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世界の欠片

街に、またあの雨が戻ってきた。二日ばかり続いた気まぐれな五月晴れは、まるで一時の幻だったかのように去り、空は何事もなかったかのようにどんよりとした鉛色に曇っていった 。


そして夕方を迎える頃には、煙のように細かな雨が、しとしとと街全体を濡らし始めていた。胡蝶雲憩の窓ガラスを、無数の透明な雫が境界線を無くしながら、静かに、ゆっくりと流れていく。


ゆらは自分の原稿鞄の奥に手を伸ばし、そこに収まった一冊の文庫本の感触を指先で確かめた。一度。二度。本当は店に到着してから、もう何度も同じ確かめ方を繰り返している。


今日こそ、あの青年に渡そうと決めていた。薪原詩音に。私が彼のために選んだ、とっておきのおすすめの本を。


先日、詩音から借りたあの古い文庫本は、一昨日の夜にすべて読み終えていた。物語はとても面白かった。


けれど、面白いという言葉で片付けるより、何よりもあの「詩音らしい本」だった。文字の行間から、どこか彼の纏う空気に似た、静かで、優しくて、けれど心の奥をツンと突くような少しの寂しさが漂ってくるのだ。


読んだあと、誰かに会いたくなる本かつて彼が口にしたその説明は、少しの誇張もなく、美しく真っ直ぐに芯を捉えていた。だからこそ、今度は自分の番なのだと、ゆらは密かに胸に誓っていた。真鍮の古びたノブを押し回すと、からん、と濡れた大気を優しく弾くように、いつもの真鍮のベルが鳴り響いた。


「いらっしゃい」


カウンターの奥で珈琲の湯気を湛えながら、キリコさんが穏やかに微笑む。


「こんにちは、キリコさん」

「おや、莉瀬さん。今日はずいぶんと、何かに決意したような凛としたお顔をされていますね」

「……またですか? 私、そんなに分かりやすい顔をしていますか」

「ええ、とても。まるで、これから大切な章を書き始める時の、真剣な作家さんの顔ですよ」


何でも簡単に見抜かれてしまう。やはりこの老店主には、逆立ちしても敵わないなとゆらは苦笑した。その時だった。


「こんにちは、莉瀬さん」


耳に馴染んだ、あの低く透明感のある声がすぐ背後から滑り込んできた。思わず肩を揺らして振り向くと、そこには長傘をたたんだ詩音が立っていた。


少し濡れた黒髪を、細くしなやかな指先で無造作にさらりと払っている。彼は相変わらず、周囲の喧騒を消し去るような独特の静けさを纏っていた。


けれど、今日この雨の店内で、彼に「会えた」というその事実に、胸の奥ですうっと安堵している自分に気づき、ゆらは少しだけ困惑した。別に、今日ここで待ち合わせる約束をしていたわけではないのに。


「こんにちは、薪原さん」

「お久しぶりです、莉瀬さん」

「ふふ、お久しぶりって……まだ三日ぶりですよ?」

「そうでしたね。でも、この胡蝶雲憩の空気の中にいると、不思議とそれだけでもずいぶん長い時間が経ったような気がしてしまいます」


詩音は目元を細めて、困ったように笑った。確かに彼の言う通りかもしれない。セピア色のランプが灯るこの空間では、外の世界とは明らかに時間の刻むステップが違っている。


二人はごく自然に、窓際の向かい合う席へと腰を下ろした。ゆらは鈴蘭の刺繍の入った椅子カバーの席。詩音は紫苑の刺繍の椅子カバーの掛けられた席。以前なら、それは席が空いていたというだけの偶然だった。


けれど、今は違う。少なくとも、お互いがその距離にいることを、心地よいと感じていることは間違いなかった。


少しの間、他愛のない世間話や雨の日の景色の変化について言葉を交わした。そして、会話がふっと途切れたその瞬間。ゆらは意を決して、膝の上の鞄の中へすっと手を伸ばした。


(今だ――)


胸の中で小さく、自分を鼓舞する。なのに、どうしてだろう。心臓の鼓動がほんの少しだけ速くなり、指先が緊張でわずかに震えた。ただ、本を一冊手渡すだけのことなのに、まるで自分の心の奥底を覗かせるような、気恥ずかしさが込み上げてくる。


「あの、薪原さん」

「はい?」

「……これ。私の、おすすめの本です」 


ゆらは原稿鞄から取り出した文庫本を、そっと両手で差し出した。詩音は驚いたように、丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。

「あ――」

「この前、次に会う時に持ってきますって、約束、していましたから」


口にしてから、自分がひどく生真面目に彼の言葉を覚えていたようで、急に顔が熱くなるのを感じた。


ゆらは照れ隠しに、視線を窓の外の雨脚へと逸らす。詩音は差し出された本を、壊れやすい硝子細工を扱うかのように、長い指先で慎重に受け取った。彼の手のひらの上で、文庫本が静かに収まる。


詩音はその美しい指先で表紙の手触りをなぞり、そこに刷られたタイトルを、声に出さずに唇の動きだけでゆっくりと読んだ。


それから。彼は胸の奥から溢れ出るような、本当に、心底嬉しそうな極上の笑顔を浮かべて、ゆらを見つめ返した。


その瞬間、スピーカーからはフォーレの『シシリエンヌ』が流れ始めていた。フルートの哀愁を帯びた、けれどどこか優美な旋律が、ハープの爪弾く繊細な分散和音に乗って、雨の店内に切なく響き渡る。


