第2話 入れ替わり
「……は?」
思わず間の抜けた声を漏らした俺に、目の前の美女はようやく雑誌から顔を上げた。
長い銀髪が肩から滑り落ち、宝石のように澄んだ青い瞳がこちらへ向けられる。
その整いすぎた顔立ちに一瞬見惚れそうになったが、次の瞬間、彼女の眉間には深い皺が刻まれた。
「……あれ?」
女性は手に持っていたポテトチップスを口へ運ぶのも忘れ、まじまじと俺の顔を見つめている。
「……あんた、誰?」
「いや、それはこっちの台詞なんですけど」
いきなり勇者だの何だのと言われた挙げ句、今度は誰だと尋ねられても困る。
俺が戸惑っていると、女性は面倒くさそうに身体を起こし、膝の上に雑誌を置いた。
「ちょっと待って。どういうこと?」
彼女が片手を軽く振ると、目の前の空間に半透明の板のようなものが現れた。
そこには見たこともない文字や図形が浮かんでおり、女性はそれらを目で追いながら、時折指先を動かしている。
やがて、その表情が驚愕に変わった。
「えっ! なにこれ! あのメンタル雑魚勇者の精神、死んじゃってんじゃん!」
「……はい?」
「うわぁ……これ、完全に空っぽじゃない。あれだけ死にまくってたら、そりゃそうなるか……」
女性は頭を抱えると、クッションに背中を預けて天井もない白い空間を仰いだ。
「最悪……。また面倒なことになったわね」
「すみません。さっきから何の話をしているんですか?」
「ああ、そうよね。あんたには何もわからないわよね」
彼女は大きくため息をつき、こちらへ向き直った。
「まず、私は女神。主に輪廻から外れた魂を、正しい流れに戻す仕事をしているの」
「……女神?」
改めて彼女の姿を見る。
確かに、その容姿だけなら女神と呼ばれても納得できる。
ただ、赤いクッションに埋もれながらポテトチップスを食べている姿は、休日のだらしない大学生にしか見えなかった。
「で、あんたは本来ここに来るはずのない魂なのよ」
「どういうことですか?」
「簡単に言えば、別の世界で死んだあんたの魂が、こっちの世界に引っ張られちゃったってこと」
「……別の世界?」
「そう。あんたがいた世界とは違う、魔法や魔物が存在する世界よ」
女神はそう言うと、宙に浮かぶ板を指先で軽く叩いた。
「その世界では、人族と魔族が長いこと争っているの。魔族は何度も人族の領土に攻め込んでいて、そのたびに人族は勇者を立てて対抗してきたわ」
「勇者って、さっき言っていた……?」
「そう。その勇者よ。ただし、あんたの世界でいう物語の勇者とは、ちょっと事情が違うんだけどね」
女神というだけのことはあって、違う世界の娯楽にも詳しいようだ。いや、今も膝の上に置いてある漫画雑誌から得た知識なのかもしれないが。
女神はサイドテーブルのペットボトルを手に取り、炭酸飲料を一口飲んだ。
「人族は昔、魔王を確実に倒すために、とんでもない呪いを生み出したの」
「呪い?」
「《輪廻の呪い》。魔王を倒すまで、勇者が何度死んでも蘇り続けるっていう代物よ」
「……は?」
思わず聞き返してしまった。
「つまり、勇者は死なないってことですか?」
「死ぬわよ。普通に。剣で刺されれば死ぬし、首を落とされても死ぬ。魔法で焼かれたって当然死ぬわ」
女神は何でもないことのように言葉を続ける。
「ただ、死んでも魂が輪廻に戻れないの。呪いが勇者の魂を引き戻して、肉体を再構築するからね」
「……それって」
「そう。魔王を倒すまで、何度でも死ぬことになるのよ」
背筋がぞくりとした。
死んでも生き返る。
言葉だけなら便利な能力に聞こえるかもしれないが、死ぬときの苦痛までなくなるわけではないだろう。
そんなものを何度も繰り返すなんて、正気でいられるはずがない。
「それで、今回の勇者は何度も死にすぎて、とうとう精神が壊れちゃったみたいね」
「……精神が?」
「ええ。肉体は呪いで再構築できても、魂の方はもう限界だったんでしょうね。完全に中身がなくなっちゃってるわ」
女神は宙に浮かぶ板へ視線を戻し、難しい顔で腕を組んだ。
「多分、《輪廻の呪い》のバグね。本来なら勇者の魂を引き戻すはずが、別の世界でちょうど同じタイミングで死んだあんたの魂を間違って捕まえちゃったんだと思う」
「……ちょっと待ってください」
俺は額に手を当てた。
話があまりにも突拍子もなく、頭が追いつかない。
だが、彼女の説明が正しいとすれば、俺は交通事故で死んでしまったということになる。
