第一話 あの時、助けていただいたアザラシです!
王宮の会議室には、ぴりついた空気が満ちていた。
初老の伯爵が、書類を机へ叩きつけるように置く。
「王太子殿下。王立海洋動物保護院への予算が、また増額されているとの報告を受けました」
「人間の孤児院や貧民救済院への予算すら十分ではないというのに、なぜ獣にこれほどの金をかけるのですか」
周囲の貴族たちも、次々と頷いた。
レオニスは、まだ十二歳。
玉座に就くにはあまりに若く、大人たちの目には、動物好きが高じて道楽へ走った少年としか映っていない。
「保護院の活動は、単なる慈善ではありません。傷ついた海獣を保護し、継続的に記録を取ることで、海の生態の変化がわかります。漁獲量の減少や、漁網に海獣が絡まる事故の原因究明にもつながっている。漁師たちの生活を守るための調査でもあるのです」
レオニスは静かに、しかし怯まず答えた。
理路整然とした説明だったが、貴族たちの表情は変わらない。
若さゆえの理想論。
そう切り捨てる視線が、会議室のあちこちから突き刺さる。
「殿下のお気持ちはご立派です。しかし、まずは玉座にふさわしい振る舞いを学ばれてはいかがか」
結局、予算案は結論を持ち越された。
重い扉を閉じ、レオニスが廊下へ出る。背後から聞こえる貴族たちの低い声が、厚い扉越しにも耳へ残った。
理想だけでは、国は動かせない。
わかっている。
だから数字も、記録も、結果も揃えてきた。それでも彼らは、内容ではなく十二歳の少年が語っているという一点だけで、耳を閉ざす。
知らず、レオニスの足取りは重くなっていた。
「レオニス様!」
明るい声が廊下に響いた。
振り返ると、海辺の領地を治めるフォーシール公爵が、小さな令嬢の手を引いて歩いてくるところだった。
銀色のふわふわとした髪に、黒く潤んだ大きな瞳。年の頃は五つほどだろうか。白い毛皮をあしらった淡い水色の外套に、小さな身体がふっくらと包まれている。
「これはフォーシール公。ご無沙汰しております」
「殿下。実は今日は、娘のセルキアがどうしても殿下にご挨拶したいと申しまして……」
公爵が言い終えるより早く、少女は彼の手を離した。
短い足でとことこと駆け寄り、レオニスを見上げる。
「あの時、助けていただいたアザラシです!」
レオニスは固まった。
聞き間違いかと思ったが、セルキアは満面の笑みを浮かべている。
「……アザラシ?」
「はい!」
五年前。
七歳だったレオニスは、視察に訪れた海岸で、漁網に絡まって身動きが取れなくなっている白い子アザラシを見つけた。
日が落ちかけた海岸には、冷たい風が吹いていた。
子アザラシは濡れた身体を震わせ、黒い瞳でレオニスを見つめていた。声を上げる力すら残っていない。
レオニスは自分の外套を脱ぎ、漁網を解いた。外套の裏地に使われていた青い布を裂き、傷口へ巻いた。小さな身体を抱き上げ、そのまま保護院まで運んだ。
あの夜の重さと冷たさを、今でも覚えている。
だが、目の前にいるのは、どこからどう見ても公爵家の令嬢だった。
「……何か、証拠はあるのか?」
我ながら間抜けな質問だと思った。
それでも、聞かずにはいられなかった。
セルキアは待っていましたとばかりに胸を張る。
「泳ぎが得意です!」
「人間でも泳げる」
「おさかな、丸呑みいけます!」
「それは今後やめなさい」
「はぁい!」
あまりにも素直に頷くので、レオニスは笑いそうになった。
しかし、セルキアはすぐに続ける。
「あのとき、青い布を巻いてくれました。それから、『大丈夫、もう独りじゃない』って言ってくれました」
レオニスの喉が詰まった。
誰にも話したことのない記憶だった。
あの夜、誰もいない浜辺で、震える子アザラシへ囁いただけの言葉。
侍従にも、保護院の職員にも伝えていない。
「フォーシール公。これは、どういうことですか」
公爵は困ったように眉を下げた。
「五年前、殿下が保護院へ運ばれた白い子アザラシが、治療の翌朝に姿を消したことはご存じでしょうか」
「ああ。柵が壊された形跡もなく、海へ戻ったのだろうと報告を受けた」
「同じ朝、我が領の浜辺で、青い布に包まれた赤子が見つかりました。その赤子が、セルキアです」
「この子が……」
「子に恵まれなかった私ども夫婦は、この子を娘として迎えました。言葉を覚えた頃から、自分はアザラシであり、レオニス殿下に助けられたのだと申しておりまして」
セルキアが、レオニスの手を握った。
「冷たいお手てです」
小さく丸い手は、驚くほど温かかった。
「私を抱きしめると温かいですよ! 元アザラシなので!」
実際には、五歳児特有の高い体温がそう感じさせているだけだろう。
それでもレオニスは、思わずセルキアを抱き上げていた。
ふわふわした髪が顎の下へ触れ、石鹸と潮風を混ぜたような匂いがする。
「……確かに、温かいな」
「元アザラシですから!」
得意げに胸を張るセルキアを腕に抱いたまま、レオニスはその瞳を見つめた。
黒く、少し潤んだ、大きな瞳。
五年前、漁網の中で怯えていた子アザラシも、こんな瞳をしていた。
会議で塞がれていた胸の奥へ、柔らかな灯がともる。
「殿下。セルキアを下ろして差し上げたほうが……」
公爵が遠慮がちに声をかける。
「嫌です!まだ殿下が冷たいです!」
「そうか。では、もう少し頼む」
「お任せください!」
セルキアはレオニスの首へしがみついた。
小さな身体から伝わる熱に、張り詰めていた肩の力が抜けた。
この子が本当に、あの日のアザラシなのか。
レオニスには、まだわからなかった。
ただ、どちらでも構わない気がしていた。
あの日助けた命が、こうして笑っている。
今は、それでよかった。
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