第四話 今度は私が殿下を幸せにします!
夕暮れが近づいた頃、獣医が報告に来た。
「殿下。この子ですが、傷も塞がり、十分に泳げるまで回復しました。明日の朝、放流できるかと」
「明日の放流を、わたくしにも見届けさせていただけませんか」
「ああ。もちろんだ」
マリエッタは子アザラシを見下ろしながら、そんなことを願い出るのは初めてのこと。
彼女の声からは、もう棘が消えていた。
翌朝、海岸には薄い霧がかかっていた。
波打ち際へ置かれた木箱の扉が開く。
マリエッタがそばにいた子アザラシは、すぐには出ようとせず、鼻先だけを外へ出した。
「行きなさい」
マリエッタが小さく声をかける。
子アザラシはおそるおそる箱から這い出し、波打ち際へ向かった。途中で何度も振り返り、黒い瞳でマリエッタを見つめる。
彼女は胸元で両手を握り締めていた。
「……行きなさい。あなたの場所は、ここではないのでしょう」
子アザラシは、しばらくその場に留まっていた。
やがて、寄せてきた波へ身体を滑らせる。
陸ではあれほど不器用だった身体が、水へ入った途端、矢のように進んだ。白い腹が波間に見え、すぐに遠ざかっていく。
マリエッタは、その姿を追うように一歩前へ出た。
「マリエッタ。足元に気をつけろ」
レオニスが声をかけたときには、遅かった。
波に濡れた岩へ靴が滑る。
身体が傾いたところへ、次の波が押し寄せた。
「マリエッタ様!」
悲鳴とともに、マリエッタの身体が海へ落ちた。
「わたくし、泳げ――」
言葉が波音に呑まれる。
レオニスが駆け出すより先に、白い影が横をすり抜けた。
セルキアだった。
迷いなく海へ飛び込む。
「セルキア!」
五歳の身体が波間へ沈んだ。
レオニスの胸が凍りつく。
だが次の瞬間、水面へ出たセルキアは、陸で何度も転んでいた少女とは別の生き物に見えた。
小さな身体が波を切り、まっすぐマリエッタへ向かう。
背後へ回り込み、沈みかけた頭を水面へ押し上げた。
「力を抜いてください!」
「で、でも……!」
「大丈夫です!私、泳ぎなら負けません!」
職員が縄を投げる。
セルキアは片腕でマリエッタを支えたまま、縄まで泳いだ。五歳児とは思えない力強さで、波に逆らって進んでいく。
「掴まれ!」
マリエッタが縄を握る。
レオニスたちは二人を引き寄せ、どうにか岸へ上げた。
全身ずぶ濡れのセルキアを、レオニスはすぐに外套で包んだ。
「無茶をするな!」
「でも、マリエッタ様が溺れていました!」
「君まで流されたら、どうするつもりだった!」
「私は元アザラシなので、大丈夫です!」
「今は五歳の令嬢だ!」
声が震えた。
セルキアは驚いたようにレオニスを見上げる。
その瞳を見た瞬間、怒りより先に安堵が込み上げた。レオニスは濡れた小さな身体を、外套ごと抱き締める。
「……無事でよかった」
「殿下も、温かくなりますか?」
「今は君を温めているんだ」
「では、お互いさまですね!」
セルキアは嬉しそうに笑った。
その隣で、毛布に包まれたマリエッタが震えている。
「どうして……」
かすれた声が漏れた。
「どうして、わたくしを助けましたの。わたくしは、あなたを追い出そうとしたのですよ」
「溺れている子を助けるのは、当たり前です!」
「でも、わたくしたちは、王太子妃の座を争っていたのでしょう?」
「えっ!?争っていたのですか?それは困りました」
セルキアは少し考えたすえに、胸を張る。
「では、今度は陸で勝負しましょう!陸はちょっと苦手ですけど!」
マリエッタは目を見開いた。
やがて、目尻から落ちた涙を拭うこともせず、声を上げて笑った。
「陸で勝負をしても、あなたはすぐ転ぶではありませんか」
「転ばない練習をします!」
「まずは、まっすぐ歩くところからですわね」
「マリエッタ様が教えてください!」
「仕方ありませんわね」
しばらくして呼吸を落ち着けたマリエッタは、レオニスへ向き直った。
「殿下。わたくし、殿下が動物保護に熱心なところが、正直なところ嫌でした」
「ああ」
「王族であるなら、人間だけを優先するべきだと思っていたのです。母にも、殿下のお考えを改めさせることが、将来の王太子妃としての役目だと言われていました」
レオニスは黙って先を待った。
「ですが……今なら、少しわかる気がします」
マリエッタは沖へ目を向けた。
放流された子アザラシの姿は、もう見えない。
「助けられた命が、また誰かを助けることもあるのですね」
セルキアが大きく頷く。
「私も、殿下に助けてもらいました!」
「ええ。そうでしたわね」
「だから、マリエッタ様を助けました!」
マリエッタは目元を拭い、背筋を伸ばした。
「母には、わたくしから申し上げます。殿下のご活動をやめさせるために、王太子妃を目指すつもりはないと」
「マリエッタ」
「わたくしは、わたくしの意思で、保護院の運営について学びます。王太子妃候補としてではなく、一人の令嬢として、ここで役に立てることを探したいのです」
「歓迎する」
「まずは、会計から学ばせてくださいませ。泳ぎは……もう少し後にいたします」
「一緒に練習しましょう!」
「あなた以外の先生をお願いします」
即答され、セルキアが頬を膨らませる。
レオニスは、二人を見ながら笑った。
誰かを打ち負かしたわけではない。
マリエッタはただ、自分の目で見て、自分の意思で道を選び直した。
帰りの馬車へ乗る前、セルキアがレオニスの前へ立った。
まだ湿った銀色の髪を風に揺らし、小さな胸を張る。
「殿下は、私を助けて幸せにしてくださいました!」
「私は、保護院へ運んだだけだ」
「一人じゃないって言ってくれました!」
レオニスは言葉を止めた。
あの夜、何気なくかけた言葉を、この子はずっと覚えていた。
「ですから、今度は私が殿下を幸せにします!」
五歳児らしい、無邪気な恩返しの宣言。
そう受け止めたはずなのに、胸の奥が不思議なほど温かくなった。
「では、楽しみに待っている」
「お任せください!」
セルキアは力強く頷いた。
その約束を、レオニスは十年後まで待つことになった。
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