そのどこか切なくも温かい音楽の粒子が、本を媒介にして繋がった二人の距離を、より一層優しく、深く包み込んでいくようだった。


「ありがとうございます、莉瀬さん。大切に、大切に読ませていただきますね」


詩音の声は、流れ出したフォーレの旋律のように、ゆらの胸の隙間へと、深く、穏やかに染み渡っていった。


「ありがとうございます」


その心底から溢れたような詩音の表情を見て、ゆらの胸を占めていた緊張の糸が、ようやく静かに解けていった。張り詰めていた肩からすうっと力が抜けていく。


「……実は、すごく迷ったんです。薪原さんに渡す一冊をどれにするか」

「そうだったんですか?」

「ええ、本当に、すごく」


ゆらは嘘偽りのない本音を漏らした。昨日の夜、自宅のささやかな本棚の前で、一時間以上も立ち尽くして悩んだのだ。自分がただ個人的に執着している本と、誰か他人に自信を持って薦めたい本は、性質が全く異なる。


ましてや、その手渡す相手が、あの繊細な感性を持つ詩音であるなら、なおさらのことだった。


「どうして、最終的にこの本を選んでくださったんですか?」


詩音に穏やかな声で尋ねられ、ゆらは指先で白磁のカップを包み込みながら、少しの間、自分の胸の奥の理由を確かめるように思考を巡らせた。


「……たぶん」

「たぶん?」

「……この物語の持つ静けさと温度が、薪原さんにすごく、似合いそうだなと思ったから」


詩音は愛おしそうに文庫本のページを繰り、その特有の古い紙の匂いを吸い込むように、最初の一文へと視線を落とした。活字の海を優しくなぞったあと、彼は名残惜しそうにパタンと本を閉じた。


「……嬉しいです」


ぽつり、と、胸の底から湧き上がったような言葉が彼の唇から零れ落ちた。


「誰かから、こうしてあなたにって本を薦めてもらえるのって、本当に特別なことですね」

「そんなに、喜んでもらえるものですか?」

「はい」


彼は手のひらの上の文庫本を、まるで宝物でも見つめるかのように、慈しむような眼差しで見つめた。


「本を誰かに薦めるっていうのは、その人が自分の中に大切に持っている好きな世界の一部を、そのまま分けてくれるっていうことだから」


ゆらは、彼の紡いだ言葉の優しさに、思わず適切な返事を見つけられずに黙り込んでしまった。


今まで、本を貸し借りするという行為を、そんな風に深い意味を持って捉えたことがなかった。けれど、詩音の言う通り、確かにそうかもしれない。本棚という場所は、言わばその人の心の地図のようなものだ。どんな物語に胸を痛め、どんな言葉を自らの生きる標として大切に隠し持っているのか。


その人の歩んできた軌跡のすべてが、背表紙の列に詰まっている。だからこそ、その地図の中から他人のために一冊を選び抜くということは、案外、自らの心の内側を曝け出すのと同じくらい、特別で、少しだけ勇気の要ることなのかもしれない。


「じゃあ」


詩音が顔を上げ、丸眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐにゆらへと向けた。


「一文字一文字、取りこぼさないように、ちゃんと、大切に読みますね」

「ふふ、そんなに気負わずに、気楽に読んでください。……でも、読み終わったら、感想はぜひ聞かせてほしいです」

「もちろん。一番に、莉瀬さんに伝えにきます」


その、未来へと繋がった小さな約束が、ゆらの胸をじんわりと満たしていく。自分の書いた小説の評価ではなく、自分の愛した物語の感想を、どうしても聴きたいと思える相手がすぐ目の前にいる。


そのこと自体が、今のゆらにとっては奇跡のように愛おしい変化だった。スピーカーからは、いつの間にか曲が変わっていた。サン=サーンスの『白鳥』。


バイオリンが奏でる、どこまでもなだらかで優美な旋律が、雨の日の胡蝶雲憩の空気を静かに震わせ、窓を叩く細かな雨音のビートと重なり合っている。キリコさんは相変わらず、カウンターのセピア色のランプの下で、微動だにせず自らの本の世界に没頭していた。彼の翠色に桜の描かれた厚手のカップから湯気がどんどん逃げていく。


窓の外の薄水色の街並みでは、色とりどりの傘が、それぞれの生活を抱えて、ただ淡々と行き交っている。どこにでもある、梅雨のありふれた平日の午後。


けれど、ゆらは窓ガラスを伝う雫を見つめながら、ふと思った。もしかしたら人間の人生というものは、こんな風に、他愛もない小さなやり取りの積み重ねによって、本人の気づかないうちに少しずつ、けれど劇的に変わっていくものなのかもしれない、と。


本を貸す。本を返す。そして、その物語が残していった余韻について、温かい珈琲を挟んで言葉を交わす。ただそれだけ。文字にしてしまえば、それだけのこと。


それなのに、どうしてだろう。パソコンの液晶画面に向かうゆらの指先は、先ほどよりも不思議なほどに温かく、満ち足りた熱を帯びていた。詩音は再び、自分の手のひらの中にある文庫本の表紙を、まるで壊れやすい記憶の結晶を受け取ったかのように、静かに見つめ続けている。


その、どこか浮世離れした、けれど確かにこの場所に佇む彼の横顔を見つめながら、ゆらは手元の珈琲にそっと口をつけた。気づけば、琥珀色の液体はすっかり冷めて、ぬるくなってしまっていた。


それでも、今日のその珈琲の苦味は、いつもよりずっと、深く美味しく感じられた。


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