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月夜猫

その日は珍しく、朝からよく晴れていた。梅雨の合間にだけ奇跡のように訪れる、透き通った青空だった。


空に浮かぶ雲は刷毛で掃いたように薄く、通り抜ける風は初夏の薫りを孕んでやわらかい。ゆらは駅前から続く、いつもより少し賑やかな商店街を歩いていた。その右手には、白いレースの可憐な日傘。


日差しは肌を焦がすほど強くはないのに、わざわざクローゼットの奥から持ち出したのは、自分でも何となくだった。


雨の日には、世界を隔てるための雨傘を差す。晴れの日には、光を和らげるための日傘を差す。そうして布一枚の屋根を自分の頭上に広げていると、不意な緊張から心が少しだけ落ち着くような気がするのだ。


今日の目的地は、いつもの胡蝶雲憩ではない。ゆらは先日、雨の喫茶店で詩音に誘われた場所へと向かっていた。古本屋――月夜猫。


名前だけは、以前からキリコさんとの会話の中で聞いていた。店主である詩音自身が、何日も悩んで考え抜いた名前らしい。


古本屋らしい静けさを持つと同時に、どこか童話のページから飛び出してきたかのような、不思議な愛嬌のある響きだった。


活気のある商店街のアーケードを抜け、閑静な住宅街へと足を踏み入れる。細い路地をしばらく歩き進めると、緑豊かな生垣の傍らに、小さな木製の看板がひっそりと佇んでいるのが見えてきた。


そこには、満月を優しく抱きしめるように丸まった、一匹の黒猫の絵。その愛らしいイラストの下に、流れるような飾り文字で、――月夜猫と、慎重に書かれていた。


ゆらはそれを見た瞬間、胸の奥から込み上げる温かなものに思わず笑みをこぼした。


「本当に……『月夜猫』だ」


想像していたよりもずっと可愛らしく、お伽話の入り口のようで、胸の鼓動が少しだけ速くなる。


木製の重みのある扉をそっと押し開けると、チリン、と繊細で小さな真鍮のベルが鳴った。店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしい古い紙の匂いと、微かな木肌の香りがゆらを迎えた。


床から天井近くまで整然と並ぶ焦げ茶色の本棚。その隙間を縫うように、窓辺には青々とした観葉植物の鉢がいくつか置かれている。


窓から差し込む斜めの木漏れ日が、波打つように古い木の床へ落ち、黄金色の斑模様を作っていた。そして、店の最奥にある小さなカウンターから、耳に心地よいあの声が届いた。


「いらっしゃいませ」


いつも喫茶店で見かける時よりも、どこか日常に馴染んだ、少しだけ柔らかな服装をしている。


糊のきいた白いリネンシャツの袖を肘の上まで無造作に捲り上げ、どうやら入荷したばかりの古い本を整理していたらしい。


「こんにちは、薪原さん」

「こんにちは、莉瀬さん。本当によく晴れましたね」


ゆらは一度深く頷き、それから好奇心の赴くままに店内をゆっくりと見回した。


「……すごく、素敵なお店ですね」


その言葉は、取り繕う間もなく自然に唇から零れ落ちていた。決してお世辞などではない。本当に、心の底からそう思ったのだ。


店内の隅々にまで、詩音という人間の本質が息づいている。決して派手ではないし、主張も強くない。けれど、どこに触れても居心地がよく、優しく、そして静かだ。


「ありがとうございます」


詩音は長い指先で少し髪を掻きながら、子供のように照れたように笑った。


「まだ、開店して一年くらいの手探りの店なんですけれど」

「不思議ですね。なんだか、もっとずっと昔から、この街で何十年も続いてきたような落ち着きがあります」

「ふふ、お客さんにはよく言われます。僕のまとう空気が、古臭いせいかもしれませんね」


彼はそう言ってカウンターから出てくると、ゆらの前に歩み寄った。


「もしよろしければ、少し中をご案内しますか?」

「ぜひ、お願いします」


二人は並んで、天井まで届く重厚な棚の間をゆっくりと歩いた。近代文学、海外の詩集、分厚い歴史書、色鮮やかな児童文学、異国の匂いがする外国文学。


本の並べ方一つにも、店主の性格が鏡のように映し出されるらしい。月夜猫の本棚は、一寸の狂いもなく整理されているのに、不思議と窮屈な圧迫感がまったくなかった。


きちんとした秩序があるのに、どこか本たちが息をしやすいような、自由な余白が残されているのだ。


「これは……?」


ゆらは、通路の特等席に設けられた小さなコーナーで、一冊の美しい装丁の文庫本に目を留め、指先で取り上げた。


「それは、僕が個人的にとても大切にしている本です」

「じゃあ、ここは『店主おすすめの棚』なんですね」

「はい。ちょっと贔屓が過ぎるラインナップですけれど」

「ここに並んでいる本、薪原さんは全部読んだんですか?」

「全部、読みました」


少しの迷いもない即答だった。ゆらはその実直さに思わずクスリと笑う。


本当に、狂おしいほどに本を愛している人なのだと、改めて胸が温かくなった。その時だった。


「あれ――」


通路を曲がった店の最も奥まった暗がりに、他とは少し雰囲気の違う小さな棚があることに気づく。


周囲の棚よりも一段背が低く、まるで人目を避けるようにひっそりと佇むその場所。そこに並んでいたのは、すべて「音楽」に関する書籍だった。


偉大な作曲家たちの分厚い伝記。色褪せた海外製の楽譜集。分厚いクラシック音楽史の専門書に、古いバイオリンの演奏論。


ゆらの歩みが、まるで目に見えない障壁に阻まれたかのように、ぴたりと止まった。その変化に、隣を歩いていた詩音もすぐに気づいたらしい。


店内の木漏れ日の光の中で、一瞬だけ、硝子が凍りつくような硬質な沈黙が二人の間に落ちた。スピーカーからは、偶然にもシューマンの『見知らぬ国から』が、極めて小さな音量で流れていた。


