着物姿の雅人
その日は、この季節にしては珍しく、抜けるような青空が広がっていた。
六月の梅雨時とは思えないほど天の天井が高く、いつも街を覆っていた重たい雨雲の影はどこにも見当たらない。
遮るもののない太陽から放たれた初夏の陽射しは、カフェカーテンの隙間を抜けて胡蝶雲憩の飴色の床へと滑り込み、古い木肌を淡く、温かそうに照らし出している。ゆらはいつもの窓際の席に腰を下ろし、静かに珈琲を口に運んでいた。
今日、この店に詩音の姿はなかった。もともと次に会う約束を交わしていたわけでもない。会えなくて当然の、ただの偶然が重なっていただけの間柄。それなのに、真鍮の扉がからんと鳴り響くたび、期待を隠しきれない視線がどうしても入り口へと向いてしまう自分に気づき、ゆらは小さく息を吐いた。
マットな青磁色のすずらんのカップから、苦味を孕んだ湯気がゆっくりと直線を描いて立ち上る。
陽光に透ける湯気の向こう側で、いつもの見慣れた店内の景色が陽炎のようにぼんやりと揺れていた。原稿の締め切りは、相変わらず容赦なく目の前に迫っている。
ノートパソコンの中の物語も、相変わらず思うようには進んでいない。それなのに、今日に限っては、胸を焦がすような焦燥感は不思議なほどに息を潜めていた。
心地よい南風が窓辺を吹き抜け、レースのカフェカーテンを優しく揺らす。そのカーテンの裾に吊るされた、多面体にカットされた小さな硝子のプリズムが、真っ直ぐな太陽の光を真正面から受け止めた。
きらり、と。眩い閃光が走った次の瞬間、薄暗い店の壁や重厚な本棚の背表紙を横切るように、一本の鮮やかな光の帯が浮かび上がった。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。色とりどりのグラデーションを描く美しい虹の破片が、セピア色の空間を幻想的に彩っていく。
「――綺麗ですね」
物語の言葉を紡ぐのとは違う、無防備な感嘆がゆらの唇から零れ落ちた。カウンターの奥で古い帳簿にペンを走らせていたキリコさんが、眼鏡の縁を指で押し上げながら顔を上げる。
「ええ。この店に、晴れの日だけやってくる特別なお客さんですよ」
「お客さん、ですか?」
「そう。気まぐれな虹の精です。雨の日には決して姿を見せてくれませんからね」
ゆらはその詩的な言い回しに、ふっと胸を和ませて微笑んだ。なるほど、時間がゆっくりと流れるこの胡蝶雲憩にふさわしい、粋な表現だった。
その時だった。からん、と。静かな空間を弾くように、真鍮の扉のベルが一段と涼やかな音を立てて鳴り響いた。
入ってきた人物の姿を視界に捉えた瞬間、ゆらは思わず持っていたカップを止め、目を瞬かせた。そこに立っていたのは、見事な着物姿の女性だった。
年齢は二十代の半ばほどだろうか。艶やかな黒髪を後ろで緩くお団子状にまとめ、涼やかで理知的な顔立ちをした、目を引くような美人だった。
けれど、何よりもゆらの視線を釘付けにしたのは、彼女が身に纏っているその着物の佇まいそのものだった。きっちり。とにかく、非の打ち所がないほどにきっちりとしているのだ。
おはしょりのラインは定規で引いたように真っ直ぐで、衿元は喉元をキリリと締め上げ、帯は一寸の緩みもなく完璧な位置で固定されている。
まるで伝統的な着付け教室の教科書からそのまま飛び出してきたかのような、あるいは高級雑誌のグラビア撮影の帰り道ではないかと思うほど、そこには一切の隙がなかった。すると、カウンターの奥のキリコさんが、驚く様子もなく至極見慣れた様子で、のんびりとした声をかけた。
「おや、星埜さん。随分とまあ、四角四面な整った着方をしていますね。……さては、またあそこで捕まりましたか?」
「ええ、もう最悪です……。そこの商店街の角で、着物警察のお姉様方に囲まれてしまいまして……」
星埜と呼ばれた女性は、形の大変良い眉をハの字に曲げ、心底うんざりしたといった風に深い溜め息を吐きながら答えた。
彼女は店内に一歩足を踏み入れるなり、まるで窮屈な鎧を脱ぎ捨てるかのように、器用な手つきで自らの半衿の隙間へすっと細い指先を差し込んだ。
そのまま衿元を少し後ろへ引き、布地に絶妙な遊びを持たせる。さらに、脇の余った布地をあえて少し弛ませるように引き下げ、一分の隙もなかった帯揚げの結び目をほんの少し引き出し、腰紐の締め付け具合を絶妙な位置へと調整していく。
ほんの数十秒、流れるような無駄のない動作だった。するとどうだろう。先ほどまでの、息が詰まるほど完璧だったはずの着付けが、魔法のようにみるみるうちに、彼女自身の持つ、大人の女性らしい柔らかで粋な雰囲気へと様変わりしていったのだ。
それはまるで、堅苦しいクラシックの楽曲が、演奏者の手によって心地よいジャズのアレンジへと生まれ変わる瞬間を見ているかのようだった。
「好きなように着たいのに。私はもっと、こう、ゆるーっと普段着として楽しみたいんですよ」
「それはお気の毒に」
「もう本当に、お節介ったらありませんわ」
女性はそう言って、再び小さなため息をこぼした。固さの取れた着物の胸元を優しく撫で下ろし、そこでようやく、窓際に佇むゆらの存在に気づいたらしい。
「あ――」
視線が真っ直ぐに交差した。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
