第5話 荒れた工房と空っぽの棚
東の離れの工房は、ひどい有様だった。
埃をかぶった棚。錆びた蒸留器。ひび割れた乳鉢。素材棚は、ほとんど空。残っているのも、湿気て効能の飛んだ屑ばかり。普通の錬金術師なら、頭を抱えて立ち尽くす場所だろう。
けれど、私の目には違うものが視えていた。
(この蒸留器、錆を落とせばまだ使える。棚の隅の、しなびた根……乾かし方は雑だけど、芯はまだ生きてる。それに――)
窓の外。痩せて見える、けれど死んではいない、辺境の大地。
(素材は、ここにいくらでも“ある”。みんな、見えていないだけ)
袖をまくる。まずは掃除から。錆を落とし、棚を拭き、使える道具と捨てる道具を選り分ける。手を動かしていると、十二の頃、初めて姉の代わりに工房へ立たされた日のことを思い出した。あの頃の私は、ただ怖くて必死だった。今は違う。ここは、私だけの場所だ。
昼を過ぎた頃、工房の戸口に小さな影が立った。
痩せた、十かそこらの女の子。薪を抱えて、おずおずと私を見上げている。
「あの、奥方様。あたし、ミナっていいます。お館の、下働きの」
「こんにちは、ミナ。お薪をありがとう。そこに置いてくれる?」
ミナは薪を置きながら、ちらちらと私の顔を見て、それから不思議そうに首をかしげた。
「奥方様……なんだか、王都の“天才錬金術師さま”に、よく似て。ほら、いつか行商人が置いてった、似顔の刷り物の……あ、ごめんなさい、こんな辺境にそんな人、いるわけ、ないですよね」
どきりとした。そっくりなのは当たり前だ。双子なのだから。けれど私は、何でもない顔で微笑んでおいた。
「さあ、どうかしら。よく言われるのよ」
ミナは、思い切ったように小声で続けた。
「あの……奥方様は、ほんとに、薬が作れるんですか。……弟の、熱も?」
手を止めた。聞けば、ミナの弟は三日も高い熱で寝込んでいるという。村に医者はいない。あっても、薬を買う金がない。母親は濡れ布で額を冷やし続けるしかない。そういう子どもが、この辺境にはたくさんいる。
胸が、ぎゅっと痛んだ。けれど、立ち止まっている場合じゃない。痛むなら、動く。それが薬師というものだ。
「ミナ。弟さんのところへ案内してくれる?」
道具入れを掴む。ただ、その前に。私は手早く、ディートハルトの今夜と明朝の分を――まだ素材が足りず、いつもの“半分まで”しか抑えられない、その分を――組み上げ、ゴットフリートに託した。
「これを、真夜中と朝に。冷暗所に置けば保ちます。素材さえ揃えば、もっと楽にしてさしあげられるのに……それは、いずれ。私は、村まで行ってまいります」
「奥方様お一人で、村へ……旦那様に叱られます」
「叱られたら、私が叱られます。ミナのせいにはしないわ」
ミナの目が、まんまるになった。それから、ぎゅっと唇を噛んで頷く。
「……こっちです!」
小さな手が、私の袖を引く。誰かに「ついてきて」と手を引かれたのは、思えば、生まれて初めてだった。
村へ続く道の途中、古い井戸の脇を通り過ぎた、その時。ふと、舌の奥が、ちりっと痺れた。水の匂い。かすかな、けれど確かな、何か“ねじれた”もの。
(……この井戸の水。少し、おかしい)
立ち止まりかけて――けれど今は、弟が先だ。足を速める。その小さな違和感を、私はまだ、ずいぶんと軽く見ていた。
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