猟犬と神の死闘
島根県警本部で山名が放った咆哮も、何百台ものパトカーが夜の帳を引き裂いて走るサイレンの音も、ここには届かない。八雲旧鉱山の最深部、海抜マイナス数百メートルの暗がりに響くのは、粘り気を帯びた自分たちの荒い呼吸音と、天井から滴り落ちる地下水の、絶望的なまでに規則正しい音だけだった。
空間を埋め尽くす数百本の和蝋燭の炎が、不規則な風に吹かれて激しく揺らめく。
その光に照らされた物部の姿は、もはや人間のそれではなかった。返り血で汚れた白い狩衣は、どす黒い漆を浴びたように変色し、その瞳には暗い空洞のような虚無が宿っている。
「……中継、ですか。実に結構だ」
物部は、足元の泥水を跳ね上げながら、ゆっくりと間合いを詰めてきた。手にした予備の医療用メスを、愛おしげに指先で転がす。
「私の神話が、その結末を何万人もの人間に目撃される。これほど名誉なことはない。君たち警察という『群れ』が、私の完成させる完璧な孤独に震え、ひれ伏す様が目に浮かびますよ」
「……黙れ、異常者が」
栗原は、右手に握った特殊警棒を低く構え、半身の姿勢を取った。
「神話だの孤独だのと、安い言葉で飾るな。お前はただの、薄汚い小児誘拐犯だ。それ以上でも以下でもねえ」
肺の奥が焼けるように熱い。硫黄の臭気――硫化水素を含んだ重い空気が、じわじわと意識を混濁させていく。一呼吸ごとに思考のピントがずれ、手足の感覚が痺れていくのがわかった。
この閉鎖空間での戦闘は、数分が限界だ。それ以上は、戦う前に毒に殺される。
「石田、しずくちゃんを連れて下がってろ。……こいつは、俺がやる」
「……嫌ですよ」
背後で、石田が掠れた声で答えた。額の傷から流れる血を乱暴に拭い、彼はひび割れた眼鏡を捨て去った。その視力は著しく落ちているはずだが、その双眸には、獲物の喉笛を狙う冷徹な光が宿っていた。
「二人で一人でしょう。僕ら、バディなんですから」
その瞬間、物部が動いた。
予備動作は一切なかった。ただ、それまで静止していた肉体が、物理法則を無視した初速で暗闇を切り裂いた。
「ッ……!」
栗原は反射的に警棒を振り上げた。
ガキンッ! と、硬質な金属音が地下空洞に激しく反響する。
重い。
物部の細身の体躯からは想像もつかない、岩盤を叩きつけるような凄まじい衝撃が栗原の腕を伝わり、肩の関節を軋ませた。
物部はただの狂信者ではない。彼は十二年もの間、少女を抱えて険しい山道を歩き、土を掘り、重い鉄のゲートやコンクリートの封鎖を何度も潜り抜けてきたのだ。その異常な目的のために鍛え上げられた肉体は、文字通り「怪物」のそれへと変貌していた。
「このメスは、君たちの皮膚を裂くためのものではない」
物部は冷笑を浮かべたまま、流れるような動作でメスを翻した。
「君たちがこれまで守ろうとしてきた、組織の欺瞞、無能な良心……それらを切り刻み、真実という名の骨を剥き出しにするための、神の指先だ」
銀色の閃光が、栗原の頬を掠めた。
熱い痛みが走り、生暖かい血が顎を伝って落ちる。栗原は構わず、自身の巨体を弾丸のように物部の懐へと叩きつけた。
ボッ! という鈍い打撃音。
栗原のタックルを受けた物部が、後方の和蝋燭を何本もなぎ倒しながら泥水の上に転がる。
だが、物部は即座に、バネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。
その動きに迷いはない。痛みすら感じていないかのような、機械的な正確さ。
「栗原さん! 左です!」
石田の声と同時に、物部が影から飛び出した。
手に持ったメスが、栗原の左脇腹を狙って最短距離で突き出される。
栗原は体を捻り、紙一重でそれをかわすと、そのまま警棒を全力で振り下ろした。
空気を切り裂く風切り音。だが、物部はそれを紙一重でかわし、逆に栗原の腕を掴もうとしてくる。
空気が重い。
激しい肉弾戦によって、坑道内の酸素は急速に消費されていた。
栗原の視界の端で、和蝋燭の火が一つ、また一つと立ち消えていく。有毒ガスが足元から天井へと這い上がり、空間をじわじわと死の闇で満たしていく。
(……このままじゃ、全滅する)
栗原は、朦朧とする意識の中で、祭壇の上に横たわるしずくを見た。彼女の胸が、弱々しく、しかし確かに上下している。彼女にはまだ、生きる意志がある。
四年前の『大丸銀行立てこもり事件』。あの時、上層部の理不尽な判断の中、栗原が守り抜いたのは、人質にされた多くの行員たちの「命」だった。
そして今、この暗闇の底で守らなければならないのも、己の保身や刑事としてのメンツなどではない。目の前で震えている、十五歳の少女の「命」そのものだ。
「物部……! お前がどれだけ言葉で神話を作ろうが、ここは神の国なんかじゃねえ!」
栗原は警棒を投げ捨て、素手で物部の首筋に飛びかかった。
「ただのドブネズミの巣だ! 自分の正体が見えてねえなら、俺が教えてやるよ!」
二人の巨躯が泥水の中で激しく揉み合う。
物部の爪が、栗原の顔面を引き裂く。栗原の拳が、物部の顔面を殴りつけ、鈍い音が響く。
もはやそれは警察官による逮捕劇ではなかった。
互いの信念を、憎悪を、そして生への執着を、拳と牙で削り合う、凄惨な「共食い」だった。
石田もまた、泥にまみれながら物部の足を背後から掴み、必死にその自由を奪おうとしていた。
「離せ……! この……、穢れた犬めが!」
物部が初めて感情を露わにし、石田の頭部を何度も踏みつける。
「離すもんか! 俺たちは……、泥を啜ってでも、お前を地獄へ引き摺り込んでやるんだ!」
石田の執念が、物部の動きを一瞬だけ止めた。
その一瞬。
栗原は、物部の喉元を、自らの太い指で万力のように締め上げた。
「……ッ、ごふっ……!」
物部の口から血の泡が漏れる。
だが、物部の右手には、まだ銀色のメスが握られていた。
和蝋燭の最後の一本が消えようとしたその時、暗闇の中でメスの刃が鈍い光を放ち、栗原の首筋に向かって振り下ろされた。
絶体絶命。
その瞬間、石田のポケットの中で、もう一つの「牙」が、静かにその出番を待っていた。
島根県警本部のスピーカーからは、ただ、激しい水音と、喉を詰まらせたような呻き声だけが、延々と流れ続けていた。
誰もが言葉を失い、地の底で起きている、救いのない殺し合いの結末を、固唾を飲んで待っていた。




