第6話 はじめて名前を呼ばれた
ミナの家は、村のはずれの傾いた小屋だった。
中に入ると、藁の寝床で、小さな男の子が荒い息をしていた。頬は赤く、唇は乾き、汗が止まらない。母親が憔悴しきった顔で濡れ布を握りしめている。見慣れぬ身なりのいい女が入ってきて、母親は怯えたように身を縮めた。また何か取り立てに来たのか、とでも思ったのだろう。
「大丈夫。薬師です」
できるだけ柔らかく言って、男の子の傍に膝をついた。
熱い。けれど、視る。脈の速さ。舌の色。汗の引き方。ただの風邪じゃない。こじらせて、肺のほうへ熱が落ちている。放っておけば、あと二日も保たない。けれど、今ならまだ間に合う。
「お湯を沸かせますか。あと、きれいな布を何枚か」
腰の布から薬草を取り出す。熱を逃がす草。炎症を鎮める根。子どもの小さな体に合わせ、大人の半分以下まで慎重に量を落とす。多すぎれば幼い体には毒、少なすぎれば熱に負ける。煮出して、冷まして、匙で、少しずつ。
乾いた唇を湿らせ、喉を鳴らして飲ませる。母親が、息を詰めて見守っている。
夜半まで残った。汗を拭き、二度、三度と薬を含ませ、呼吸の音に耳を澄ます。
そして、東の空が白みかけた頃――
男の子の荒かった息が、すうっと静かになった。赤かった頬から熱が引き、汗がふっと止まる。乾いた唇が、健やかな色を取り戻していく。
「熱が」母親が震える手で額に触れた。
「下がってる。下がってます……!」
男の子が薄く目を開けた。きょとんと私を見上げ、掠れた、けれどはっきりした声で言う。
「……おねえちゃん、だあれ?」
思わず笑ってしまった。
「お薬屋さんよ」
母親が崩れるように私の手を握り、何度も頭を下げた。言葉にならない声で、ありがとう、ありがとうと繰り返す。傍らで、ミナがぼろぼろ泣いていた。
「奥方様……ううん、クロエ様。クロエ様、ありがとう……!」
クロエ様。その名前が、朝の光の中にまっすぐ響いた。
姉の名前でなら、何百人も治してきた。けれど、私の名前で礼を言われたのは、たぶん、これが初めてだった。
泣くまいと思ったのに、滲んだ。そっと目元を拭う。みっともない。けれど――悪くない涙だ、と思った。
◇
館に戻ると、玄関ホールに人影があった。ディートハルトだった。
壁に背を預け、腕を組んで私を待っている。徹夜で戻らなかったのだから、叱られるだろうか。覚悟して口を開きかけた。けれど、彼が先に言った。
「村の子を、診てきたそうだな」
「……はい。事後承諾ですみません。でも、後悔は――」
「礼を言う」
言葉を失った。
ディートハルトは、まっすぐ私を見ていた。冷たいと思っていた瞳の奥に、見たことのない温度があった。
「この土地の者は、長く見捨てられてきた。領主の私が、呪いに伏せっているあいだに。誰も、あの子らに手を差し伸べなかった。お前以外は」
「私は、薬師として当然のことを」
「その“当然”を、誰もしなかった」
彼は壁から背を離し、一歩、私に近づいた。
「クロエ。お前は、いったいどこから来た」
昨日と同じ問い。けれど、響きはまるで違った。警戒ではなく、知りたい、という純粋な響き。
私は答えなかった。代わりに、くたびれた顔でにっこり笑ってみせる。
「それより旦那様。徹夜明けでへとへとなんです。今日のあなたの薬を組んだら、少し眠らせてくださいな」
ディートハルトが、ふっと息を漏らした。それは、たぶん、笑いだった。彼が何年ぶりかに浮かべた、ごく小さな。
◇
その同じ朝。遠い王都の宮廷で。
「天才錬金術師」ヴィオラの新作の薬が、王太子の侍医によって、静かに突き返されていた。
「ヴィオラ嬢。これは、どういうことかな」侍医の声は冷ややかだった。
「先日納めた鎮痛薬。陛下にお出ししたところ、まるで効かなかったのだが」
扇を持つヴィオラの手が、わずかに強張った。
「な……何かの間違いですわ。私の薬が、効かないなんて」
そんなはずはない。だって、いつもと同じ処方書どおり、同じ素材を、同じ分量で混ぜたのだから。
そう。ただ、混ぜた、だけ。
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