第4話 影でなく、私の名で
翌朝。ディートハルトは、自分の足で最上階から降りてきた。
ゴットフリートが腰を抜かしかけた。何年も寝台を離れられなかった当主が、杖もなく階段を下りてくる。使用人たちが、廊下の隅で言葉を失って立ち尽くしている。
「朝の光が、痛くない」彼は、窓の外の痩せた庭を見ていた。
「何年ぶりか、思い出せん」
「一時的なものです」私は釘を刺した。
「薬が切れれば戻ります。毎日、私が組まなければ」
「だろうな」彼が振り返る。瞳は、もう昨日ほど冷たくはなかった。
「だから、聞く。お前は、何だ」
来た、と思った。昨日の一服で、彼は気づいている。あんな薬を、即興で、足りない素材から組める人間が、ただの“厄介払いされた令嬢”であるはずがない、と。
どこまで話すか、一瞬だけ迷う。
影として薬を作っていた、という事実は、渡してもいい。けれど――その薬に「天才ヴィオラ」の名がつき、王都じゅうがその名を讃え、姉の地位も富も、その全部が本当は私のものだった。そこまでは、まだ早い。今ここで明かしても、信じてもらえないか、利用されるだけだ。本物の切り札は、いちばん効く場所まで、伏せておく。
だから、半分だけ、真実を渡す。
「公爵家で、薬を作っていました。表に出ない係として、ずっと。腕には覚えがあります。それだけ、ご承知おきください」
「表に出ない係」ディートハルトは、その言葉をゆっくり舌の上で転がした。「影、ということか」
鋭い。私は、肯定も否定もしなかった。
「ひとつ、提案があります」話を変えた。
「私を、形だけの妻ではなく、この館の専属錬金術師として使ってください。あなたの呪いを抑える薬を、毎日組みます。その代わり――」
「代わり?」
「工房と、素材を集める自由をください。それだけで結構です」
彼はしばらく私を値踏みするように見て、やがて低く問うた。
「逃げないのか」
「は?」
「ここは呪われた辺境だ。嫁いだ娘は、皆、逃げ出すか、心を病んだ。お前にも機会はやる。今なら、まだ戻れる。なぜ残る」
ああ、と思った。この人は、自分が“近づく者を不幸にする”と本気で思い込んでいる。だから、先に逃げ道を差し出す。優しさの形をした、諦め。
私は笑った。今度は、皮肉ではなく。
「戻る場所なんて、ありませんもの。私を捨てた家に? お断りです」
それから、まっすぐ彼を見て付け加えた。
「それに。やっと見つけたんです。ここでは、私の薬が、ちゃんと“私の薬”として効く。誰の影でもなく、私の名前で、人を治せる。こんな場所、他にありません」
ディートハルトの目が、わずかに見開かれた。何かを言いかけて、彼は口を閉じる。代わりに、ぶっきらぼうにこう言った。
「工房は、東の離れだ。好きに使え。ゴットフリート、案内してやれ」
「はい、ただちに」家令の声が、少し震えていた。嬉しさを、こらえるように。
背を向けかけた彼が、ふと足を止めた。
「クロエ、と言ったな」
「はい」
「名は、覚えておく」
たったそれだけの言葉だった。けれど、十八年、誰にも“私の名前”で呼ばれてこなかった私には、それが不覚にも、少しだけ、効いた。
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