第二話 泳ぎなら負けませんよ!
あの日以来、セルキアは恩返しをすると宣言し、王宮へ頻繁に通うようになった。
もっとも、その恩返しは、レオニスの手を煩わせることのほうが多い。
「殿下、書類をお持ちします!」
「セルキア。それは重いから――」
止める間もなく、セルキアは書類の束を抱え上げた。
前が見えなくなり、三歩目で足をもつれさせる。紙が廊下いっぱいに舞った。
セルキアは床に座り込み、耳を垂らした獣のように肩を落とす。
「陸の上は、まだ不慣れなのです……」
「歩き始めて数年になるだろう」
「海の中なら、もっと上手に運べます!」
「書類を濡らすつもりか?」
「それは困りますね!」
自分で言って、自分で納得している。
レオニスは膝をつき、散らばった紙を拾った。
「一度に全部持とうとする必要はない。三枚ずつ運べばいい」
「三枚なら、落としません!」
「まずは一枚にしよう」
「はい!」
庭を歩けば、池を見つけるたびに足を止める。
「殿下。とても良い水面をしています」
「泳ぐな」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
食堂で魚料理が出れば、大きな瞳がさらに丸くなる。
「新鮮なおさかなの匂いがします!」
「ナイフとフォークを使いなさい」
「丸呑みなら、洗い物が減ります!」
「王家は洗い物のために君の喉を危険にさらさない」
「殿下、おやさしい!」
「褒めている場合ではない」
極めつけは、庭園の池に一羽の鷺が降り立ったときだった。
セルキアは足を止めた。
先ほどまで楽しげに喋っていた口を閉ざし、無言のままレオニスの背後へ隠れる。白い外套の裾だけが、彼の脚の横から覗いた。
「泳ぎなら負けないのではなかったか?」
「水の中ならです」
「鷺は泳いでいないぞ」
「だから困っているのです……」
背後から、くぐもった声がする。
レオニスが笑いを堪えていると、廊下へ続く扉が開いた。
「レオニス様。少しよろしいでしょうか」
現れたのは、マリエッタ侯爵令嬢だった。
十歳にして三か国語を操り、王妃からも礼儀作法を褒められている妃候補の一人。
淡い金色の髪を美しく結い上げ、年齢以上に大人びたドレスを着ている。背後へ隠れたセルキアを見た途端、その眉間へうっすら皺が寄った。
「また、その方ですの?」
「セルキアだ」
「存じておりますわ」
マリエッタはレオニスの前へ進み、背後を覗き込んだ。
セルキアも鷺がいなくなったことを確認し、そろそろと姿を現す。
「あなた、王宮へ来るたびに殿下へまとわりついておりますわね」
「恩返しをしています!」
「書類を散らかし、池へ飛び込もうとすることが恩返しなのですか?」
「まだ池には飛び込んでいません!」
「飛び込もうとはしたのですね」
セルキアは言葉に詰まり、レオニスを見上げた。
助けを求める黒い瞳が、うるうると揺れる。
「私を見るな。マリエッタの言うとおりだ」
「殿下まで……」
しょんぼりするセルキアを見て、マリエッタは少しだけ胸を張った。
「あざらしだなんて、おかしいではありませんか。そのような方が、王太子妃になれるはずがありませんわ!」
「そうなのですか?」
「当然です。王太子妃には、高い教養と作法が必要なのです。わたくしは三か国語を話せますのよ」
「私は、おさかなの匂いが遠くからわかります!」
「張り合える能力ではありません!」
「泳ぎなら負けませんよ!」
「なぜ泳ぎで決めるのですか!」
マリエッタの声が庭園へ響いた。
セルキアは本当に理解できないらしく、首を傾げている。
「レオニス様からも、何とかおっしゃってくださいませ」
「マリエッタの語学力は、いずれ外交の場で役立つだろう」
「そうでしょう?」
「セルキアの嗅覚も、遭難者や傷ついた動物の捜索に使えるかもしれない」
「殿下まで同じ土俵へ載せないでください!」
「長所を比較する必要はない。どちらも違う形で役に立つ」
マリエッタは唇を引き結んだ。
「殿下は、いつもそうですわ。動物のことになると、王族として何を優先すべきかをお忘れになります」
「忘れたことはない」
「人間のために使えるお金を、獣へ使うことの、どこが王族の務めなのですか」
会議室で聞いたものと同じ言葉だった。
ただし、マリエッタの声には、貴族たちのような嘲りはない。
教えられてきたことを、正しいと信じているだけなのだろう。
「マリエッタ。セルキア。二人とも、私と一緒に来てほしい場所がある」
「どちらへ?」
「王立海洋動物保護院だ」
セルキアの顔がぱっと輝く。
「あざらし幼稚園ですか!」
「……あざらし幼稚園?」
「保護されたアザラシの赤ちゃんが、たくさんいるところです!みんなでぷかぷかするのが得意です!」
セルキアが両手を広げ、身体を左右へ揺らす。
「誰がそう呼んでいるんだ?」
「みんないってましたよ?」
「君だけではないのか」
「違います!お友達もです!」
マリエッタは、これから汚れ仕事へでも連れていかれるように顔をしかめていた。
「実際にその目で見て、それでも王族に不要な活動だと思うのなら、改めて聞こう」
「よろしいですわ。きっと、わたくしの考えが正しいとおわかりになります」
「あざらし幼稚園!」
セルキアだけが、飛び跳ねながら喜んでいた。
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