第2話 誰も解けなかった呪い
館の扉は、叩く前に開いた。
出てきたのは、白髪の老家令。痩せて、背が曲がり、けれど目だけはまっすぐだった。私の旅装と、たった一つの鞄を見て、彼は深く頭を下げた。
「ようこそ、おいでくださいました。奥方様」
奥方様。一年契約の、仮初の花嫁。彼の声に滲んでいたのは、歓迎ではなく、申し訳なさだった。こんな土地に、こんな家に、また一人若い娘が送られてきた――そういう、諦めに似た憐れみ。
「家令のゴットフリートと申します。先にお詫びを。この館には、奥方様にお出しできる温かい食事も、満足な薬も、ございません」
「薬は、自分で作れますわ」
さらりと返すと、老人は虚を衝かれた顔をした。私はかまわず、館の中へ足を踏み入れる。
冷えた空気。きしむ床。けれど、真っ先に感じ取ったのは、寒さでも古さでもなかった。
匂いだ。
館じゅうに、薄く、淀んだ匂いが満ちている。鼻ではなく、もっと奥、舌の付け根のあたりで感じる、苦く古い匂い。腐敗とも、毒とも違う。もっと、ねばつくような、血のような。
(……これは)
足が、自然と止まった。
「ゴットフリート。この館の、いちばん上の部屋。あそこに、ご当主がいらっしゃるのね」
老家令が、息を呑んだ。
「なぜ、それを」
「匂いますもの。いえ、聴こえる、と言ったほうが近いかしら」
◇
通された最上階の部屋は、厚いカーテンで光を閉ざし、昼だというのに薄暗かった。
その奥、寝台の縁に、男が一人、腰かけていた。
若い。私とそう変わらないだろう。なのに、銀の髪には霜のような白が混じり、肌は血の気を失って蒼い。病が、彼を内側から削っている。
それでも――近づいた瞬間、ぴりっと肌が粟立った。鍛え上げられた肩。無造作に置かれた手の、節くれだった甲。そして何より、こちらを捉えた双眸の圧。痩せ衰えてなお、この男がかつて戦場で“何か”であったことを、体のほうが先に理解した。獣が、強い獣の前で足を止めるように。
(こんな若さで、辺境伯。戦場帰り、とも聞いた。……この人は、いったい何を背負っているのだろう)
「出て行け」
低い声だった。腹の底に響く、将の声。
「人払いは言いつけたはずだ。誰であろうと、近づけば呪いに中てられる。それとも、死にに来たか」
普通の令嬢なら、ここで青ざめて後ずさったのでしょう。
けれど私は、彼を見ていなかった。正確には、彼を“視て”いた。
体に巻きついた、淀んだ気配。その流れ。脈打つように、心臓から手足の先へ、ゆっくり回っているもの。それを、私の目と舌が、克明に分解していく。
「毒では、ありませんね」
ひとりごとのように呟いた。
「毒なら、もっと単純です。これは、もっと古い。血の流れに沿って巡り、夜になるほど深くなる。たぶん、あなたの代で始まったものではない」
(血筋に、ずっと古くから巣食っていたもの。けれど――この淀みの“濃さ”は、ここ数年で一気に深まっている。まるで、眠っていた何かを、誰かが起こしたみたいに)
男が、初めて顔を上げた。
落ち窪んだ眼窩の奥で、冷たい瞳が、まっすぐ私を射抜く。誰もが竦むであろう、その視線を。
「何者だ、お前は」
私は、旅装のまま、静かに膝を折って礼をした。それから、できるだけ淡々と微笑む。怯えていないことだけは、伝わるように。
「クロエと申します。一年契約の、仮初の妻――ということに、なっています。そして、たぶん、この館で唯一、あなたの“それ”を視られる人間です」
カーテンの隙間から、細い西日が一筋、差し込んでいた。その光の中で、私はもう、彼の呪いの“ほどき方”の、最初の糸口を探しはじめていた。
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