第五話 私はもう、帰る場所を決めています
十年の月日が流れた。
二十二歳になったレオニスは、国王の政務を補佐する傍ら、王立海洋動物保護院を国内の沿岸部へ広げていた。
漁具の改良や、海洋ごみの回収制度も進んだ。網を失う漁師は減り、海獣の異常行動から嵐や海流の変化を早く察知できるようにもなった。
かつて若さゆえの理想論と嘲った貴族たちも、明確な成果を前に、もう道楽とは呼ばなくなっている。
セルキアが名付けた「あざらし幼稚園」という呼び名も、今では職員や子供たちの間ですっかり定着していた。
そして十五歳になったセルキアは、白銀のふわふわとした髪と、黒く潤んだ大きな瞳を持つ、美しい令嬢へ成長していた。
礼儀作法も、歴史も、外交も学んだ。
公爵令嬢として、どこへ出しても恥ずかしくない。
少なくとも、魚料理を前にするまでは。
「殿下。本日の昼食は、舌平目のムニエルだそうです!」
食堂へ向かう廊下で、セルキアの瞳がきらきらと輝く。
「朝から厨房の近くを歩いていたのは、その匂いを嗅ぎつけたからか」
「偶然です!」
「料理長が、窓から覗いていたと報告してきた」
「味見を頼まれるかと思いまして」
「頼まれていないのに入るな」
「はぁい……」
庭園を通ると、池のほとりに鷺が立っていた。
セルキアの足が止まる。
次の瞬間、何も言わずにレオニスの袖を掴んだ。
「十五歳になっても、まだ苦手なのか?」
「近づかなければ平気です」
「では、手を離しても?」
「それとこれは別です」
鷺が飛び去ったあとも、セルキアは袖を離さなかった。
レオニスも、鷺がいなくなったとは教えない。
そのまま歩いていると、前方からマリエッタがやってきた。
二十歳になった彼女は、王立海洋動物保護院の会計と運営を任されている。手には分厚い帳簿を抱えていた。
「レオニス様。沿岸部の新施設について、明日までにご確認いただきたい書類がございます」
「ああ。執務室へ置いておいてくれ」
マリエッタは、いまだレオニスの袖を握っているセルキアへ視線を移した。
「セルキア様。あなたが王太子妃になるのなら、せめて魚の丸呑みだけは、完全にやめさせてくださいませ」
「……もうしません!」
「今の間は何ですの?」
「大きさによります!」
「やめていないではありませんか!」
「最近は、ちゃんと小さなお魚を選んでいます!」
「そういう問題ではありませんわ!」
二人のやり取りを聞きながら、レオニスは笑った。
十年前、敵意をむき出しにしていた二人は、今では姉妹のように遠慮がない。
穏やかな日々だった。
それでも、レオニスの胸には、消えない不安が残っている。
セルキアは、助けられた恩を返すために自分のそばにいる。
そう語っていた。
ならば、恩返しが終わったと彼女が判断したとき、海へ帰ってしまうのではないか。
放流の日、子アザラシを海へ返したように。
帰るべき場所へ戻るのだと言われたら、レオニスに引き留める権利はあるのだろうか。
五歳だったセルキアを抱き上げた日から、十年。
幼い少女が美しい令嬢へ育っていく姿を、ずっとそばで見てきた。
ふわふわした髪へ触れたいと思うことが増えた。
大きな瞳に自分だけを映してほしいと願うようになった。
けれど、彼女がまだ幼かった頃の記憶が、伸ばしかけた手を何度も止めた。
だからこそ、今日、確かめると決めていた。
レオニスは、十年前と同じ海岸へセルキアを連れ出した。
夕暮れの潮風が、白銀の髪をふわりと揺らす。
セルキアは波打ち際へ目を向け、懐かしそうに目を細めた。
「ここで、殿下に助けていただいたのですね」
「ああ」
「あの頃の私は、とても小さかったです」
「今でも、さほど大きくはない」
「もう抱っこされる年齢ではありません!」
「そうか」
レオニスは微笑んだ。
腕の中へ抱き上げることが許されないほど、大きくなった。
その事実を、嬉しくも寂しくも思う。
「セルキア。今日は、君に伝えたいことがある」
指先へ力が入った。
国政を論じるときよりも、貴族たちを説得するときよりも喉が渇く。
「私と――」
「殿下」
セルキアが先に口を開いた。
「十年前のお約束を、覚えていらっしゃいますか?」
「……魚を丸呑みできるという話か?」