その純真でどこか物悲しいピアノの旋律が、二人の沈黙をなぞるように空間を震わせる。


「……どうしても、捨てられなくて」


先にその重い静寂を破ったのは、詩音だった。自嘲気味な、どこか困ったような苦笑を唇の端に浮かべて、彼は自分の長い指先を見つめる。


「本当に、好きだったものだから」


好きだった。彼は明確に、過去形という言葉の檻にその想いを閉じ込めようとした。けれど、それは本当に「過去」の遺物なのだろうか。ゆらは棚に並ぶ背表紙をじっと見つめた。


どの本の角も丸く擦り切れ、何百回、何千回と熱心に読み込まれた痕跡が歴然と残っている。ページの端には何度もめくられた折れ目があり、重要な一節の跡だろうか、細かな付箋の粘着質の跡がうっすらと残っている。


ただ「過去に好きだった」というだけの冷めた感情では、本がこれほど愛おしく使い込まれるはずがない。彼は今でも、狂おしいほどに音楽を愛しているのだ。


きっと、あの時と何も変わらない熱量で。それは他でもない、ゆら自身が胡蝶雲憩でドビュッシーやシューマンの曲が流れるたび、胸を締め付けられながらも、どうしてもその旋律に耳を傾けてしまうのと同じだった。


忘れたいと願いながらも、決して手放すことのできない、魂の半身。二人はその小さな棚の前で、降り注ぐ初夏の光を浴びながら、お互いの胸の奥にある「捨てられない記憶」の温度を、静かに、けれど確かに共有していた。


「――いい棚ですね」


ゆらは静かに、けれど迷いのない確かな声でそう言った。詩音は少しだけ意表を突かれたように、丸眼鏡の奥の瞳を小さく見張った。


「……そうですか? 諦めたものの残骸が詰まった、往生際の悪い棚ですよ」

「はい、とっても」


ゆらは、使い込まれて角の擦り切れた楽譜集の背表紙を、自らの指先でなぞるようにそっと触れた。


「かつて命がけで好きだったものが、捨てられずにそのまま残っている場所って……私は、決して嫌いじゃないです。むしろ、とても愛おしい場所だと思います」


詩音はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ゆらの言葉の温かさを噛み締めるように、静かに長い睫毛を伏せる。


窓から差し込む斜めの光に照らされた彼の横顔は、どこか遠い季節を惜しむように、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。


店の外では、初夏の爽やかな風が優しく吹き抜けている。白く薄い窓辺のカフェカーテンがふわりと揺れ、遮られていた瑞々しい陽射しが、再び黄金色の網目のように古い木の床へと落ちた。雨の気配など微塵もない、完璧な晴れの日だった。


けれど、ゆらは彼の落とした影を見つめながら、静かに思う。人間の心の中には、外の世界の天気とは関係なく、それぞれにしか聞こえない特有の「雨」が降っているのかもしれない、と。


とうに通り過ぎて、止んだように見えても。他人の前では、無理に晴れ渡っているように見せていても。


胸の最深部に降り積もった悲しみや喪失の雫が、完全に消えてなくなってしまうわけではないのだ。だからこそ、人はこうして本を開き、活字の海へと身を沈めるのだろう。


誰かが紡ぎ出した孤独な言葉の連なりの中で、自分だけの、静かな雨音を探し出すために。


「――そうだ」


ふっと、詩音が何かに思い至ったように顔を上げた。それまでの物憂げな空気を自ら振り払うように、目元を和らげる。


「莉瀬さん、お帰りになる前に、この店の中から『あなたのために』一冊、僕に選ばせてください」

「えっ? でも、お礼を言わなければいけないのは、招待してもらった私の方ですけれど……」

「いいえ、今日のお礼です。こんな分かりにくい場所にある僕の店を、迷わずに訪ねてきてくださったので」


ゆらは、彼の頑ななまでの誠実さに、困ったようにクスクスと笑ってしまった。本当に、どこまでもこの人らしい。


先日の本のお礼を形にする代わりに、また新しい物語を贈ろうとする。本を愛し、本を手渡すことを生きがいにしている『月夜猫』の店主らしい、これ以上ないほど温かな歓迎の儀式だった。


「わかりました。薪原店長のおすすめ、楽しみにしていますね」

「はい。莉瀬さんの心の地図にぴったり重なるような、とっておきの一冊を見つけてきます」


詩音は嬉しそうに微笑むと、再びリネンシャツの袖を少しだけ捲り上げ、棚の間へと軽やかな足取りで戻っていった。


店内に流れるシューマンのピアノの音色は、いつの間にか『トロイメライ』へと変わり、晴れ渡った古本屋の空間を、まるで夢の続きのように優しく、穏やかに満たしていくのだった。

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