完成させるための最高の「防壁」でした。私が手ぶらで少女たちを黄泉へと案内し、彼女たちの「第十二肋骨」を抜き取って骨の祭壇に並べている間、警察はずっと見当違いの場所で家出人探しに奔走していた。十一年間、ただの一度も私の神域を脅かすことなく』
会議室の空気が、急速に凍りついていく。
何百人という屈強な捜査員たちが、息をするのすら忘れたかのように立ち尽くしていた。
十一人の少女を殺し、肋骨を抜き取ったことへの、明白な自白。
自分たちが「被害者」として保護しようとし、まんまと逃がしてしまったあの男こそが、十二年間の連続猟奇殺人鬼の正体だったという事実が、逃れようのない絶対の音声として全捜査員の鼓膜に叩き込まれていく。
『……だが、栗原剛。君だけは違った。君の泥臭い執念だけは、私の描いた完璧な神話のシナリオを幾度も脱線させた。だから私は、君をこの舞台から排除するために、君が過去に味わい、最も憎んでいる「冤罪」のシナリオをもう一度プレゼントしてあげたのですよ』
狂信者の傲慢な笑い声がスピーカーから漏れた、次の瞬間。
『……よく回る舌だ、物部』
スピーカーから、今度は地を這うような、低く掠れた、獣のような男の声が響いた。
栗原剛の声だ。
『お前は、自分が完全犯罪を成し遂げた神話の支配者だとでも思っているのか。笑わせるな』
栗原のその声には、死地にいる人間の絶望など微塵もなく、ただ圧倒的な怒りと闘志だけが煮えたぎっていた。
『お前がやったのは、孤独な少女に甘い言葉を囁き、睡眠薬で眠らせて腹を割くという、卑小で惨めな肉屋の真似事だ。そこに神なんざいねえ。ただの、イカれた人殺しのゴミ溜めだ』
『強がりはよしましょう。現に君は今、全国の警察から命を狙われ、私にメスを突きつけられている。……さあ、しずくちゃんの最後のピースをいただきましょうか。君たちには、特等席でそれを見届けて――』
『石田ァッ!!』
栗原の、坑道の岩盤を砕くような凄まじい咆哮と同時。
スピーカーから、水しぶきを上げる激しい足音と、風を切る音が連続して響いた。
ガキィィンッ!! という、硬質な金属同士が激しくぶつかり合う音が、特捜本部の会議室に甲高く響き渡る。
『ぐあっ……!』
『栗原さん! 左です!』
石田の声だ。
彼ら二人が、完全な暗闇の地の底で、メスを持った殺人鬼と今まさに命がけの死闘を繰り広げているのだ。
その生々しい打撃音と、荒々しい息遣いを聞きながら、特捜本部の捜査員たちは誰一人として声を発することができなかった。
自分たちが「少女を拉致した凶悪犯」として射殺命令まで出し、日本中のメディアが「史上最悪の警官」と糾弾しているその男たちは今、警察組織が完全に見落としていた「本物の怪物」から、たった二人で少女の命を守るために血を流している。
自分たちの信じていた正義が、いかに愚かで、いかに醜悪な思い込みであったか。
突きつけられた残酷な真実に、現場の猛者たちの膝が震えていた。彼らの顔からは血の気が引き、ある者は拳を震わせ、ある者は己の過ちに涙を浮かべていた。
「……聞いたな、山名本部長」
関川管理官が、蒼白になって立ち尽くす山名に向かって、静かに、しかし研ぎ澄まされた刃のように鋭い声で言った。
「これが、お前の信じた『目の前の血』の正体だ。お前は殺人鬼の狂言を鵜呑みにし、無実の部下を撃ち殺そうとしていたんだ」
山名の岩のような巨体が、大きく揺らいだ。
彼の「警察の誇り」という絶対の信念が、内側から音を立てて崩壊していく。
だが、彼は長年現場を束ねてきた、本物の指揮官だった。己の致命的な過ちを完全に悟った瞬間、山名の腹の底から、過去のどの怒声よりも巨大な、血を吐くような咆哮が爆発した。
「通信班ッ!! 音声の電波の発信源を逆探知しろォッ!!」
山名はマイクを引ったくり、特捜本部の全回線に向けて狂ったように怒鳴り散らした。
「全部隊に次ぐ!! 栗原と石田への射殺命令を直ちに撤回する! 繰り返す、射殺命令を撤回しろ! 奴らは犯人ではない! 今この瞬間も身を挺して被害者を守り抜いている、本物の『刑事』だ!!」
山名の怒号が、スピーカーのノイズを掻き消して響き渡る。
「何が何でも音声の発信源を特定し、全機動隊を八雲山へ急行させろ!! 栗原たちを、絶対に死なせるなァッ!!」
山名の魂の叫びにより、特捜本部は呪縛から解き放たれたように、狂乱の怒濤へと突入した。
オペレーターたちが涙目でキーボードを叩き、全管区のパトカーと機動隊車両が、一斉にUターンをしてサイレンの悲鳴を上げ始める。
だが、時はすでに遅かった。
八雲山の地下深く、有毒ガスが滞留する廃坑道の最深部では、地上の応援など絶対に間に合わない「閉ざされた死闘」が、すでに絶望的な領域へと足を踏み入れていた。




