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閉じられた蓋

雨は夕方になっても、その勢いを緩めることはなかった。


胡蝶雲憩の古い窓ガラスには、不揃いな細かな水滴がびっしりと並び、外を走る車のヘッドライトや街灯の光を吸い込んでぼんやりと滲ませている。


世界は水膜の向こうに溶け去り、残されたのは、店内の深いセピア色の影と、どこか物憂げな空気だけだった。


ゆらはノートパソコンの液晶画面を開いたまま、じっと一点を見つめていた。白く発光する画面の片隅で、細い垂直のカーソルが、一定のテンポで点滅している。


チカ、チカ、チカ。


それだけだった。その規則的な明滅とは対照的に、物語の文章は一文字も増えていない。十分前から。


いや、一時間前から。もしかすると、昨日からずっと、彼女の思考は同じ泥濘の中で足踏みを続けていた。画面には、主人公の台詞が途中まで残されている。


『――私はきっと。』


そこで、文字の連なりはぷつりと途切れていた。


この先、主人公は何を思うのか。どのような言葉を選び、どんな未来を選択するのか。作者であるはずのゆら自身にも、それがどうしても分からなかった。


いや、本当は胸の奥底で分かっているのだ。分かっているのに、それを言葉にして白日の下に晒してしまうのが怖くて、指先が鍵盤を拒むように動かない。自分の弱さと直面するようなその描写から、無意識に逃げ出しているだけだった。


「――酷い行き詰まり、のようですね」


微かな磁器の擦れる音と共に、目の前に新しい珈琲が置かれた。カウンターの奥から静かに歩み寄ってきたキリコさんが、眼鏡の奥の目を細めて言った。


「……いつものことです」

「それは、なかなかの重症ですね」

「ですよね」


ゆらは力なく笑い、自嘲気味に肩をすくめた。漆黒の珈琲の水面から、香ばしくもどこか切ない湯気がゆらゆらと立ち上る。


それをただぼんやりと眺めていると、静寂を引き裂くように、真鍮の扉のベルが鳴り響いた。


からん。弾かれたように顔を上げる。そこに立っていたのは、薪原詩音だった。


濡れた長傘を丁寧にたたみ、肩に滴る雨粒を払う姿はいつも通り落ち着いている。けれど、今日の彼は、少し大きめのクラフト紙の袋を、大切そうに両手で抱えていた。


「こんにちは、莉瀬さん」

「こんにちは、薪原さん」


彼の姿を見た瞬間、ゆらの唇から自然と柔らかな笑顔が零れ落ちた。最近、この胸の弾みに気づかないふりをするのが、日を追うごとに難しくなってきている。


詩音はいつものように向かいの席へと腰を下ろすと、抱えていた紙袋から一冊の文庫本を丁寧に取り出した。それは、先日ゆらが「あなたに」と手渡した、あの大切な一冊だった。


「読み終わりました」

「おや、もうですか? ずいぶん早いですね」「ええ。昨日の夜、お店を閉めたあとに読み始めたら、どうしても途中で止めることができなくなってしまって」


詩音はそう言って、愛おしそうに文庫本を木目のテーブルに置いた。肉の薄い、しなやかな指先が、名残惜しそうに表紙の紙肌をそっと撫でる。


「……すごく、良かったです」


ぽつりと言ったその一言の輪郭には、一切の飾りのない、純粋な本音がじんわりと滲んでいた。自分が愛した世界を彼も同じように愛してくれたのだと知り、ゆらの胸に温かな灯火がともる。


「嬉しいです。……特に、どの場面が印象に残りましたか?」

「最後の、あの雨の場面です」


詩音はそう言うと、ふと視線を窓の外の歪んだ景色へと向けた。


「抱えていた問題が何一つ解決していないのに、それでも主人公が、ただ傘を広げて前へ進もうと一歩を踏み出すところ」


ゆらは小さく息を呑み、言葉を失った。その感想は、あまりにも意外だった。この小説を読んだ多くの人は、中盤の劇的な告白や、華やかな別れのシーンを一番に挙げる。


けれど、詩音の視線が留まったのは、そこではなかった。


「傷が癒えてから進むんじゃなくて」


彼は遠くを見つめる目のまま、言葉を紡ぎ続ける。


「人は、傷を抱えたまま、進みながら少しずつ解決していくんだなって……この本を読んで、救われたような気がしました」


スピーカーからは、いつの間にかラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が流れ始めていた。


ホルンの深く静かな音色に導かれ、ピアノのどこか哀愁を帯びた繊細な旋律が、雨の店内にゆっくりと広がっていく。


その美しくも切ない音楽の粒子が、窓を叩く細かな雨音と重なり合い、二人の間の空間を優しく満たしていく。


静かで、あまりにも贅沢な時間だった。ゆらは黙って彼の横顔を見つめながら、不意に思った。この人はきっと、物語をただの娯楽として消費するために読んでいるのではない。


文字の一行一行に自分の人生の欠片を重ね合わせ、痛みを分け合うようにして読む。そういう、世界のどこまでも不器用で、優しい読み方をする人なのだ、と。


「莉瀬さん」

「はい」

「一つ、個人的なことを伺ってもいいですか」


詩音は本から視線を戻し、少し迷うような、躊躇うような色を丸眼鏡の奥の瞳に浮かべた。そして、意を決したように声を落とした。


「どうして――小説を書こうと、思ったんですか」


ゆらは、一瞬だけ呼吸を忘れたように言葉に詰まった。その質問は、あまりにも完全な不意打ちだった。


プロになってから、編集者にも幾度となく聞かれた。雑誌のインタビューでも、同じ問いを投げかけられた。それらの公の場所では、ゆらはいつも「それらしい模範解答」を用意し、綺麗に返してきた。