「違います!」
「抱きしめると温かいという話か」
「それでもありません!」
頬を膨らませたセルキアに、レオニスは笑う。
「覚えている。君が私を幸せにすると言った」
「私は、恩返しのために殿下のおそばにいたのではありません」
「では、なぜだ」
「殿下が好きだからです」
セルキアの表情が、ふっと柔らかくなった。
レオニスの胸が大きく鳴る。
黒く潤んだ瞳が、まっすぐレオニスを見つめた。
「助けていただいたからではありません。動物にも、人間にも、同じように手を差し伸べる殿下を、ずっと見てきました。誰に笑われても、ご自分の信じるものを守ろうとなさる殿下が、好きなのです」
セルキアは、胸の前で両手を握った。
頬は赤く染まっている。それでも視線を逸らさない。
「今度は私が、殿下を幸せにします!」
十年前と同じ言葉だった。
けれど、あの日の無邪気な恩返しではない。
一人の令嬢が、自分の意思で告げた求婚だった。
レオニスは一歩近づく。
「十年待った」
「はい」
「今さら撤回は認めない」
「いたしません!」
「海へ帰りたいと言っても、簡単には帰さない」
セルキアが目を丸くする。
やがて、花が開くように笑った。
「私はもう、帰る場所を決めています」
「どこだ」
「殿下のおそばです!」
その言葉を聞いた瞬間、レオニスの中で張り詰めていたものがほどけた。
気づけば、セルキアの身体を抱き上げていた。
「きゃっ」
驚いた声を上げたセルキアが、反射的にレオニスの首へ腕を回す。
「もう、抱っこされる年齢ではないと言っていなかったか?」
「殿下が勝手に抱き上げたのです!」
「ああ。私が勝手にした」
柔らかな髪が頬をくすぐる。
ずっと触れたくて、それでも躊躇っていたものが、今は腕の中にある。
幼い頃とは違う。
抱き締めた身体の温かさも、耳元で聞こえる息遣いも、頬を染める色も。
セルキアはもう、守られるだけの小さな子供ではなかった。
同じ未来を歩きたいと、自分から手を伸ばしてくれた相手だ。
レオニスは腕へ少しだけ力を込めた。
「殿下。抱きしめると温かいでしょう?」
「ああ」
「元アザラシなので!」
「今は、君だから温かいのだろう」
セルキアの耳が、みるみる赤く染まる。
「そういうことを、急に言うのは反則です」
「先に求婚してきた君が言うのか?」
「それとこれは別です!」
「別ではない」
レオニスは彼女を抱いたまま、額へそっと唇を触れさせた。
セルキアの身体が、腕の中でぴたりと止まる。
「……殿下」
「何だ」
「もう一度、お願いします」
予想外の言葉に、レオニスは目を瞬いた。
セルキアは恥ずかしそうに目を伏せながら、それでも逃げなかった。
「今のは、少し短すぎました」
「君は、ときどき驚くほど大胆だな」
「元アザラシなので!」
「それは関係ないだろう」
今度は、先ほどよりゆっくりと額へ口づける。
銀色の髪が、また頬をくすぐった。
顔を上げると、セルキアは幸せそうに目を細めていた。
十年前、漁網の中で震えていた小さな命。
独りではないと伝えた相手が、今度はレオニスへ同じことを教えてくれている。
どれほど理解されない日があっても、自分の隣には彼女がいる。
「婚約祝いの料理は、何がいい」
レオニスが尋ねると、セルキアは間髪入れずに答えた。
「おさかながいいです!」
「丸呑みは禁止だ」
「もうしませんってば!」
「大きさによるのだろう?」
「マリエッタ様から聞いたのですか!?」
「目の前で聞いていた」
「では、小さく切ってください!」
「最初からそうしなさい」
セルキアは腕の中で笑い、レオニスの肩へ頬を寄せた。
「殿下」
「何だ」
「幸せですか?」
レオニスは、ふわふわした髪へ頬を寄せる。
「ああ。もう、十分過ぎるくらい、君に幸せにされている」
寄せては返す波の音に、セルキアの笑い声が重なった。
最後までお付き合いあㄜ̏ (・∞・ミэ )Эラシ!
白くてふわふわなアザラシが、転生したら可愛いのでは?だけで書いてしまいました。
元アザラシのセルキアが、どんな王太子妃になるのか気になったら、ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