そして、これから別の世界の勇者として生き返る、ということなのだろうか。
「つまり俺は、その勇者の代わりになるってことですか?」
「そういうこと。呪いはもうあんたの魂に結びついちゃってるから、今さらどうしようもないわね」
「……それ、拒否することって……?」
できれば、もっと平和な人生を送りたい。
せっかくブラック企業を避けるために努力してきたというのに、死んだ先でまで過酷な労働を押しつけられるなんて冗談じゃない。
しかし、女神は俺の期待をあっさりと打ち砕いた。
「それは私じゃなくて、向こうの人族に聞いてよ。私は魂を導くのが仕事なだけで、《輪廻の呪い》みたいな特殊な魂が輪廻の輪に入り込んで、エラーを起こさないようにしてるだけなんだから」
「……女神とは名ばかりだな」
「なにか言った?」
「いえ、何も」
じろりと睨まれ、俺は慌てて首を振った。
どうやら、これ以上この女神に頼っても状況は変わらないようだ。
「まあ、勇者の身体自体はかなり強いわよ。レベルも59まで上がってるし、使えるスキルもそれなりに揃ってるから」
「レベル?」
「そう。あっちの世界では、人や魔物の強さをレベルで表すの。勇者の身体には《光魔法》《聖剣召喚》《身体強化》《治癒》のスキルが残っているわね」
「……なんだかゲームみたいですね」
「実際、あんたの世界のゲームに似ている部分は多いと思うわよ。ああ、それと、あんた自身の魂にも《変化》っていうスキルがあるみたいね」
「変化、ですか?」
「そう。まあ詳しくは向こうについたらステータスを開くといいわ」
「ステータス?」
「そう。ただ『ステータス』と言葉にするだけで、あなたの世界でいうゲームのウィンドウみたいなのが出てくるから」
「……まじでファンタジーな世界なんですね」
剣と魔法に、レベルやスキル。
まるでゲームの中に入り込むような話だ。
もっとも、俺がこれから背負わされるらしい勇者の仕事は、ゲームのように気軽に楽しめるものではなさそうだが。
「それじゃあ、そろそろ始まるわね」
女神は宙に浮かんでいた板を消すと、再びクッションに身体を沈めた。
「始まるって、何がですか?」
「向こうの世界で勇者の身体の再構築が完了すれば、あんたの魂が、元の勇者の魂の代わりにその身体へ引き寄せられるのよ」
「……どうして、俺がこんな目に」
思わず肩を落とす。
子供を助けようとして命を落としたことに後悔はない。
少なくとも、あの2人が無事だったのなら、それでよかったと思う。
だが、だからといって、死んだあとにこんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかった。
善行をしたのに天国ではなく、生き地獄に送られるなんて。
「まあ、運が悪かったと諦めるのね」
女神はあっけらかんと言い放つと、ふと思いついたように顎へ指を当てた。
「けど、どうせ死んじゃったんだし、もう1回生きられてラッキーって思ったら? まあ、1回で済むとは思わない方がいいでしょうけど」
「……俺、絶対に勇者なんてしませんからね」
魔王討伐など、どう考えても命懸けの仕事だ。
しかも、失敗して死んだところで退職することすら許されない。
そんなもの、ブラック企業どころの話ではないだろう。
俺は平和に、できれば毎日定時で帰れるような生活を送りたいだけなのだ。
すると、女神は俺の言葉に興味がないのか、再び雑誌を手に取った。
「はいはい。好きにすればいいんじゃない?」
「……本当に適当ですね、あなた」
「だって、私には関係ないもの」
あまりにも無責任な返答に、思わず言い返そうとした、そのときだった。
「うわっ!?」
突然、背中を何かに掴まれたような感覚が走った。
身体がぐいぐいと後方へ引っ張られ、足元の白い床が遠ざかっていく。
慌てて踏ん張ろうとするが、そもそも足が地面についている感覚すらなくなっていた。
「ちょっ、何ですかこれ!?」
「ああ、身体の再構築が終わったみたいね」
女神は雑誌から顔を上げると、こちらへひらひらと手を振った。
「まあ、せいぜい頑張るのね」
「いや、だから俺は勇者なんて――!」
最後まで言い終えることはできなかった。
背後から引っ張られる力が一気に強まり、目の前に広がっていた白い景色が急速に遠ざかっていく。
そして、女神の気の抜けた声を最後に、俺の意識は再び暗転した。