女性は上品に、けれど気取らない様子でぺこりと頭を下げた。先ほどまでの完璧な着付けの時に漂わせていた、冷たいほどの美貌はどこへやら、今の彼女からはどこか親しみやすく、陽だまりのような温かさが滲み出ている。
「初めまして、ですよね?」
「はい、そうです」
「私は星埜雅と申します。そこの商店街の裏手で、小さな和菓子屋を営んでおりまして」
「莉瀬ゆら、です。……小説を、少し書いています」
お互いに名前を交わす。雅は
「小説家さんですか! よろしくお願いします」
と、満面の笑みを浮かべて微笑んだ。その屈託のない笑顔には、初対面の緊張を一瞬で溶かしてしまうような、妙な安心感があった。まるで、ずっと昔から知っている親しい友人と、偶然どこかの旅先で再会したかのような、不思議な懐かしさ。
「星埜さん、いつものですか?」
カウンターの奥から、キリコさんの穏やかな声が飛ぶ。
「ええ、お願いします」
「ダージリンでよろしいですか?」
「うーん、今日は少し濃いめの気分なので、アッサムにしてください」
「承知しました。少しじっくりと蒸らしますね」
どうやら彼女は、この店では珈琲ではなく紅茶を嗜むのが定番のようだった。やがて、ガラスのティーポットの中で濃い琥珀色に色づいた紅茶が、カップへと注がれる。カウンターを越えてゆらの席へと漂ってきたのは、麦芽を思わせる甘く豊かな、どっしりとしたコクのある香りだった。
雅は嬉しそうに目を細め、運ばれてきたカップを白く繊細な両手で愛おしそうに包み込む。苺に苺のツタに苺の花。とにかく苺づくしの金色の縁のカップ。
「はぁ、やっぱり、お茶をいただいている時が一番落ち着きますねえ」
「……星埜さんは、珈琲はあまり召し上がらないんですか?」
ゆらが素朴な疑問を投げかけると、雅は少し首を傾げ、カップの縁を見つめた。
「飲めなくはないんですけれど。……なんて言えばいいのかしら、紅茶のほうが、より多くの物語が隠れていそうな気がしませんか?」
「物語、ですか?」
「はい」
雅は少女のように瞳を輝かせ、楽しそうに語り始めた。
「珈琲って、どこか一本筋が通っている感じがするんです。職人さんが頑固に守り抜いた、ブレない軸があるというか。でも、紅茶はもっと、いい意味で寄り道をしている感じがするんですよ」
「寄り道……」
「ええ。産地による茶葉の個性の違いもそうですし、淹れる時のお湯の温度や、ほんの数十秒の蒸らし時間、それに合わせる砂糖やミルクのひとさじで、味がくるくると表情を変えるでしょう? その、自由でふわふわとした、曖昧な余白が好きなんです」
変わった、けれど実に彼女らしい瑞々しい表現だった。物事を白黒はっきりつけるのではなく、その間にあるグラデーションを愛するような視点。
それは物語を紡ぐゆらにとっても、ひどく心地よく響く言葉だった。ゆらは自然と声を立てて笑っていた。
それを見て、雅も満足そうに微笑む。二人の間に、晴れの日の木漏れ日のような柔らかな空気が静かに広がっていった。その時、窓辺のプリズムが南風に吹かれて、くるりと小さく回転した。集められた太陽の光が再び強く弾け、壁に描かれていた小さな虹の破片が、雅の着ている薄緑色の紬の肩口を鮮やかに横切った。
「あら」
雅が自分の肩に落ちた光の色に気づき、細い目をさらに丸くする。
「今日は綺麗な虹が出ているんですね」
「晴れの日限定の特別なお客さんらしいですよ」
ゆらが先ほどのキリコさんの言葉をそのまま受け売りで伝えると、雅は面白そうにクスクスと肩を揺らした。
「ふふ、それ、絶対にキリコさんが仰いましたよね?」
「ええ、見事にその通りです」
「もう、相変わらずずるいなぁ。そんな素敵な言葉、どこで仕入れてくるのかしら」
カウンターの向こう側で、キリコさんが帳簿から目を離さないまま、おどけたように肩をすくめてみせる。
「やれやれ。年寄りの仕事というのは、若者に対してそれっぽい風情のあることを言って、煙に巻くことですからね」
「ほら、やっぱりずるい」
雅はアッサムの上品な苦味を味わいながら、可笑しそうに笑った。窓の外に広がる、どこまでも高い初夏の青空。飴色の壁の本棚をゆっくりと渡っていく、小さな虹の光。
そしてスピーカーの奥からは、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲』が静かに流れ始めていた。
クラリネットの温かくまろやかな音色が、弦楽器の細やかな刻みと優しく溶け合い、晴れた午後の陽だまりを音符に変えたかのように、どこまでも穏やかで幸福な旋律を奏でている。
その音楽を聴きながら、新しく目の前に現れた常連客の横顔を見つめ、ゆらはふと思った。この胡蝶雲憩という不思議な場所は、ただそこにあるだけで、磁石のように人を惹きつけ、連れてくるのかもしれない。
棚に眠る古い本が、見知らぬ誰かの心を呼び寄せるように。店内に響く美しい音楽が、言葉にできない傷を抱えた人々の心を、目に見えない糸で繋ぎ合わせていくように。
雨の日も、そしてこんな風に光が溢れる晴れの日も。この扉を押し開けた先には、不思議と、優しく愛おしい誰かの「物語」が自然と集まってくるのだった。ゆらはノートパソコンの画面をそっと閉じ、今度は自分の手元にある新しいアッサムの香りに、静かに意識を委ねてみた。




