第1話 定時退社と突然の死
俺、藤宮護は今日も定時きっかりに仕事を切り上げ、早々に帰路に着いていた。
定時退社。
なんと素晴らしい響きだろうか。
世の中には、日付が変わるまで残業を強いられたり、休日にもかかわらず出勤を命じられたりする会社が存在するらしい。
中には、定時で帰ろうとしただけで上司から嫌味を言われる職場まであるという。
まったくもって恐ろしい話だ。
その点、俺が勤める会社は素晴らしい。
残業はほとんどなく、有給休暇も気兼ねなく取得できる。給料だって同年代の平均より少し高く、福利厚生も充実している。
何より、上司が率先して定時で帰るのだから、部下である俺たちも遠慮する必要がない。
まさに理想の職場といえた。
もっとも、この環境を手に入れるためには、それなりの努力をしてきた。
高校時代は遊びたい気持ちを抑えて勉強に励み、そこそこ偏差値の高い大学へ進学。大学に入ってからも成績を維持しながら、早い段階で企業研究やインターンに取り組んだ。
就職活動では給与や待遇だけでなく、平均残業時間や有給取得率、離職率まで徹底的に調べ上げたものだ。
すべては、将来の自分が快適な生活を送るため。
その努力が実を結び、第一志望だった企業から内定をもらえたときは、思わず一人でガッツポーズをしたのを覚えている。
あれから3年。
25歳になった今も、俺はこの会社に就職できたことを心から幸運だと思っていた。
「さて、今日は何を食べようかな」
駅前の通りを歩きながら、夕食の献立に思いを巡らせる。
時刻は午後5時半を少し回ったところ。
秋も深まり、日が落ちるのが随分と早くなってきた。街灯が灯り始めた歩道には、仕事帰りの会社員もいるが買い物袋を提げた主婦や制服姿の学生たちの方がまだ目立つ。
少し冷たい風が頬を撫で、俺はスーツの上着の前を軽く合わせた。昼間はまだ暖かいが、日が落ちてくると気温はぐっと下がる。来週にはインナーを夏用から変えてもいいかもしれない。
今日は金曜日。
明日からは待ちに待った週末だ。
帰りにスーパーへ寄って、少し高めの肉でも買おうか。久しぶりに外食をするのも悪くない。
そんなことを考えながら歩いていると、前方の交差点で子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
「待てよー!」
「やだねー!」
小学校低学年くらいだろうか。
ランドセルを背負った男の子が2人、互いに笑いながら歩道を駆け回っている。
学校帰りというには遅い時間だし、どこかで遊んだ帰りなのだろう。
俺にもあんな時代があったな、などと少し懐かしい気持ちになりながら、その横を通り過ぎようとした。
そのときだった。
「こっちだ!」
先を走っていた男の子が、勢いよく横断歩道へ飛び出した。
追いかけていたもう1人も、何のためらいもなくその後に続く。
「……え?」
思わず足が止まった。
横断歩道の信号は赤。
そして交差点の左側からは、大きなトラックが迫っていた。
運転手も子供たちに気づいたのだろう。けたたましいクラクションが鳴り響き、タイヤが路面を擦る甲高い音が辺りに響き渡る。
しかし、トラックの速度は十分に落ちていない。
子供たちは突然の音に驚いたのか、横断歩道の真ん中で立ちすくんでいた。
「危ない!」
気づいたときには、俺の身体は動いていた。
手に持っていた鞄を放り出し、全力で地面を蹴る。
普段から運動をしているわけでもない俺の足が、こんなにも速く動いたのは初めてかもしれない。
必死に腕を伸ばし、2人の子供の背中をまとめて突き飛ばした。
小さな身体が前方へ投げ出され、横断歩道の向こう側へと転がっていく。
その姿を確認した瞬間、胸の奥に安堵が広がった。
よかった。
間に合った。
だが、俺自身はまだ車道の真ん中にいた。
視界の端いっぱいに、巨大なトラックの車体が迫っている。
逃げなければ。
そう思って足を動かそうとしたが、もう遅かった。
全身を凄まじい衝撃が襲い、足元の感覚が消える。
身体が宙に浮いたような奇妙な感覚のあと、視界が激しく回転した。
そして、何かに叩きつけられたところで、俺の意識は途切れた。
◇ ◇ ◇
「…………ん?」
目を開けると、そこには真っ白な景色が広がっていた。
天井も壁も見当たらず、どこまで続いているのかもわからない。足元には確かに床のような感触があるものの、見下ろしても周囲と同じ白一色だった。
「……どこだ、ここ?」
思わず呟いた声が、妙にはっきりと耳に届く。
俺はゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡した。
見覚えのない場所だった。
病院だろうか。
いや、いくらなんでもこんな病室があるはずがない。
そもそも、ベッドすら見当たらないのだ。
「確か、俺は……」
記憶を辿る。
仕事を終えて、いつもの道を歩いていた。
交差点で子供たちが飛び出して、それを助けようとして……。
そこまで思い出したところで、背筋に冷たいものが走った。
「……トラック」
そうだ。
俺はトラックに轢かれたはずだ。
それを思い出すや否や俺は慌てて自分の身体を確認する。
腕も脚もちゃんとついているし、スーツにも乱れはない。あれほどの衝撃を受けたはずなのに、痛みどころか傷一つ見当たらなかった。
「どういうことだよ……」
夢でも見ているのだろうか。
それとも、まさか本当に死んでしまったのか。
そんな考えが頭をよぎったとき、不意に背後から小さな物音が聞こえてきた。
パリッ。パラ。
何かを噛み砕くような、乾いた音。
続いて、紙が擦れるような音もする。
「……?」
こんな場所に、俺以外の誰かがいるのか。
恐る恐る振り返った俺は、そこで思わず目を見開いた。
そこにいたのは、絶世の美女と呼んでも差し支えないほど美しい女性だった。
腰まで伸びた艶やかな銀髪に、透き通るような白い肌。すっと通った鼻筋と形のいい唇は、まるで精巧な彫刻のように整っている。
ゆったりとした白い衣装を身にまとったその姿は、神聖という言葉がよく似合っていた。
ただし、首から上だけを見れば、の話だが。
女性はこの真っ白な空間にはあまりにも不釣り合いな、真っ赤な人をダメにするクッションに身体を深々と埋めていた。
片手には見覚えのある週刊漫画雑誌。
その傍らには小さなサイドテーブルが置かれ、封の開いたポテトチップスの袋と、飲みかけらしい炭酸飲料のペットボトルが並んでいる。
女性は雑誌のページをめくりながら、もう片方の手を袋へ突っ込み、取り出したポテトチップスを口へ運んだ。
パリパリと軽快な音が響く。
……なんだ、この状況は。
あまりにも場違いな光景に、俺は声をかけることすら忘れて立ち尽くした。
すると、女性は雑誌から顔を上げることもなく、気の抜けた声でこう言った。
「おぉ、勇者よー。また死んでしまうとは嘆かわしいー。再びそなたに戦える力を与えよぅ」
「……は?」




