紫陽花の読書会
六月の終わりが近づいていた。街を濡らし続けた長雨は、季節をゆっくりと次の季節へと押し流していく。
胡蝶雲憩の店先に置かれた大きな鉢植えの紫陽花は、たっぷりと水分を吸い込んで、藍から紫へのグラデーションをいっそう色濃く鮮やかに咲かせていた。
ゆらはいつもの窓際の席で、詩音から手渡されたあの文庫本をそっと閉じた。正確には、これが二度目の読了、つまり再読だった。
一度はすでにとっくに読み終えているというのに、今日彼に返す前にもう一度だけ、どうしてもあの文章に触れたくなったのだ。
世の中には、そういう本が確かに存在する。結末がどうなるかをすでに知っているのに、そこに至るまでの途中の景色や、登場人物たちの心の揺らぎをもう一度だけ確かめたくなる本。
「――人間関係も、同じなのかもしれないな」
ふと、ゆらの脳裏にそんな考えがよぎった。もう十分に知っているつもりになっていても、会うたびに、言葉を交わすたびに、見たことのない新しい一面が静かに露わになっていく。
からん。真鍮のベルが鳴り、湿った風が滑り込んでくる。ゆらが自然と顔を上げると、そこに立っていたのはやはり詩音だった。
「こんにちは、莉瀬さん」
「こんにちは、薪原さん」
いつも通りの、ささやかな挨拶。いつも通りの、穏やかな声。それだけのことなのに、彼の姿を視界に収めた瞬間、胸の奥の張り詰めていた何かが少しだけ安心するのを自覚した。
そんな甘やかな自分に気づかないふりをしながら、ゆらはテーブルの上の文庫本を両手で持ち上げた。
「これ、お返ししますね」
「おや、もう読み終わったんですか?」
「はい。実は……二回、読みました」
詩音が驚いたように丸眼鏡の奥の目を丸くする。
「そんなに短期間で二回も?」
「すごく、好きでした。この物語が」
素直な言葉が口をついて出た。プロの作家になってからというもの、ゆらは他人の本の感想を純粋に口にすることが少しだけ苦手になっていた。
本を開けば、つい職業病のように構造を分析してしまうからだ。全体の構成、張り巡らされた伏線、文章のレトリック。そういう冷徹な見方をしてしまう己に辟易することも多かった。
けれど、詩音が貸してくれたこの本だけは違った。ただの一人の無防備な読者として、物語の海に溺れることができたのだ。
「最後の手紙が交わされる場面が、特に胸に刺さりました」
ゆらが熱を込めて言うと、詩音は相好を崩し、本当に嬉しそうに笑った。
「そこ、僕も一番好きな場面なんです。莉瀬さんにも届いてよかった」
ただ、好きな場面が一致した。それだけのことなのに、暗い霧の向こうで全く同じ美しい景色を二人で眺めているような、不思議な一体感が胸を包み込む。
そこへ、淹れたての珈琲をトレイに載せたキリコさんが、静かな足取りで運んできた。
「おや、今日はお二人で読書会ですか」
「読書会……ですか?」
ゆらが不思議そうに首を傾げると、老店主は細められた目をさらに和らげる。
「ええ。本の話をしている時のお二人は、外の雨のことも忘れて、実にお楽しそうにそう見えますよ」
そう言って、キリコさんはふふと笑いながらカウンターへと去っていった。
読書会。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。お互いのお気に入りの本を交換して、読み終えたらその感想を話し、お気に入りの一節について熱っぽく語り合う。
学校の部活動でもなければ、会社の業務でもない、雨の日の喫茶店の片隅にだけ許された、贅沢で不思議な集まり。
「ねえ、薪原さん。薪原さんが古本屋を始めた理由って……」
ゆらは温かいカップを揺らしながら、何気なく尋ねた。
「やっぱり、何よりも本が好きだったから、ですか?」
詩音は少しだけ視線を落とし、自らの綺麗な指先を見つめて考え込んだ。
「もちろん、それもあります」
「それも、ということは、他にも理由が?」「自分が本当に面白いと思った好きな本って、どうしても誰かに薦めたくなるでしょう?」
ゆらは、一昨日の夜の自分の姿を思い出して深く頷いた。
「だからです。僕の好きな世界を、誰かに手渡したい。ただそれだけなんです」
「それだけ、ですか?」
「ええ、それだけです」
彼は少し照れくさそうに笑った。けれど、そのあまりにもシンプルな答えには、どんな高尚な経営理念よりも強い、妙な説得力が宿っていた。
自分が愛したものを、見知らぬ誰かの元へそっと繋いでいく。
たぶん、古本屋という仕事の本質は、利益や効率だけでは決して説明できない、そういう純粋な情熱の譲渡なのだろう。
「……変、ですかね?」
詩音が少し不安そうに上目遣いで聞いてくる。
「全然」
ゆらは大きく首を振った。
