第1話 影武者は、笑って馬車に乗る
王都じゅうが讃える、天才錬金術師ヴィオラ。
その薬を最後の一滴まで調合していたのは、影武者の妹であるこの私だった。
誰も、知らない。知ろうともしなかった。
公爵家の大広間。磨かれた床に、私の旅装の鞄が無造作に投げ出されている。
それを見下ろす双子の姉ヴィオラは、今夜、王宮お抱えの錬金術師に召し抱えられたばかりだった。
「あなたは、ただ薬を“混ぜていただけ”でしょう?」
扇の陰で、姉が嫋やかに笑う。丁寧な言葉ほど、ヴィオラの口にかかると、よく切れる刃になった。その笑みひとつで、私の十八年が片づけられていく。
混ぜていただけ。そう、混ぜるだけで人が治るのなら、薬師なんてとっくに絶滅している。月光草は夜露の乾く前に摘まねば香りごと効能が飛ぶ。銀苔は煮立てた一瞬で薬から毒へ裏返る。同じ処方書でも、その日の素材の“声”を聴き分けて配合を変えねば、出来上がるのはただの泥水だ。
その「聴く」ことだけは、姉にはどうしても出来なかった。
だから姉は、私を影にした。賞賛も、宝石も、王宮の招きも、ぜんぶヴィオラ。私は屋敷の奥の工房で、姉の名で売られる薬を、十二の歳から六年、ひとり黙々と組んできた。
(混ぜていただけ、ね)
胸の奥で、そっと笑う。いいでしょう、お姉様。なら、試してごらんなさい。私のいない工房で、あなたの“天才”が、いつまで保つのか。
「父上、本当によろしいので」家令が遠慮がちに口を挟む。
けれど父は、私を一瞥もしなかった。
「ヴィオラが王宮へ上がる以上、レーゲンドルフに“予備”は要らん。ちょうどいい。北のヴェルンフェルト辺境伯が、呪い除けの薬師を兼ねた花嫁を欲しがっていた。一年の契約だ。式は挙げぬ、仮初の婚姻。役に立つ限りは続き、役に立たねば、一年で白紙に戻る。――お前を、やる」
ヴェルンフェルト。その名に、広間の空気がわずかに強張った。
北の辺境ヴェルンフェルト。痩せた土地、絶えない凶作。そして何より、そこを治める若き辺境伯が“呪われている”という噂で知られる地だ。近づいた者は呪いに中てられ、嫁いだ娘は三月と保たない。まことしやかに、そう囁かれている。要するに、厄介払いと口減らしの一石二鳥。死ねと言われたのと、大して変わらない。
縋って泣けば、誰かの溜飲でも下がったのだろうか。
けれど私の頭をよぎったのは、まったく別のことだった。
(呪い、か。本物の呪いなら……薬で、和らげられる類のものかしら)
気づけば、私は深く礼をしていた。
「謹んで、お受けいたします」
姉が、意外そうに目を細めた。泣き縋るとでも思っていたのだろう。あいにくですが、お姉様。私はずっと前から、この家に未練なんてない。
ひとつだけ、胸の奥で呟いた。
(あなたの薬、そろそろ効かなくなる頃よ。だって――作っていたのは、私だったんだもの)
◇
馬車を出す間際、古参のメイドが一人、人目を忍んで駆け寄ってきた。幼い頃、こっそり工房に温かいスープを運んでくれた人だ。
「クロエ様。これを」
押しつけられたのは、すり切れた革の道具入れ。私が長年使ってきた、調合の匙と乳鉢だった。本来なら、屋敷の備品として置いていくものだ。
その時だけは、皮肉も何も、出てこなかった。
「ありがとう。ばれたら叱られるわよ」
「いいんです。あなたの薬で、何人が助かったか。あたしは、ちゃんと知っておりますから」
目の奥が、じわりと熱くなった。私の薬を“私のもの”と呼んでくれた人が、この家にも、一人だけはいたのだ。
◇
辺境へ向かう馬車は、三日のあいだ、ただ北を目指した。
舗装はすぐ途切れ、窓の外から緑が消えていく。痩せた畑。あばらの浮いた家畜。すれ違う村人は皆、頬がこけ、目の光が薄い。御者は気の毒そうに、「このあたりは、もう何年も実りが悪くて」と漏らした。
私は、枯れかけた畑をじっと見ていた。土が痩せている。子どもが、痩せている。けれど、土は、まだ死んではいない。正しく手を入れれば、ここはもう一度実る。そういう“声”が、私には聴こえる。
ハズレだと笑われた力。姉が、一度も持てなかった力。
馬車が丘を越えた、その時だった。
御者が、ひゅっと息を呑んで馬を止めた。
谷の底に、灰色の館がうずくまっていた。傾いだ家々も、ひび割れた畑も、ただ土地が貧しいだけのこと。けれど――その館の上にだけ、別のものがわだかまっていた。土地の貧しさとは違う、もっと粘つく、血のように古い気配。まるで館のあるじ、ただ一人に、淀みが巻きついているような。
「奥方様。あれが、ヴェルンフェルトの御館です」御者の声は震えていた。
「あそこの旦那様には、近づかないほうが。歴代の宮廷錬金術師でさえ、誰ひとり、あの呪いを解けなかったと」
誰も、解けなかった呪い。
その言葉に、胸の奥で、ずっと眠っていた何かが、ふっと目を覚ました。不謹慎にも、少しだけ笑ってしまう。
(誰も解けなかった、ね。それはきっと、“本物”がまだ、誰も来ていないだけでしょう?)
馬車を降りる。冷たい北風が、旅のドレスの裾を巻き上げた。見上げた館の、いちばん高い窓に、ひとつだけ灯りがともっている。
眠れない人が、あそこにいる。
形見になった調合布を、きゅっと結び直した。待っていてくださいね、旦那様。あなたのその呪い、私が視てさしあげます。
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