第3話 勇者ディーン
意識が戻ったとき、俺は冷たい石の床に横たわっていた。
「……うっ」
小さく呻きながら身体を起こすと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
周囲を見渡してみるが、窓らしきものは見当たらず、壁も天井も灰色の石で造られている。部屋はそれほど広くなく、家具も何も置かれていなかった。
そして何より目を引いたのは、床いっぱいに描かれた巨大な魔法陣だった。
幾重にも重なった円の内側には、見たこともない文字や複雑な紋様が刻まれており、そのすべてが不気味な紫色の光を放っている。
部屋には照明が一切ないというのに、魔法陣から立ち上る淡い光のおかげで、壁の細かな凹凸まで見て取れた。
「……ここが異世界、なのか?」
女神との会話を思い出し、俺は自分の両手に目を落とした。
見慣れた手ではなかった。
指は以前よりも長く、手のひらには硬い皮膚ができている。袖口から覗く腕も明らかに太く、服の上からでも鍛え上げられた筋肉の存在がわかった。
身につけているのは、見覚えのない革製の衣服と金属の防具だ。
どうやら、本当に別人の身体になってしまったらしい。
「……まいったな」
思わずため息が漏れる。
すると、部屋の外から金属の擦れるような音が聞こえてきた。
重々しい音とともに扉が開き、鎧を身につけた男が2人、室内へ入ってくる。
どちらも腰に剣を下げており、その表情には愛想の欠片もなかった。
「勇者ディーン。目覚めたか」
先頭の兵士が、俺の顔を確認するなり声をかけてきた。
どうやら、ディーンというのが元の勇者の名前らしい。
「ああ……」
「陛下がお待ちだ。ついてこい」
兵士はそれだけ告げると、踵を返して扉へ向かった。
俺は慌てて立ち上がり、その後ろについていく。
ここで下手なことを口走って、別人だと気づかれては面倒だ。
とにかく余計なことは喋らず、相手の指示に従っておこう。
部屋を出ると、そこには長い石造りの廊下が続いていた。
壁には一定の間隔で燭台が取り付けられ、揺らめく炎が薄暗い通路を照らしている。
歩くたびに兵士たちの鎧が擦れ、硬い靴音が石床に響いた。
途中、何人かの使用人らしき人々とすれ違ったが、彼らは俺の姿を見るなり視線を伏せ、足早に通り過ぎていった。
……なんだか、歓迎されている雰囲気じゃないな。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて目の前に大きな両開きの扉が現れた。
扉の両脇には槍を持った兵士が立っており、俺たちの姿を確認すると、無言で扉を押し開いた。
その先に広がっていたのは、これまでの薄暗い廊下とは対照的な、豪華絢爛な大広間だった。
高い天井からは巨大なシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた石床には赤い絨毯が真っすぐに敷かれている。
左右には鎧姿の兵士たちが整列し、その奥には一段高くなった場所に置かれた玉座が見えた。
そこに座っていたのは、立派な髭を蓄えた初老の男だった。
金糸の刺繍が施された豪奢な衣装をまとい、頭には宝石の埋め込まれた王冠を載せている。
見るからに、この国の王様といったなりだ。
「勇者ディーンをお連れしました」
先導していた兵士が声を張り上げると、玉座の男がゆっくりと顔を上げた。
その鋭い視線が、まっすぐに俺へ向けられる。
「膝をつけ」
背後の兵士に促され、俺は慌てて片膝をついた。
王様に対する礼儀作法なんて知るはずもないが、とりあえず周囲の様子に合わせておけば問題ないだろう。
しばらくの沈黙のあと、玉座から低い声が響いた。
「勇者ディーンよ。何度死ねば魔王を討てるのだ」
「……申し訳ございません」
反射的に謝罪の言葉が口をついた。
もちろん、俺には何の心当たりもない。
だが、ここで事情を説明したところで、信じてもらえるとは思えなかった。
王は不機嫌そうに眉を寄せ、玉座の肘掛けを指先で叩いた。
「まったく……。そなたには王国の威信がかかっておるというのに、いつまで民を待たせるつもりだ」
俺は何も答えず、ただ頭を下げ続けた。
「まあよい。すぐにまた魔族領へ向かうのだ。早く魔王を討伐せんことには、民も安心して暮らせんからな」
「……承知しました」
「今度こそ、よい報せを期待しておるぞ」