「むしろ、すごく素敵だと思います」
その真っ直ぐな言葉に、詩音は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから耳の端をほんのり赤くして、少しだけ照れたように視線を外した。
それは、いつも穏やかで達観している彼が見せた、初めての珍しい表情だった。ゆらはその横顔を見つめながら、彼がいつもより少しだけ、年相応の青年に見えたことに新鮮な愛おしさを覚えていた。
その時だった。カウンターの向こう側から、少し硬質な声が響いた。
「そういえば、お二人さん」
キリコさんだった。帳簿を閉じ、万年筆をペン立てに戻しながらこちらを見ている。
「来月の初め、数日間だけこの店を休みにしようと思っていましてね」
二人は驚いて、同時にキリコさんの方へと顔を上げた。この年中無休に近い胡蝶雲憩が店を閉めるなど、聞いたことがなかったからだ。
「珍しいですね、キリコさんがお店を休むなんて」
詩音が言うと、老人は静かに微笑んだ。
「ええ。年に一度だけ、どうしても外せない用事がありましてね」
「旅行、か何かですか?」
ゆらが尋ねると、キリコさんは窓の外の紫陽花へと視線を移し、ぽつりと溢した。
「――お墓参りですよ」
それだけを言う彼の声は、いつもよりどこか遠く、低く響いた。
それは、窓外で降り続く雨の向こう側を見つめているような、あるいは、とうの昔に去ってしまった誰かの面影を、この静寂の中で深く思い出しているような、そんな切ない響きを孕んでいた。
スピーカーからは、いつの間にかフォーレの『レクイエム』から、最も美しいとされる『ピエ・イエス』のソプラノの独唱が流れ始めていた。
天上から降り注ぐ光のような、あまりにも清らかな歌声が、雨の店内に厳かに満ちていく。その神聖な音楽は、キリコさんの言葉の重みと静かに同化し、三人の時間を優しく、深く包み込んでいくようだった。
キリコさんの言葉が残した仄暗い余韻を、店内に流れるソプラノの清らかな歌声が優しく洗い流していくように、しばらくすると、二人の話題はまた自然と本の話へと戻っていった。
お互いにどうしても惹かれてしまう作家の癖。技術は素晴らしいのに、なぜか物語の世界に没頭できない苦手な作家。あるいは、読書中にページに挟む栞への、ささやかなこだわり。
他愛のない、けれど世界の誰よりも密やかな言葉を交わしているうちに、気づけばまた一時間以上の豊かな時間が、雨の店内に吸い込まれて消えていた。
窓の外では、相変わらず六月の終わりの細かな雨がしとしとと降り続いている。けれど、セピア色のランプが灯るこの店の中だけは、まるで小さな太陽が閉じ込められているかのように、不思議とどこまでも温かく、明るかった。
「それじゃあ、今日はこれで」
時計の針が夕刻を回った頃、詩音が立ち上がり、会計を済ませて店の重い扉へ手をかけた。
そして、開く直前でふと動きを止め、照れ隠しのように長傘の柄を少し強く握り直してから、ゆらの方を振り返った。
「莉瀬さん」
「はい?」
「もし、よろしければ……今度、僕のお店に来ませんか」
ゆらは不意を突かれ、パチパチと目を瞬かせた。
「薪原さんの、あの古本屋さんですか?」
「はい」
詩音は少し言いづらそうに、けれど真っ直ぐにゆらを見つめながら言葉を続ける。
「莉瀬さんに素敵な本を薦めてもらった、その……お礼に。僕の店にある本の中から、莉瀬さんにぴったりな一冊を、今度は僕に選ばせてほしいんです」
そのあまりにも生真面目な提案に、ゆらは胸の奥から込み上げる愛おしさを堪えきれず、思わずふっと声を立てて笑ってしまった。本を貸してもらったお礼に、本屋へ招待される。
どこまでも不器用で、けれどこれ以上ないほど誠実な、いかにも詩音らしいお礼の形だった。
「――はい、喜んで行きます」
そう答えると、彼は張り詰めていた肩の力を抜き、子供のように少し安心したように深く頷いた。からん、と真鍮のベルが鳴り、青年は雨幕の向こうへと消えていく。
外へ出ると、冷たい雨はまだやまぬまま街を水色に染め続けていた。けれどその日、原稿鞄を抱えて駅へと向かうゆらは、憂鬱なはずの帰り道を、どこか心躍るような気持ちで歩いていた。それは、まだ見ぬ知らない古本屋へ行く予定ができたからではない。
その小さな本屋の主であり、自分の愛した物語を同じように愛してくれたあの青年のことを、もう少しだけ、知りたいと思ってしまったからだった。
スピーカーから流れていたフォーレのレクイエムが静かに終わりを告げ、雨の音が優しく世界を包み込む。莉瀬ゆらと薪原詩音、二人の止まった時間を動かし始めた六月の雨は、小さな約束を未来へと繋ぎながら、静かに降り続いていた。




