第三話 いざ、あざらし幼稚園へ
海辺へ建つ王立海洋動物保護院には、潮と魚の匂いが混ざった風が吹いていた。
門の向こうから、低く甘えるような鳴き声が聞こえる。
母親とはぐれた子アザラシ、漁具で身体を傷つけたアザラシ、衰弱して自力では魚を捕れなくなったアザラシたちが、それぞれのプールで治療を受けている。
馬車を降りたセルキアは、待ちきれない様子で足踏みをしていた。
「走ると転ぶぞ」
「今日は水辺ですから、大丈夫です!」
「陸であることに変わりはない」
レオニスが手を差し出すと、セルキアは嬉しそうに握った。
三人が門をくぐる。
次の瞬間、セルキアはレオニスの手を離し、弾かれたように駆け出した。
「わあ、懐かしいですー!タコニキもご健在なようでー!」
彼女が抱きついたのは、プールの隅へ置かれた、色褪せたタコ型の遊具だった。
「タコニキとは何だ?」
「タコニキは、タコニキです!」
それ以上の説明はないらしい。
職員たちが、不思議そうに顔を見合わせる。
「殿下。あの遊具は、もう十年近く置かれているものですが……」
「セルキアが来たのは初めてのはずだ」
「はい。少なくとも、記録にはありません」
セルキアはタコニキへ別れを告げると、迷うことなく施設の奥へ進んだ。
「こちらが昔の餌場で、向こうが小さい子のプールです!」
「改修前の配置をご存じなのですか?」
「ここで、おさかなをもらっていました!」
職員の顔から笑みが消えた。
五年前まで使われていた餌場は、今では物置へ変わっている。一般には公開されていない場所。
レオニスは、セルキアの小さな背中を見つめた。
やがて、セルキアが一つのプールの前で足を止めた。
端にうずくまった子アザラシが、餌へ見向きもせず、浅い呼吸を繰り返している。
セルキアは柵の内側へ入り、濡れた床へぺたりと腹ばいになった。顔を近づけ、喉の奥から短く鳴き声を上げる。
「くぅん……くぅ」
子アザラシも、弱々しく声を返した。
セルキアは顔を上げる。
「この子、お腹が痛いみたいです」
「昨日から食欲がなく、薬も効かないのです」
「ここです」
セルキアが、自分の腹の少し上を指すと、獣医が診察し、すぐに別室へ運んだ。
しばらくして、胃の中から小さな金属片が見つかったと報告が入る。海へ流れ出た釣具の一部を、魚と一緒に飲み込んだらしい。
「セルキア」
「はい!」
「君は、本当にここにいたのか?」
レオニスが問うと、セルキアは不思議そうに瞬いた。
「最初から、そう言っていますよ?」
「そうだったな」
半信半疑だったものが、胸の中でゆっくりと形を変えていく。
この子は本当に、あの日の白いアザラシなのだ。
マリエッタは、魚の匂いや濡れた床に眉をひそめながら、少し離れた場所へ立っていた。
「わたくし、見学だけでよろしいのですよね」
「無理に触れる必要はない」
「当然ですわ。ドレスが汚れてしまいますもの」
そう答えた直後、小さなアザラシがプールから上がってきた。
まだ身体のあちこちに傷が残っている。濡れた腹を床へつけ、よたよたとマリエッタへ近づいた。
「な、何ですの」
子アザラシは、彼女のドレスの裾をぱくりとくわえた。
「ちょっと。放しなさい!」
マリエッタが裾を引く。しかし、子アザラシは思いのほか強くくわえていて、離れようとしない。
「破れてしまうでしょう!」
「嫌われているのかもしれません!」
「セルキア、余計なことを言わない」
「……なぜ、そこで眠るのですか」
困り果てたマリエッタが、仕方なくその場へしゃがみ込む。
すると子アザラシは裾を放し、彼女の膝へ頭を乗せた。
子アザラシは目を閉じ、満足そうに鼻を鳴らす。
「マリエッタ様のそばが、安心するのだと思います!」
「わたくしは、何もしておりませんわ」
「何もしないで、そばにいてくれるのがいいときもあります!」
セルキアがにこにこと答える。
マリエッタは困ったように子アザラシを見下ろした。やがて、傷へ触れないよう、指先で頭をそっと撫でる。
「……重いですわ」
口ではそう言いながらも、立ち上がろうとはしなかった。
レオニスは二人の傍らへ立った。
「私がここで守りたいのは、動物の命だけではない」
マリエッタが顔を上げる。
「漁網に絡まる海獣が増えれば、網を失う漁師も増える。海へ流れ込んだ金属やごみが魚の体内へ入れば、それを食べる人間にも影響が出る。保護した動物を調べることは、海で何が起きているのかを知る手がかりになる」
「では、あの金属片も……」
「捨てた釣具が、巡り巡って海へ生きるものを傷つけた。原因がわかれば、同じ事故を減らせる」
レオニスは、眠っている子アザラシへ視線を落とした。
「人か動物か、どちらかだけを選んでいるわけではない。同じ海で暮らす命を、まとめて守ろうとしているんだ」
マリエッタは何も答えなかった。
ただ、膝へ頭を乗せた子アザラシを、先ほどよりもゆっくり撫でている。
そのとき、数羽のカモメが頭上を旋回し始めた。
餌を運ぶ職員の魚籠へ狙いを定め、甲高い声を上げる。
セルキアは素早く魚籠へ覆いかぶさった。
「これは園児たちのお昼です!あげません!」
「君も食べてはいけないぞ」
「うっ……一匹くらいなら……」
「駄目だ」
「はぁい……」
しょんぼりと肩を落とすセルキアに、職員たちから笑いが漏れた。
「殿下。この子は、いつまでこちらへ?」
マリエッタが、自分の膝で眠る子アザラシを見ながら尋ねる。
「傷はほぼ治っている。自分で魚を捕れるようになれば、海へ帰す予定だ」
「帰してしまいますの?」
「ここは、帰るための場所だからな」
マリエッタの指が止まる。
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