本を読むのが好きだったから。物語の世界に憧れたから。言葉の持つ力に、救われた経験があるから。どれも決して嘘ではない。


けれど、彼女の魂の核心にある「本当の理由」ではなかった。もっと暗く、もっと深く、誰にも、それこそ自分自身でさえ直視したくないほど奥底に沈めてある、たった一つの理由。


――ピアノを奪われ、音楽の光を失ったあの日の私が、誰のことも傷つけずに呼吸をするための、唯一の逃避路だったから。


けれど、そんな重い過去の破片を、いまこの穏やかな青年に対して吐露していいはずがなかった。


「……そうですね、少し、難しい質問ですね」

「あ……すみません、急に変なことを聞いてしまって」

「いえ、大丈夫です」


ゆらは心の動揺を隠すように、目の前の白磁のカップを両手で包み込み、珈琲にそっと口をつけた。気づけば、琥珀色の液体は少しだけ冷め始めていた。


それでも、口内に広がる独特の苦味は、少しも変わることなく、彼女の迷える心を静かに支えてくれているようだった。


「たぶん――」


迷宮の底から一本の細い糸を手繰り寄せるように、自分でも驚くほど自然に、その言葉が唇から滑り落ちていた。


「言葉の世界なら、明確な勝ち負けがないと思ったんです」


詩音が、丸眼鏡の奥の瞳を静かに持ち上げ、ゆらの顔を真っ直ぐに見つめた。その眼差しはどこまでも穏やかで、彼女の言葉をただ一滴も零さないように受け止めようとしていた。


ゆらは一度、珈琲の湯気の向こうへ視線を落とし、それからまた静かに言葉を続けた。


「私、昔……小説とは別のことを、ずっとやっていて」


そこまで言って、ゆらは喉元まで出かかった単語を呑み込み、そっと口を閉じた。


それが「ピアノ」であるとは、どうしても言えなかった。その二文字を口にしてしまえば、あの白と黒の鍵盤が、コンクールの冷徹な舞台が、そして激しく泣いていた少女の顔が、今にもこのセピア色の空間に溢れ出してしまいそうで、まだ勇気が出なかった。


「その世界には、絶対的な順位があったんです。どれだけ心を込めても、どれだけ努力を重ねても、最後には数字で区切られてしまう」

「……」

「誰かが一位という栄誉を手に入れれば、そのすぐ隣で、誰かが二位に落とされて涙を流す。私の喜びが、誰かの絶望の上にしか成り立たない。……私は、それがどうしても怖かったんです」


窓の外を、一台の車が大きな水しぶきを上げながら走り去っていった。ザザーッと激しく水を跳ね上げるその音が、まるで彼女の張り詰めた告白を外の世界から遮断するように、鈍く響いて消える。


すべてを語ってしまったあと、ゆらは己の胸の奥底が、驚くほど静かに、そして少しだけ軽くなっていることに気づいた。抱えている傷の、ほんのちっぽけな一部に過ぎない。


けれど、これは今まで両親にも、担当編集者にも、誰一人として話すことのなかった、彼女の魂の最も柔らかい部分だった。詩音は、何も言わなかった。


安易な同情の言葉をかけるわけでもなく、「そんなことないよ」と優しい慰めを口にするわけでもない。


もちろん、前を向かせるような励ましもしない。彼はただ、ゆらの言葉の余韻を噛み締めるように、じっと静かに耳を傾けていた。その沈黙の深さが、今のゆらにとっては何よりもありがたく、救われるような心地がした。


しばらくの沈黙のあと、詩音は小さく、深く頷いた。


「……わかる気がします」


その声は、消え入りそうなほどに静かだった。けれど、そこには自らも同じような痛みを経験した者にしか宿らない、確かな実感を伴った重みがあった。


ゆらは、彼をじっと見つめた。詩音は再び、歪んだ窓の向こうで降り続く灰色の雨を見つめていた。


その横顔は、まるで彼自身も、胸の奥底に仕舞い込んだ「何か」を静かに思い出しているかのようだった。言葉にすることを拒む、不器用な過去を。あの日からずっと、重い蓋を閉じたままにしている鮮烈な記憶を。


二人の間には、まだお互いに知らないことの方が圧倒的に多い。彼がなぜバイオリンを人前で弾かなくなったのかも、その大切な先生をどうして亡くしたのかも、核心の半分すら見えてはいない。


けれどその日、雨の日の胡蝶雲憩の片隅で、ゆらは生まれて初めて確信に近い予感を覚えていた。もしかすると。


いつか、この人になら。私の止まってしまった時間のすべてを、残さず話せる日が来るのかもしれない、と。カウンターの奥では、キリコさんがかけたのだろう、古いレコードが静かに回り続けている。


レコード針が拾う微かなノイズと、窓を叩く途切れない雨音。その幾重もの音のカーテンの向こう側で、シューベルトの即興曲のピアノの旋律が、二人の静かな時間を祝福するように、どこまでも優しく、切なく鳴り響いていた。

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