その言葉を最後に、王は興味を失ったように視線を逸らした。
兵士に促されて立ち上がり、俺は再び長い廊下を歩き始める。
結局、王との謁見はそれだけで終わった。
何度も死んでいるはずの勇者に対して、怪我の具合を尋ねることもなければ、休息を与えようという素振りもない。
ただ、もう一度魔王を倒しに行けと命じるだけ。
……女神の話は本当だったんだな。
俺は改めて、この世界の勇者という仕事の異常さを実感していた。
◇◇◇
城の外へ出ると、眩しい日差しが目に飛び込んできた。
思わず目を細めながら顔を上げると、頭上には雲一つない青空が広がっている。
振り返れば、白い石壁に囲まれた巨大な王城がそびえ立ち、その周囲には美しく整備された庭園が広がっていた。
「……何とかやり過ごせたな」
俺は小さく息を吐いた。
とりあえず、別人だと疑われることなく城から出られたらしい。
あとは適当なところで姿をくらませばいい。
魔王討伐なんて危険な仕事を引き受けるつもりは、最初から毛頭なかった。
城門を抜け、そのまま大通りを歩いていく。
街には石造りや木造の建物が立ち並び、通りの両側には商店が軒を連ねていた。
露店からは焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、荷馬車を引く商人や買い物客たちが忙しそうに行き交っている。
日本とは違う、まるで中世ヨーロッパのような街並みに、思わず視線を奪われた。
本当に異世界へ来たんだな。
そう実感すると同時に、これからどうやって生活していこうかと考え始める。
まずは金を稼ぐ手段を探さないといけない。
幸い、勇者の身体はかなり強いらしいし、元々勇者の持つスキルや女神が言っていた《変化》というスキルもある。
詳細は分からないけど、使い方次第では、案外どうにかなるかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていたのだが、しばらくすると妙なことに気づいた。
……なんだ?
すれ違う人々が、ちらちらとこちらを見ている。
最初は珍しい服装でもしているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
露店の店主が俺を見つけて顔をしかめ、買い物中の女性が隣の男に何かを耳打ちする。
道端で立ち話をしていた老人たちも、こちらへ視線を向けるなり、あからさまに表情を曇らせた。
……もしかして、勇者だと気づかれているのか?
そう考えた直後だった。
「おい! 勇者!」
突然、通りの脇から怒鳴り声が飛んできた。
振り向くと、作業着姿の中年男がこちらを睨みつけていた。
「いつになったら魔王を倒すんだよ!」
「……え?」
思わず足を止める。
すると、今度は近くにいた恰幅のいい女性が、買い物籠を抱えたまま声を上げた。
「前回の勇者様は4回目で倒したのよ。それをあなた、もう何度目なの?!」
「いや、それは……」
何と答えればいいのかわからず、言葉に詰まる。
だが、周囲の人々はそんな俺の様子など気にも留めなかった。
「ちんたら歩いてないで、走って魔族領まで行ってこい!」
「そうだそうだ! また負けて帰ってきたのか!」
「勇者なんだから、さっさと魔王を倒してくれよ!」
次々と浴びせられる罵声に、俺は呆然と立ち尽くした。
通りを行き交う人々の中には、気まずそうに目を逸らす者もいたが、誰も彼らを止めようとはしない。
まるで、勇者が責められるのは当然だとでもいうように。
……なるほど。
俺はようやく理解した。
この世界における勇者とは、人々から尊敬され、感謝される英雄などではない。
魔王を倒すために戦い、たとえ死んでも蘇って、再び戦場へ向かうことを求められる奴隷のような存在なのだ。
どれだけ傷つこうが、何度命を落とそうが、そんなことは関係ない。
魔王を倒せなければ、ただ責められるだけ。
……冗談じゃない。
俺は口元が引きつりそうになるのを堪えながら、再び歩き始めた。
学生時代から必死に努力して、ようやく手に入れたホワイト企業での生活。
それを失っただけでも十分すぎるほど不幸だというのに、次の人生で、まさかこんなブラックな仕事を押しつけられるなんて。
――絶対に御免だ。
何を言われようと、俺は勇者なんてやらない。
そう心に決めながら、俺は周囲の視線を振り切るように大通りを歩き続けた。




